【海外比較】頑張りすぎちゃう日本の管理職と自分自身に要求の高い日本人の話【働き方】
今日は海外の話ではなく、日本の話をします。
欧州の人の初対面の人と話すと、そこのお前が日本人であることがわかると、高確率でこういわれます。
と。
いわゆる社交辞令半分・本気半分といった感じでしょうが、まぁ悪く思われている国ではないことは確かです。
アレンジされた日本文化も欧州にはちょっとずつ浸透していますし、寿司食いに行こうぜ!なんて会話もそこそこ聞こえます。
さらに、日本に行ったことがある人から冒頭と同じぐらいの確率でよく言われるのが、
日本はすべてがクリーンで秩序があって、とても美しかった
と。
ここでいう意味とは道にごみが落ちていないとか道路がとてもなめらかできれいに舗装されているとか、人々が丁寧で様々なサービスを気持ちよく提供してくれるということを指しています。
それもそのはず。日本の労働者はがんばっちゃう。
欧米の人に比べて頑張っちゃう。
もちろん欧米の人にもめっちゃ頑張る人は存在しますが、日本ではもっと多くの人(基本的にほとんどの人)がめっちゃ頑張っちゃう。
これって結構すごいことだと思うんです。
上司がクソだとか仕事ダルいとかウダウダ文句言いながらも、なんだかんだ頑張っちゃう。
揉めるのを避けるためだったり、相手に礼儀を尽くすためだったり、自分なりの美学だったり、様々ありますが、基本的に常に高いレベルを実現しようとする。
こういう文化を見た外国人はよく感銘を受けます。
でも、これって、実は日本人自身の要求が高いことの裏返しであることも理由の一つだったりします。
日本ではこうでなくてはだめだとか、自分たちは頑張ってるんだからお前らも当然同じかそれ以上は頑張れっていう論理だったり、サービスを受ける側は常に偉い立場にいるとか。
非常に優しく、対価の多寡に関係なく相手に対して全力を尽くす一方で、そうでない人に対しては非常に厳しいお国柄だと感じます。
特に、マナーだったり、礼儀だったりに関しては非常に高度で洗練された雰囲気と不文律が存在します。
不言実行が伝統的には常識だったように、人に言われずとも、言わずとも最善を追求すべしという基礎がありました。
これは多くの人が大変さや生きにくさを感じる部分であり、同時に気持ちよさを感じるもので、Give and takeを作為によって実現する文化です。
これを伝統的な日本の考え方と便宜上呼ばせていただくと、この伝統的な考え方によって多くの使用者は苦労せずに済みました。
最善というものを定義さえすれば、後は個人が勝手に頑張ってくれるわけです。
逆に欧米はそういうものは比較的少ないです。
いいサービスを受けたかったらチップを払わなければならない場合もありますし、そもそも値段で差別化されたりします。
隅々まで丁寧にやることを追求するというよりはそれぞれ、効率よく、負担のかかりにくい人生を求めます。
やる決まりがあればやりますが、決まりがなければやらないでいいと正当化できます。
そして、その決まりも必要な分だけしか定めず、お互いいかに緩くするかの駆け引きが行われます。(やつら、この部分には圧倒的に真剣です。)
なので、不言実行なんて高尚な概念は存在せず、取り急ぎ問題が起きなければOKとなります。
問題やトラブル、実損が発生しない限りにおいてはテキトーにする代わりに、相手もテキトーでもいいと受け入れるというGive and takeが不作為によって実現される文化です。
どちらも「みんながそう行動するから、そうする」という構図は共通していますが、お互い楽しようと考えるか、お互い最善を尽くそうと考えるかの違いです。
その裏側では、欧米では使用者側があの手この手を使ってどうやって働かそうかについて頭を巡らせています。
最善を定義するだけでなく、どのように実行させるかまで神経を使って考えています。
それの代表が企業においては組織や各人のKPIとJob descriptionです。
