ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

赤い公衆電話ボックスの設計者

2020-11-18 22:01:23 | イギリスのあれこれ

今月9日のグーグルのロゴマークは、こんなことになっていました。

イギリス名物の赤い公衆電話ボックスです。

ロゴをクリックしてみたところ、理由がわかりました。

11月9日は電話ボックスの設計者の、120回目の誕生日だったそうです。

 

イギリスの街角でお馴染みの、かわいい赤い電話ボックス。目立つという理由で、赤が選ばれました。

携帯電話の普及により近年は減少傾向にあるのが残念です。

       

 

もっと今風なデザインのもあって、我家のある住宅地にあるのはこのタイプだったんですが、

公共物破壊行為により壊され長期間放置されたのち、撤去されました・・・。

 

赤い公衆電話ボックスを設計した、ジャイルズ・ギルバート・スコット(Giles Gilbert Scott,1880-1960)氏。

     

祖父は有名な建築家のジョージ・ギルバート・スコット(1811-1878)で父親も建築家という、建築家の家系に生まれました。

6人兄弟のうちのひとりでしたが、彼が3歳のときに父親(ジョージ・ギルバート・スコット・ジュニア、 1939-1897)が精神を病み、

一時的に入院。父親は祖父の死後精神的に不安定になり、アルコールを大量に摂取し、肝硬変で死亡しました。

スコット氏がのちに語ったところによると、彼が父親に会ったことを覚えているのは2回きりでした。

母子はロンドンに住んでいましたが、週末になると母親は子供たちを田舎の農場に連れ出し、サイクリングに出かけては

付近の建物をスケッチさせ、建築に興味をもつよう導きました。

     

1901年、リヴァプール大聖堂(Liverpool Cathedral)の建築が決まり、設計は一般公募されることになりました。

建築の道に進んだ若きスコット氏も応募し、1903年に、彼の設計が選ばれました。

当時彼は、若干22歳。まだ経験も浅く大きな建築物を手がけた実績もなかったため、審査段階で不安の声も上がりましたが、

見事それを跳ね除けました。大聖堂は長さが189m(外側)もあり、世界一長い大聖堂なのだそうです。

建築は1904年に始まりましたが、二度の世界大戦による建築材や人力不足、また空襲により損壊もされたため遅れに遅れ、

ようやく完成を見たのはスコット氏の死後の1978年のことでした。またデザインも、当初のものから何度か変更がありました。

例えば当初のデザインにはふたつの塔が並んでいましたが、大聖堂建築委員会の要望で塔はひとつだけということになり、

スコット氏は一年かけて85mある塔をいただく大聖堂をデザインし直し、1910年11月に晴れて承認されたそうです。

     

リヴァプール大聖堂の設計を手がけたスコット氏の名声は高まり、教会関係・大学関係の建築物設計の依頼が入るようになりました。

 

さて英国の郵政省は、1921年に最初の公衆電話ボックス(Kiosk)の設置を開始しました。

K1 (Kiosk No.1)と呼ばれるそれはコンクリート製で、デザインは不評でした。

 

そこで郵政省は公衆電話ボックスのデザインを変えることにし、3名の建築家を選び、デザインを依頼。

スコット氏はその3名のうちの一人でした。

当時スコット氏は、ロンドンにあるサー・ジョン・ソーンズ美術館の管財人に任命されたばかり。

彼は高名な建築家だったジョン・ソーン氏(1753-1837)が自ら設計した家族用のマウソレウム(墓廟)にインスピレーションをもらって

電話ボックスをデザインしました。

 

審査の結果彼のデザインが選ばれ、郵政省の K2 (Kiosk No.2)として鋳鉄で製造され、

1926年からロンドン市内外に設置されるようになりました。

スコット氏は K2 を外側は銀色、内部は緑がかった青にするよう提案しましたが、目立つという理由で赤に決まったそうです。

 

1929年にふたたびスコット氏により設計された K3K2 と似通っていますがコンクリート製で、K2 よりは製造費が安いものの

K1 と比べると高くつきました。

 

郵政省は1932年に K2 のデザインに手を加え、郵便物の投函口とその両側に切手の販売機を付け加えました。

K4 (Kiosk No.4) の誕生です。

しかしながら、誰かが公衆電話で通話中に別の人間が販売機から切手を買うと、音がうるさくて通話の邪魔になること、

また内蔵された切手のロールが湿気を帯びてくっついてしまうことが報告されました。

そのせいか、K4 はわずか50台しか製造されませんでした。

 

K5 は1934年に、展示会用として試作されたらしいモデルですが、詳しいことはよくわかりません、すみません。

 

