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江ノ口川異聞、の巻 [折々散歩]

前回、前々回と、江ノ口川の写真を、続けて記事にしました。駅からホテルに向かう道すがら、同窓会場に向かう時にも、朝散歩の折にも、沿道を通り、また橋を渡る機会がかさなりましたので。


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この江ノ口川について以前こんなことを書いたことがありました。


悪夢のインフルエンザ体験(追憶の昔語り)(2014-01-28)


P 人生に早や疲れたる人のごと
   うらぶれて吾は受験に旅ゆく
Q 飽くほどの長き道程(みちのり)たどり来て
汽車は土佐路に我をはこびぬ
R 「地の果て」と溜め息もらす友もあり
  南国高知は雲厚くして
S 高校の先輩と名乗る人あまた
  宿訪ね来てしばし和みぬ
T 快く土佐の言葉は耳うてど
  異邦人(とつびと)我の孤独いや増す
U この土を
維新の志士も民権の若者達も踏みて駆けしや
V 帰り来ていよよ土佐路は恋しかり
  再び見んことなしと思えば
W 幾たびも間違いならんとたしかめぬ
  我が名宛なる祝い電報
X これしきのことにと恥づれど
我ならず「ゴウカク」の文字霞み見えたり
Y 呪われの受験生の名の解けし日よ
   イヌノフグリの花の愛しさ

(中略)

P~Y は、国立大受験記。
四国の高知。最初の印象は、空気が臭いということ。実は当時、反公害の運動の歴史の中でも注目される「高知パルプ」という製紙会社が、工場そばの江の口川という小川に、工場排水を垂れ流し、そこから高知市内の中心部を流れて浦戸湾に至るまでの川水を真っ黒に汚染していたさなかのことでした。
当時は、今の中国の状態ほどではないものの、全国で野放しの公害垂れ流し状態がありました。そのため、工場地帯に近い大都市には住みたくないという心情が、当時の私などには根強くありました。それだけに、都市から遙かに離れたこの地方で、まさかこんな公害に出会おうとは思っても見ませんでした。その意味で、私の第一印象は、かなり気が滅入るものでした。

でも、受験を終えて帰宅した後になって、土地にまつわる歴史や文化、風土を、改めて認識するにつれて、憧憬する気持ちが強くなっていきました。Wの歌の「我が名宛てなる祝い電報」というのは、私大入試で結果がわからずやきもきした経験から、今度は合否電報を依頼していたのでした。今なら、ホームページ上に合格者の受験番号が発表され、発表時間と同時に合否が確認できるわけで、時代は変わったものです。


もう50年も前、受験生として高知駅に降り立ったときの第一印象は、鼻をつく悪臭による不快に尽きるものでしたが、全国的な公害反対運動、そして地元の住民運動の成果として、高知パルプの廃液垂れ流しはストップされ、現在では美しい流れが蘇っていることを感慨深く思います。


朝日新聞デジタルの記事(2016年2月11日)を少々引用します。


45年前、川に廃液を流していたパルプ工場の排水管に、怒った市民が生コンを流し込んで操業を止めさせた。公害史上に残るこの「高知パルプ生コン事件」について、東京の出版社が資料集の刊行準備を進めている。今月1日には大阪市立大名誉教授で公害研究の第一人者・宮本憲一さん(85)が高知を訪れ、当事者らに話を聞いた。

廃液で汚染された高知市の江ノ口川。魚は死んで浮き上がり、住民は悪臭や健康被害に悩まされた。そこへ立ち向かったのが工作機械会社の社長だった山崎圭次さん(故人)。「浦戸湾を守る会」会長として会社に抗議、行政にも訴えたが事態は改善しなかった。1971年5月31日には会社側が会談を拒否すると通告。「実力行使」に出たのはその9日後のことだった。

東京の出版社「すいれん舎」は「高知パルプ事件資料」の今春発刊を予定。編集委員を務める宮本さんと安田常雄・神奈川大特任教授(69)が高知を訪れ、生コン投入実行者の一人だった吉村弘さん(68)や山崎さんの長男の広一郎さん(68)らに話を聞いた。

(以下有料記事)


さて、その江ノ口川にまつわるもう一つのエピソードを、去年の8月の記事で紹介しました。


高知の街散歩、の巻


高知県立文学館発行の「土佐れきぶん散歩」

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などのマップ片手に、まず目指したのは、高知駅近くの史跡。

その第一は、「槇村浩誕生の地」です。

槇村浩については、その詩碑を訪ねた記事を夏の終わりの高知行、の巻(その5)

で書き、そこで詩人槇村浩に触れた次のような過去記事を紹介しました。そこでも書いたように、まだ彼の墓を尋ねていないことが心残りですが、「誕生の地」もまた未踏です。

◆サトキマダラヒカゲは海峡を越えるか、の巻
◆「すばらしい野天の五月のお祭りだ」、の巻
◆槙村浩と三月一日
◆ビクトルハラをカーラジオで聞くの巻
◆もうひとつの911
◆懐かしき便り嬉しき聖夜かな

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(中略)

この美しい川は江ノ口川でしょうか?