何が成果で、どの範囲が守備範囲かをとても明確にし、そこでの成果の差に応じて待遇にも日本より大きめに差が出ます。
この違いを認識しない限り、欧米のスタンダードに寄せようとしている日本流の働き方改革がきちんと成功する確率は格段に下がります。
つまり、最善(従来の礼儀・マナー・サービス・品質・やり方)を目指させたままで、効率を上げるという目標設定をしている限り、働き方改革が目標とする領域に到達する確率はぐんと下がるという意味です。
だって、残業代という制度がきっちり整備されている以上、効率を上げれば上げるほど給料が下がるのも嫌だし。
第一、時間短くする前に従来の不文律的に要求される高品質は満たさなきゃいけないし、伝統的な合理性のない慣習もなかなか排除されないし。
この状況下では全員がスーパーマンにでもならない限り、それは達成されません。
世の中が全員大谷翔平だったら苦労はしませんが、そんなことはあり得ません。だからあれだけ大谷翔平が注目を浴びるのです。
まぁ、それを目指すのであれば、それでもいいですが。。。とてつもなく長い道のりとハードワークが要求されます。
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これは果たして働き方改革でしょうか。。。
事実、欧米のまぁいいか!の精神も一緒に取り入れないと
歩道や道路が多少ぼこぼこでもまぁいいか!
ゴミが道端に多少落ちていても、まぁいいか!
電車が時間通り来なくてもまぁいいか!
相手がミーティングに遅れてもまぁいいか!
休暇中連絡が取れない?帰ってくるの1か月後?まぁいいか!
多少椅子が汚かったり、机の上に汚れが付いていてもまぁいいか!
ラップ?切れにくい?力業で切れるし、はさみ使えや!まぁいいか!
人に見えない工夫?なにそれ?意味あるの?見られないならまぁいいか!
ほぼ使い捨ての粗悪品でも、見てくれは何とかなるし、安いからまぁいいか!
ぼったくり?ノンノン!高くても買う人がいるなら適正価値だよ!まぁいいか!
まぁいいか!まぁいいか!まぁいいか!
それが彼らが効率よく物事を進め、もうけを出す正体です。
お金を取るのもうまいですし、手を抜くことも抜群に長けています。
道路が多少ぼこぼこでも事故らない限り、誰も気に留めません。
どうせ電車が時間通りに来なくても電車に乗る人はいつもいます。
多少ミーティングに遅れたところで、話す内容は変わりませんし、少し雑談を削るだけです。15分前行動などといった余裕たっぷりの行動なんてしません。飛行機ですら搭乗時間ぎりぎりを攻めます。
リスペクトはメインの議題の成果であり、遅刻やマナー等の尊敬度の多寡に執着することはありませんし、休暇中だったら止めるか勝手に判断して進めちゃいます。
ゴミは多少落ちてるぐらいでも掃除の頻度を下げたほうがコストは下がります。
トイレが貧弱で少し汚れていようが、関係なく用を足します。
椅子が汚くても、机の上が汚れていてもご飯が食べたい人は食べに来ます。
逆にキレイだから食べにくるっていうような人は少数で、そこでキレイさにこだわるよりも他の部分に力を使います。
粗悪品で使い捨てでも、数回しか使えなければそのたびに買う人がいるので売り上げになります。
同じようなものでも、高く売れるところではめちゃくちゃ値段を釣り上げてきます。
ラップなんか日本のサランラップのようにまともにキレた試しがありません。
いつも余分に出しちゃいます。それも使う量が上がるので売り上げ貢献です。
環境問題には敏感なくせして、粗悪品を使い捨てまくることはあまり関心がありません。
こんな風に無頓着になり、相手が100%パーフェクトでないことを受け入れ、自分も開き直る精神も取り入れないといけません。
でも、一消費者、生活者としてそういうのは嫌だから、これまで通りの基準は要求するけど、自分だけは楽に働きたいなんてちゃんちゃらおかしい。