K6 は1935年にジョージ5世の在位25周年(シルバー・ジュビリー)を記念してデザインされたものなので、

“ジュビリー・キオスク” としても知られるようになりました。

1936年に製造が始まり、ロンドン市内外のみならず全国各地へと設置が拡大していきました。

英国の公衆電話数は1935年は19,000台でしたが、K6 の普及により1940年には35,000台に増えました。

K6 のデザインを手がけたのもスコット氏で、K2 より小型化することで製造コストが抑えられ、占める歩道のスペースも小さくなりました。

 

その後スコット氏ではない建築家により1959年に K7 が設計されましたが、試作段階までで終わり。

1968年には K8 が設計されましたが、K8 も普及はしませんでした。

1980年代に入ると電話産業が郵政省から切り離されて民営化され、BT(British Telecom)に運営されることになります。

当時最も普及していた公衆電話ボックスは K6 型でしたが、BT はすべての電話ボックスの赤色を、BT のイメージカラーである

黄色に塗り替えると発表。これは大衆の猛烈な反対に遭い、国会でも問題になり、最終的に BT は

「この馬鹿げた計画を破棄」するよう勧告されました。

BT はそれに応じたものの、赤い電話ボックスは身体に障害のある人には使い辛く、換気が悪く、スペースが乏しいなどの

欠点があると考え、その後新たな現代風のデザインの電話ボックスを設計し製造し設置するようになりました。

    

  

 

しかし今世紀に入り携帯電話が飛躍的に普及するにつれ、公衆電話の必要性は激減。

そのため BT は、滅多に使われることのない公衆電話ボックスの撤去を進めています。

 

Hanging up on a true national treasure:We still make 33,000 calls a day from them but a third go unused for weeks.

That's why BT bosses are set to remove thousands of classic red phone boxes (Daily Mail, 17 August 2017)

 

でもそこは、国民に長いこと親しまれてきた“おらが国の名物”ですから。

赤い電話ボックスを保存すべく、その有効利用法があれこれ試行錯誤されています。

私も以前、記事にしていました。

変身した公衆電話ボックス・第3弾

 

こんな記事も見つけました。・・・コーヒーショップか、やるぅ~!

【イギリス】 ロンドン名物、赤い公衆電話ボックスでおいしいコーヒーはいかが!?

 

というわけで、赤い公衆電話ボックスを設計したのは、1960年に79歳で亡くなったサー・ジャイルズ・ギルバート・スコットだというお話でした。

ちなみにスコット氏の叔父さん(John Oldrid Scott)、弟さん(Adrian Gilbert Scott)、息子さん(Richard Gilbert Scott)も

建築家だったそうです。本当に建築家の家系だわぁ!

 

最後に、スコット氏が公衆電話ボックス以外に設計したものを、いくつか挙げておきましょう。

彼が途中から設計に加わったという、バタシー発電所

 

第二次世界大戦後に再建設されたバンクサイド発電所も、スコット氏の設計だったそうです。

この発電所は1981年10月末に閉鎖されましたが、巨額の改装工事によって生まれ変わり、

2000年5月にテート・モダンとしてオープンしました。

 

 

再建され1942年に開通した二番目のウォータールー橋を設計したのも、スコット氏だったそうです。

第一次世界大戦によって引き裂かれた恋人たちの悲恋を描いた映画『哀愁』(1940年)、原題は Waterloo Bridge でしたね。

『風と共に去りぬ』のヴィヴィアン・リーが悲劇の踊り子を演じていて、泣かせます・・・。

あの映画の中で二人が出会った橋は、スコット氏設計のものではなくその前にあった最初の橋ということになりますが。

 

 

スコット氏は1924年に、後半生の自宅となる家も自ら設計。

そのデザインは1928年の王立英国建築協会のロンドン市街建築賞を獲得したそうです。

ロンドン・パディントン地区にあるチェスター・ハウス(Chester House)です。

 

(まぁ~大きな家だこと!玄関ドアが装飾的で素敵

 

 

*       *       *

 

マウソレウムという耳慣れない言葉を調べていて、タージ・マハルもマウソレウム(墓廟)の一例であることを知りました。

タージ・マハルというと、すぐ思い浮かぶのがこの画像。

昔の皇帝が死去した愛妃のために建設した墓廟の前に一人座る、夫に愛されなかったダイアナ妃・・・

哀しい皮肉を感じてしまうのは、私だけではないはず・・・。

 

電話ボックスに話を戻しますが、私は昭和の時代の、こんなタイプのを覚えていますよ!

中に入ってしゃがんでしまうと、外からは見えないタイプ。

(画像はこちらから拝借しました。ありがとうございました。)

懐かしい~! これを覚えている方、ぜひお友達になりましょうっ!!

 

コメント    この記事についてブログを書く
« 便利なシャンプー・キャップ | トップ | 結婚73周年! »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

イギリスのあれこれ」カテゴリの最新記事