1970年代は「高知パルプ」の工場廃液のために、ヘドロで汚れて、激しい悪臭が町を覆っていたことが強く記憶に残っていますが、昔日の感があります。

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目的の槇村浩誕生の地は、この江ノ口川沿いだそうですが、それらしい場所を探しても見当たりません。よくよくマップを見ると、(碑なし)とありました。なあんだ。


そして、今年の2月には、こんな記事を書きました。


ある新聞投稿、の巻


「高知新聞」にこんな文章を投稿しました。

高知は、学生時代を過ごした第二の故郷ですが、滅多に訪問の機会がありません。維新の志士や民権運動の史跡などどともに、夭逝の反戦詩人槇村浩(まきむらこう)ゆかりの地を、折あれば訪ねてみたいと常々思ってきました。
「思い出はおれを故郷へ運ぶ---」二〇歳の頃の作品「間島パルチザンの歌」の冒頭の一節です。「おれ」は、日本の侵略支配に抗し、身を挺して民族の独立をたたかいとろうとするパルチザンの若者であり、反戦と国際連帯の思いを込めた作者の想像が生んだ鮮烈な造形です。
高知県立海南中学校四年生の時、軍事教練反対運動を組織した彼は放校となり、縁あって、わが岡山県の私立関西中学に編入学します。異郷の地にあって、彼の胸中には故郷高知の思い出が去来したに違いありません。
自宅があったという帯屋町2丁目の「ひろめ市場」辺りや、高知刑務所跡の城西公園に建つ詩碑などは、以前も訪ね、詩人の短かすぎる青春を偲びました。市内にあるという墓地にも、いつかお参りしてみたいと思っています。
ところで、彼の生誕の地は、高知県高知市廿代町とされています。去年の夏、会合で高知を訪れたついでに、マップ頼りに界隈を散策してみました。しかし、残念ながら、案内掲示や碑の類を見つけることもできず、心を残して引き揚げたことでした。聞けば、いま貴地では、「槇村浩生誕碑」建設の気運が起こっているとの由。運動が成就し、碑完成の暁には、是非再訪してみたいと願っているところです。

それが今朝の朝刊に掲載されていると、高知市在住のN先輩が知らせて下さいました。Nさんは、文中の、「槇村浩生誕碑」建設の運動にも携わっておられます。当ブログの過去記事でも、槇村浩については何度か話題にしてきました。


そのNさんは、今回の同窓会の世話役を、いつもの通り担ってくださったのでしたが、二次会での歓談のなかで、このたび、市から「槇村浩生誕碑」建設の許可が出たこと、募金その他で建設資金も集まり、11月には除幕式の予定との最新情報を教えてくださいました。嬉しいことです。


今回のこの記事を書くに当たって、ネット検索していますと、ウィキペディアの記事に、こんな一文が付け加えられていることに気がつきました。


2019年3月18日、平和資料館・草の家の馴田正満研究員が、記者会見を開き槇村の生誕地である廿代町八十九番屋敷の現在地を公表。高知民報同年4月14日号から3回、生誕地について連載。


何を隠そう、「平和資料館・草の家の馴田正満研究員」こそ、わが先輩Nさんその人なのです。


さらにネット検索を続けていますと、高知文学学校のHPに、2019年4月4日~同年7月25日毎週開講された第65期課程の案内が掲載されていますした。その一部にこんな記事が、、、


- 講 義 題 と 講 師 -

第65期 課程(2019年)

5/16(木)
1
地中から知る歴史の真実
土佐史談会会長
宅間 一之

2
槇村浩・七つの謎に迫る
平和資料館・草の家研究員
馴田 正満


講義日の直後にお目にかかった際、「槇村浩・七つの謎に迫る」と題した講義の内容を詳述するレジュメを、私にも下さいました。廿代町八十九番屋敷」の生誕地を調べ上げる過程が、丹念・緻密で、スリリングとも言える見事さです。


同窓会前の9月の初め、そのNさんが、つぎの新聞記事を紹介してくださいました。「しんぶん赤旗」9月3日付けの囲み記事「朝の風」です。


赤旗朝の風槇村記事


文字に起こしておきます。


3日は高知の詩人・ 模村浩の没後81周年に当たる。1931年、プロレタリア作家同盟高知支部に加わり、反戦活動で捕らえられ、38年に獄中での拷間・ 虐待がもとで26歳で病没した。    

短くも激しく生きた生涯は、土佐文雄「人間の骨」、大原富枝「ひとつの青春」ほかで描かれてきた。いずれも読み応えのある小説だが、この夏、地域の「平和のための戦争展」で 上映された「人間の骨」(木之下晃明監督、78年)を見て、映像による生々しさで槙村像 が迫ってきた。フィク ションの力を生かした
土佐文雄の作品が原作。「不降身、不辱志」(身を降さずんば、志を辱めず)とうたった自身の詩のように節を
曲げず生きた、佐藤仁哉扮する槙村が新鮮で、南田洋子の、獄の内と外にある息子を守り続けた母丑恵役が慈愛深く心に残る。
会場に張られた「間島パルチザンの歌」に見いる人もあった。
「…おれたちのどのひとりが/一九一九年三月一日を忘れよう ぞ!」と三・一独立運動に蜂起した朝鮮人の. 不屈の闘志をうたいあげる詩。亡き詩人・宮崎清は「革命的なロマンチシズムとリアリズムを見事に統一した」とこの詩を評した。氏もまた槇村の生涯に魅せられた一人だ。革命詩人の志は多様な形で伝えられ続ける。(響)     


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朝散歩で、城西公園を通りましたが、今回は詩碑を訪ねることはできませんでした。


今日はここまで。


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johncomeback

拙ブログへのコメントありがとうございます。
賀茂緑はホントに美味しかったです。
岡山には他にも美味しい地酒があるんでしょうね。

by johncomeback (2019-10-24 09:15) 

kazg

johncomeback様
>他にも美味しい地酒
米どころ、水どころですので、古くから酒作りは盛んで、老舗の酒蔵も多いです。自社ブランドで販売している酒ももちろんありますし、「灘の生一本」などにOEM供給している場合もあるようです。味は、各地の名酒に引けをとらないと思います(地元びいきですが)。また、お越しの際は、いろいろ試してみてくださいね。
by kazg (2019-10-24 17:50) 

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