あたしたちのあした
「わたし」は「私」だ。
当然、「私」は「わたし」と読む。
「あたし」はつまり、「わたし」のにせものだ。
「わたし」に並ぶようにして、何食わぬ顔で、にせものは居座り続けている。
「せんたっき」ですら「洗濯機」に変換してくれる柔軟な時代においても、「あたし」に「私」をあてがってくれないことは多々ある。
それぐらい「あたし」は軽んじられている。それなのに「あたし」は何とも思わないで、「わたし」と肩を並べて歩くのだ。
「あたし」って何者だ。
「あしきべんじょ」はとんでもなく邪悪そうで、「アンピース」だと服として認められるわけはないし、「あんちゃん」は二足歩行になってしまう。
それぐらい「わ」と「あ」の間には隔たりがあるのだ。それぞれ別の一音として生み出されたのだから、それは当然だ。
なのにどうして「あたし」はこうも平然としていられるのだろう。
厚顔無恥とはこのことだ。
でも、本当は、私は「あたし」のことが羨ましかったりもする。
「あたし」は「あたし」としてのプライドがあるのだろう。
だから「あたし」と言うし、決して「わたし」と言うことはない。そんなことをしてしまうと、途端に「わたし」に取り込まれてしまうだろう。
本来そうあるべきなのだろうけど、そうしなかったからこそ「あたし」は「あたし」でいられるのだ。
私は「あたし」に嫉妬している。
「あたし」が「あたし」と名乗る。「あたし」は、それだけでアイデンティティを確立しているのだ。
「なぁ、『わたし』?」
私はおずおずと話しかける。
「あ?」
「あたし」は私がどういう思いで話しかけたのか気にしないし、自分が発した一語が相手にどう受け取られるかも気にしない。
「僕ら、そろそろさぁ……」
「わるい、後にしてくんない?」
私は「あたし」が嫌いだけど、どうしても離れられないのだ。
あたしたちはそういう関係だ。
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