日々是好日 とっつあんの雑記帳

とっつあんが徒然なるまま”ほっこりと暖かく誰もがうなずけるちょっとした幸せを感じる”話題を発信していきます。

西国街道から茨木東部を歩く(^^♪亀に乗った観音様として有名で子育て観音・厄除け観音様ともよばれている「西国三十三カ所二十二番札所総持寺」

2019年02月19日 16時33分53秒 | 歳時記

春雨というには少し早い冷たい雨の冬の朝、雨、最高気温10℃(-3)、洗濯指数30室内に干すか、乾燥機がお勧め、傘指数100かならず傘をお持ちください、との予報。

朝から冷たい雨が本降りに、日照りがないのでほとんど気温も上がらず、冷た~い寒~い寒い二十四節気「雨水」の一日となった北摂。

寒さと雨と、今一つすぐれない体調で外出はやめ、資料整理に…、三島古墳群の古墳の資料をと頑張っているのですが、遅々として進まない状態、そろそろ未完成でも皆さんに見てもらおうかと思っています。

今日の1枚の写真は、西国街道から茨木東部を歩くシリーズで、亀の恩返しによって開かれた総持寺の話は、『今昔物語』や『源平盛衰記』などにも紹介されています「西国三十三カ所二十二番札所総持寺」です。

補陀洛山(ふだらくさん)と号し、高野山真言宗に属します。十一面観音を本尊とし、仁和2年(886)、藤原一門で中納言の要職にあった藤原山蔭が建て始め寛平2年(890)創建した寺で、延喜12年(912)に、山蔭の二男公利が寄進した梵鐘の銘に寺の略歴が書かれています。 (仁和4年2月(888)山蔭死去、子どもたちが完成)

総持寺は、一条・後一条・白河・鳥羽天皇の勅願寺として栄えましたが、次第に衰え、元亀2年(1571)の白井河原の合戦のとき、焼き打ちにあいました。その後天正6年(1578)、同10年(1582)の火災や、文禄3年(1594)の地震で被害を受け、古記録類はほとんど失われました。現在の本堂は、慶長8年(1603)豊臣秀頼の命で、片桐且元により再建されたものです。

毎年4月18日には、鯛や鯉などを真肴ばしと包丁だけでさばく「包丁式(山蔭流)」が行われます。これは、山蔭中納言政朝が御本尊を彫る仏師のために、千日間にわたって自ら料理をしたことにちなんだものといわれています。

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明日2月20日(戊子 つちのえね 仏滅)

●「歌舞伎の日」
 1607(慶長12)年のこの日、出雲の阿国が江戸城で将軍徳川家康や諸国の大名の前で初めて歌舞伎踊りを披露しました。
 1603(慶長8)年、京都四条河原で出雲の阿国が歌舞伎踊りを始めたのが歌舞伎の発祥とされています。
 四条河原では、それ以後女歌舞伎が評判となりました。

●「旅券の日」
 外務省が1998(平成10)年に制定しました。
 1878(明治11)年、「海外旅券規則」が外務省布達第1号として制定され、「旅券」という用語が日本の法令上初めて使用されました。
 それまでは、「御印章」「海外行免状」と呼んでいました。

●「普通選挙の日」
 1928(昭和3)年、日本で初めて普通選挙が実施されました。
 納税額に関係なく、すべての男性に選挙権が与えられました。女性も参加した完全な普通選挙が実施されるようになったのは1946(昭和21)年4月10日の総選挙からです。

●「アレルギーの日」
 日本アレルギー協会(日ア協)が1995(平成7)年に制定。
 1966(昭和41)年のこの日、免疫学者の石坂公成・照子夫妻が、ブタクサによる花粉症の研究からアレルギーを起こす原因となる免疫グロブリンE抗体(lgE抗体)を発見したことを発表しました。

●「愛媛県政発足記念日」
 1873(明治6)年、石鉄県と神山県が合併して愛媛県が誕生しました。
 太政官布告から100年目にあたる1973(昭和48)年に最初の記念行事が行われ、「愛媛県章」「愛媛の歌」が制定されました。

●「夫婦円満の日」
 誰が淹れても濃くてまろやかなおいしいお茶「こいまろ茶」を飲んで、夫婦円満に暮らしてもらいたいとの思いから「こいまろ茶」を販売する京都府綴喜郡宇治田原町の株式会社宇治田原製茶場直売部が制定しました。
 日付は2と20で「ふう(2)ふ(2)円満(0)」の語呂合わせから。

●「多喜二忌」
 プロレタリア文学作家・小林多喜二(こばやしたきじ)の1933(昭和8)年の忌日。
 東京・赤坂で特高警察に捕らえられ、その日のうちに拷問によって虐殺されました。

●毎月20日は、「発芽野菜の日」「ワインの日」です。

●「野里の一夜官女」
 一夜官女(いちやかんじょ)とは、大阪市西淀川区の野里住吉(のざとすみよし)神社にて毎年2月20日におこなわれる、一風変わった神事です。
 昔、この里ではうち続く水害と悪疫の流行で、住民は苦しい生活を強いられていました。ここに、この村を救うためには毎年定まった日に一人の乙女を神に捧げよとの神託があり、村を救いたい思いからこれを行っていました。
 七年目の夜、官女の神事の時、武士が通りがかり村人からこの話を聞かされ、「神は人を救うが、人を犠牲に求めることはない」と怒り、正体を見極めようと乙女の身代わりとなって櫃に入り、神社に運ばれました。
 翌朝、すでに武士の姿はなく、大きな狒々が絶命していました。この武士は、武者修行中の岩見重太郎と伝えられています。
 一夜官女は、「神の名を騙る猿(狒々神(ひひがみ)に人身御供を捧げていた」という伝説に由来しています。
 7人の少女が一夜だけ神に仕える身分になるため官女という名称がつけられたといわれます。官女たちは神に供える膳を大人に持たせて神社に行きます。
 娘が官女に選ばれることは、かつてそれは、永遠の別れを意味し、悲壮極まりないことだったのかも知れません。
 しかし現在のそれは、娘の純潔が神に認められることを意味しており、この地域ではポジティブに、大変名誉なこととしてとらえられています
 野里住吉神社は永徳二年(1382)足利三代将軍義満の創建と伝えられています。
 野里住吉神社 大阪市西淀川区野里1 一15 一12

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