だったら楽になるまで徹底的にこだわりぬいて頑張って実現するまではゴリゴリ働かなければなりません。
それか、些末な手抜きはむしろいいことだと気持ちを変えて、それを受容するかです。
だから、欧米の人にはいつもこう返しています。
日本に旅行に行くのはとてもいい。安くてもいい質のものを体験できるし、すべてが整っている。
だが、働くのはお勧めしない。要求基準が違いすぎる。
と。
とはいえ、今の日本の多く管理職は伝統的な文化で鍛え上げられた優秀層の集まりであり、頑張っちゃいます。
彼らにとって、要求された仕事や成果に対してNoという選択肢はありません。
本当はもっとほかに選択肢があるはずですが、そういった行動は彼らの美学や礼儀、常識に反しますし、評価の観点からもそういった選択肢には踏み出せません。
だから、頑張っちゃいますし、その成功体験や成功の秘訣の多くが限界まで最善を尽くすことにあったりするので、それを捨てられません。
疑うことを許されないものとして礼儀やマナーを叩き込まれ、最善を尽くす意味でも、「神は細部に宿る」とばかりにそこに力を入れてきた人にとってはなおのこと捨てられません。
そして、頑張ればなんとかできるという成功体験も当然捨てられませんし、それはより美化されて下の世代に対して強調された状態で再教育モードに突入します。
もうすでに時代も変わって、仕事の内容も当時と大きく変わっているという認識は薄れ、今、どのようにして要求されていることを実現するか?というプレッシャーに晒されて、さらに頑張っちゃうし、頑張らせちゃいます。
そういう頑張っちゃう姿勢はいいことだっていう考え方(伝統的な考え方)もありますし、そこのお前も割と賛成派ですけど、働き方改革を是とするならば悪です。
逆に成果が出ればなんでもいいという考え方であれば、要求される成果に対して関連している限りにおいては正です。
結局は、この部分、管理職ひいては経営陣が今よりも悪くなる部分を許容する幅の多寡が最終的な改革の成果を分けます。
いままでは慣行のお礼やあいさつ回り、その他のサービスとして行っていた行動のうち、なくなっても現場同士の文句です済むような行為を徹底的に辞めさせる。
とか
仕事があふれているときは、やるやらないの判断を明確に行い、やらないという選択肢を上司に持たせ、彼らの評価に可能な限り響かない形できるようにする。
余計な根回し文化、遅刻厳禁の余裕持ちすぎ行動、体裁を整えるための仕上げ工程をゴリゴリに削る。
などの成果に致命的な影響を与えないものを積極的になしにすると表明していかない限りは現場はずっと限界まで搾り上げられる状況は変えられないでしょう。
おそらく、労働者だけでなく、中間管理職自体がNoという力を持てる体系とそれに向けた教育を行っていかなければなりません。
彼らにとっては彼らの常識と正義の変更なので非常に強い抵抗があるでしょうが、そこに口出しできるパワーのない組織は非常に変化が遅くなるか、取り返しがつかなくなってから変わるかのいずれかになっていくと思われます。
もちろん、管理職も変わって、その先の経営陣も変わった時にサービスを受ける側もそれに合わせて、細かいところは気にしないように変化できるかどうかがとても重要です。
ですが、みなさん本当にそうなりたいんでしょうか?
そこが経営陣、中間管理職、働き方改革と最終成果の要求のはざまに苦しむ現実な気がします。
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もちろん、潤沢に人がいて、全員ある程度能力もあって、企業が雇用する体力があれば、短い時間でたくさんの人で負荷分散させて仕事回せるんですけどね。
どうもそうなれない状況のようですので、そうすると、サービスを受ける側が本当に必要な結果は何かを絞り、それ以外は大目に見るように変わったほうがみんな余裕が出るかもしれませんね。。。