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目からウロコ、の巻 [雑話]

最近、この年齢になって「目からウロコ」を体験する場面が、なんだか増えたような気がします。これまで、知ってるつもりで生きてきたことが恥ずかしい限りですが、誤認識を一つでも改めることができたとすれば、幸いなことと、自分を慰めています。ところが、困ったことに、「目からウロコ」の中身が何だったか、忘れてしまって思い出せないことがしばしばあります。


ここ2,3日も、気になって仕方がないことがありました。それが何だったか、思い出せそうで思い出せない。「言葉の思い違い」に関係ありそうだというところまでは、ぼんやり思い浮かぶのですが、いつ、どこで、何によって(あるいは誰によって)、そして何について、「目からウロコが落ちる」体験を得たのだったか、考えても考えても頭の中の濃霧は深まるばかり。寝ても覚めても、居心地が悪い状況が続きました。


もちろん、一日中それにかかずらわっているわけにも行かず、必要な人づき合いや、よんどころのない請負仕事、また家庭内業務に時間を割かなければならないのですが、その隙間のふとした瞬間にも、思い出せないもどかしさがつのって、心が晴れません。


そもそものきっかけはというと、先日、半田山植物園を歩いたことを記事にしようとする過程で「目からウロコ」を体験し、これをタイトルにしようと考えたことが始まりでした。


まずは、いつものように散歩写真のご紹介。


赤いネムの花。


緋合歓(ヒネム)でしょうか?


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白花合歓木(シロバナネムノキ)?


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紫陽花(アジサイ)


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バラ。


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スモークツリー?


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キキョウ。


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ビーズレモン。


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ハンゲショウ。


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アーティチョーク。


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河骨(コウホネ)のとなりに咲いていた浅沙(アサザ)。コウホネは、前回、自然保護センターのものを紹介しましたで、今日はアサザ。花が咲いているところははじめて見ました


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ハス。


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スイレン


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デンジソウ。漢字で書くと「田字草」。確かに四枚の葉が、田の字の形をしています。


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ベニシジミ。


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ウチワヤンマ。


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さて、今日のテーマ。目からウロコの対象は、、、


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何が「目からウロコ」かと言いますと、このトケイソウ、英名を「Passion flower(パッションフラワー)」と言うそうです。「パッションフルーツ(passion fruit)」もトケイソウ科の果物で、「果物時計草」という和名もあるそうです。


ところでこのパッション(passion)、てっきり「情熱」の意味だとこれまでずっと思っていました。中南米原産だといいますし、いかにも情熱的な風土に似合う植物だとおもいこんでいたのです。


ところが、まったくの早のみこみ。ウィキペディアにはこうありました。


和名は3つに分裂した雌しべが時計の長針、短針、秒針のように見える特徴のある花を咲かせることに由来する。

英名 passion flower は「キリストの受難の花」の意味で、イエズス会の宣教師らによってラテン語で flos passionis と呼ばれていたのを訳したものである。 16世紀、原産地である中南米に派遣された彼らは、この花をかつてアッシジの聖フランチェスコが夢に見たという「十字架上の花」と信じ、キリスト教の布教に利用した。 彼らによればこの植物はキリストの受難を象徴する形をしており、花の子房柱は十字架、3つに分裂した雌しべが釘、副冠は茨の冠、5枚の花弁と萼は合わせて10人の使徒、巻きひげはムチ、葉は槍であるなどと言われた。

属名は造語だが、やはり上記比喩に倣ったもの。

なお、英単語 passion には「情熱」の意味もあるが、この植物の名称での passion は「受難」の意味であって、「情熱」の意味ではない。


フームなるほど、聞いてみないとわからない。「目からウロコ」でした。そう言えば、以前も同じようなことを思ったことがあったけれど、あれは何だったっけ?と考え始めたことが、冒頭の文章につながります。


やっとのことで、今日の未明、ふっと思い出しました。


「タックスヘイブン」を、長い間を税金の「天国」と思い込んできたのを、浅はかな勘違いだったと教えられたことが、ごく最近、あったのでした。これもまた、ウィキペディアの説明を借ります。


タックス・ヘイヴン(英語: tax haven)とは、一定の課税が著しく軽減、ないしは完全に免除される国や地域のことであり、租税回避地(そぜいかいひち)とも、低課税地域(ていかぜいちいき)、とも呼ばれる

フランス語では「税の楽園」「税の天国」を意味するパラディ・フィスカル(フランス語: paradis fiscal)と言い、ドイツ語などでも同様の言い方をする。しかし、英語のタックス・ヘイヴンの haven の日本語での意味は「避難所」であって、「楽園」「天国」を意味する heaven ではないことに注意されたい。


ところで「目からウロコ」の出典は、意外にも、新約聖書だそうです。


目から鱗が落ちる(精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典)

新約聖書の「使徒行伝」から出たことば。何かがきっかけとなって、急に物事の事態がよく見え、理解できるようになるというような場合のたとえとして用いられる。

※引照新約全書(1880)使徒行伝「彼の眼(メ)より鱗(ウロコ)の如もの脱(オチ)て再び見ことを得、すなはち起てバプテスマを受」


ちなみに、検索してみると、拙ブログの過去記事でも「目からウロコ」の体験を何度か書いています。印象深いものを再録しておきます。丑の日の朝散歩、の巻(2016-07-30)


前日カルガモ親子を案内して下さったM師からいただいたメールをきっかけにした記事です。


メールでは、相模原の事件について、あれこれ書き散らしてきた私の文章に欠けていた視点に気づかされ、目からウロコでした。
うすうす感づいていたのに、言語化できずにいた、と自己弁明しているところですが、肝心なポイントですので、了解を得て紹介させていただくことにします。
というわけで、馬脚を現す前(いや、もう十分に露見していますが)に、早々に切り上げるつもりでいたこの事件の話題を、再度俎上に載せることにします。
以下、Mさんのメール(抄)です。

  おぞましい事件が起きましたね。いまこの国を覆う能力主義的価値観の行き着く先のような気がします。格差や能力主義への無自覚な抗議ではなくその逆のように思います。権力者の能力主義的弱者切り捨ての価値観への無自覚な迎合でしょう。
私も大学卒という学歴を持つということは一応この能力主義的偏差値体制の勝者ですから、身に染み付いた能力主義的価値観はなかなか洗い流せません。昔吉野さんからガツンと一撃をもらったのを今でも思い出します。いわゆる底辺校に勤務していた頃授業で時事問題の雑談をしていた時、家計を助けるため毎朝新聞配達をし後登校してくる生徒がいました。その時ある事件について質問してくるので「君は新聞を配達しているのだろう。今日の新聞に載っていただろう。」というと「わしゃあ漢字が読めんからようわからん」という返事をもらいました。吉野さんにこの話をして、「ということは高校生にもなって教科書も読めん子がおる。こうゆう子らに何を指導すりゃあえんじゃろう。」と教育困難校の悩みを話したら。「新聞が読めん子には新聞が読めるようにしちゃらあいいが、それがあんたの学校の教育課題じゃねんかな。あんたらの学校の子は箸がもてるじゃろう。自分で飯が食えるじゃろう。うちの学校には箸の持てない子がおる。箸の待てない子には箸が持てるようにしてやるのが教育課題じゃ。難病であと少しの寿命の子もいる、もうすぐ死ぬ子に教育が必要か?この子には人間として死なせてやる、それが教育課題じゃ。」というような意味のことを言われました。
能力主義的人材育成教育でない「人間教育」とは何かを真剣に考えさせられた一撃でした。すごい人です。
今回の事件の犯人は衆院議長に手紙を届けようとしています。無自覚のうちに今の権力者の価値観に受け入れられると思っていたのでしょう。
そういえば以前、介護老人をビルの上階から落とした介護師がいました。私は要介護老人でないので黙っていました。次に障害者が虐殺されました。私は障害者でないので黙っていました。次に生活保護受給者が狙われました。私は生活保護受給者でないので黙っていました、次に年金受給者が・・・・・。
人は何かに役立つから価値があるのでなく、存在しているそのことに価値があるということを叫ばなくては。孫育ては能力主義社会から半歩出ている高齢者の役目だという人がいます。能力主義が渦巻く社会へ出て行く前の子供に存在そのものが素晴らしいと感じさせねば・・・と思う今日この頃です。

ちなみに、文章中の「吉野さん」とは、昨日の記事でご紹介した、「浅田達雄さんを支援する会」事務局長・障岡連(障害者の生活と権利を守る岡山県連絡協議会)事務局長の吉野一正氏のことです。


こんな「目からウロコ」体験も、時間とともに記憶の彼方へ薄らいでいました。情けないことです。ところで、相模原の事件当日、こんな記事を書きました。


飼育中のツマグロヒョウモンすべて羽化、の巻(2016-07-26)


「障害者はいなくなってしまえ。」冷酷な、思い上がったこのセリフ。でもそれは、わずか70数年前「劣等人種はいなくなってしまえ」と、ユダヤ人たちを大量虐殺したナチスの若者たちのセリフと全く同じではないですか。おそらく深い心の闇を抱えた、尋常でない精神状態の犯人による「異常な猟奇殺人」には違いないでしょう。でも、その行動に実際に足を踏み出すか否かは別として、社会的弱者にたいする偏見と憎悪、差別と排除の空気は、しずかに醸成されているのではありませんか。

たとえば、野放しのヘイトスピーチ、傍若無人のネトウヨたちの言動の、向けられている敵意の方向は、あの犯人の若者と差異を見出すことが困難ではないでしょうか。

そして、困ったことに、今、特異な暴走政権を形づくっている「日本会議」勢力と、その共感者、支援者たちの奏でる主題歌が、まさにこの「劣等者は生きる価値なし」のメロディではなかったでしょうか。

いや、すべては謎。軽々しい論評は避けることにしましょう。


あれからもうすぐ4年。今年の3月には、植松聖(さとし)被告にたいする死刑判決が下され、被告の控訴取り下げにより刑が確定しました。しかし、「すべては謎」のままで、事件はまったく解決したとは思えません。被告存命のうちに、被告自身が深い自己省察・自己洞察を踏まえてすべてを語ることによって、「目からウロコ」となるような、真相解明がなされることを期待したいのですが、、、、


今日はこれにて。


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