縄文人の志葉楽さんのブログ

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●『河童千一夜』

2020年05月11日 11時17分22秒 | 文化
●『河童千一夜』
★『河童千一夜』(かっぱせんいちや)
https://ja.wikipedia.org/wiki/河童千一夜
『河童千一夜』(かっぱせんいちや)
水木しげるによる日本の漫画で、
『漫画アクション』に連載された『河童シリーズ』の改題作品である。
 
★火野葦平
『麦と兵隊』など兵隊小説作家として知られるが、一方で河童の登場する作品が多く残る。その数、小説、随筆、童話などで100点を超えるという。芥川龍之介を敬愛しているが、芥川が「フィクションによってしか語れぬ事実がある」と、河童を通して社会を風刺したのに対し、葦平は「私の描く河童
『河童シリーズ』は主に火野葦平の『河童曼陀羅』を下敷きにした、河童に纏わる短編漫画のシリーズ。
 『漫画アクション』(双葉社)に1969年6月から1970年7月まで連載。
  概ね月1回ペースで全15回掲載された。
 
最初の単行本は、連載終了後の1970年9月に双葉社の漫画アクション・コミックス『河童膏』として刊行。その後『河童千一夜』と改題され、日本文芸社、講談社、筑摩書房、朝日新聞出版と刊行されるが、まとめて全話収録された単行本は無く、それぞれ収録作品が異なっている。また、連載1回目に当たる『河童膏』は、多くの短編集に単体で収録されている。

★水木 しげる  https://ja.wikipedia.org/wiki/水木 しげる
(みずき しげる、本名:武良 茂(むら しげる)、男性、1922年[1]3月8日 - )
日本の漫画家。鳥取県境港市出身[2]。東京都調布市在住。ペンネームは、紙芝居作家時代に経営していたアパート「水木荘」から名付けた。1958年に漫画家としてデビュー。代表作の『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』などを発表し、妖怪漫画の第一人者となる。

★伊達忠宗   https://ja.wikipedia.org/wiki/伊達忠宗
伊達 忠宗(だて ただむね)は、江戸時代前期の大名。陸奥国仙台藩2代藩主。官位は従四位下・左近衛権少将、陸奥守。仙台藩の地位と基盤固めに務めて大いに功績を残したため「守成の名君」と評された。
 
★伊達政宗  https://ja.wikipedia.org/wiki/伊達政宗
伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主である。
幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。
 
★伊達 政宗(だて まさむね) http://p.tl/TYup
出羽国と陸奥国の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。
伊達氏第16代当主・伊達輝宗と最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男。
幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、
隻眼となったことから後世独眼竜と呼ばれた。

★独眼竜(どくがんりゅう) https://ja.wikipedia.org/wiki/独眼竜
隻眼の英傑に対して与えられることがある異称である。独眼龍とも。
初例は中国後唐の太祖李克用だが、日本では戦国大名の伊達政宗がよく知られる。

★頼 山陽(らい さんよう) https://ja.wikipedia.org/wiki/頼 山陽
(安永9年12月27日(1781年1月21日) - 天保3年9月23日(1832年10月16日))
江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人である。幼名は久太郎(ひさたろう)、名は襄(のぼる)、字は子成。山陽は号である。また三十六峯外史とも号した。大坂に生まれる。

★雨宮の渡し(あめみやのわたし)https://ja.wikipedia.org/wiki/雨宮の渡し
長野県千曲市の雨宮にある史跡。
 
戦国時代の第4次川中島の戦い(両将の一騎討ちがあったとされる戦い)の時、武田側の山本勘助、馬場信房らによる「啄木鳥の戦法」を察知した上杉謙信は、夜半に妻女山を下り、この渡し場を秘かに越えて武田信玄の本陣に突撃したとされている。
 
この逸話は後に幕末の儒学者、頼山陽の「川中島(題不識庵撃幾山図)」の漢詩によりいっそう有名となり、史跡の価値を高めている。漢詩は謙信贔屓の頼が両将一騎打ちの掛け軸の図柄を見ての感動を謳ったものとされている。
 
なお、現在の千曲川の流れは、約800メートル北方に移動している。
 
この地は横田河原の戦いや大塔合戦の際の篭城地であったとされる横田城の対岸に当たる。このため、その折にも争奪の地となっている。また観応の擾乱から続いて南北朝時代にも数度にわたってこの近くの山城「生仁城(唐崎山城)」での攻防戦が行われているなど古来から重要な軍事上の渡河地域であった。
 
場所は長野電鉄屋代線雨宮駅(※2012年廃止)の北、徒歩3分。現在は頼山陽の直筆になる漢詩の碑が建てられ、小さな史跡公園となっている。また3年に1度獅子頭を被った4人の踊り手を橋の欄干から逆さに吊るす奇祭で知られる雨宮坐神社や、幕末期の洋学者佐久間象山が自作の大砲を試射したと伝えられる地も近い。
 
・頼山陽「川中島(不識庵幾山を撃つの図に題す)」  雨宮の渡し跡
https://ja.wikipedia.org/wiki/雨宮の渡し#頼山陽「川中島(不識庵幾山を撃つの図に題す)」
鞭 聲 肅 肅 夜 過 河 (鞭聲肅肅夜河を過る)
曉 見 千 兵 擁 大 牙 (曉に見る千兵の大牙を擁するを)
遺 恨 十 年 磨 一 劍 (遺恨なり十年一劍を磨き)
流 星 光 底 逸 長 蛇 (流星光底に長蛇を逸す)

★雨宮の渡し /【川中島の戦い】史跡ガイド
https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/siseki/entry/000163.html
読みは「あめみやのわたし」。永禄4年(1561)の9月9日夜半、妻女山(さいじょさん)に布陣していた上杉謙信は、武田軍の炊飯の煙を見て夜襲(啄木鳥[きつつき]の戦法)を察知。1万3千の兵を率いて雨宮の渡しを人馬ともに声なく渡り、信玄の本陣を突いたという。
雨宮の渡しは、北国往来の交通の要衝であり、戦術戦況を左右する場として平安時代からしばしば争奪の地となった。現在、かつての川筋が変わり、千曲川から離れた跡地には、記念碑と江戸後期の漢学者・文人でもあった頼山陽(らいさんよう)の「鞭声粛々(べんせいしゅくしゅく)夜河を渡る……」の有名な詩碑(直筆)が建っている。

★信濃川(しなのがわ) https://ja.wikipedia.org/wiki/信濃川
新潟県および長野県を流れる一級河川。信濃川水系の本流である。このうち信濃川と呼ばれているのは新潟県域のみで、長野県にさかのぼると千曲川(ちくまがわ)と呼称が変わる。全長367キロメートルのうち、信濃川と呼ばれている部分が153キロメートルなのに対し、千曲川と呼ばれている部分は214キロメートルと千曲川の方が長い。ただし、河川法上では千曲川を含めた信濃川水系の本流を信濃川と規定しているため、信濃川は日本で一番長い川となっている。
 
流域面積11,900km²は日本第3位。新潟、長野両県内でほとんどを占めるが、一次支川中津川の源流部が群馬県の野反湖付近にあり、水系流域としては群馬を含む3県に及ぶ。
 
千曲川(信濃川)は古くは万葉の頃から多くの詩歌に歌われ、近代になっても流域の佐久市・小諸市周辺を島崎藤村(千曲川旅情のうた、小諸なる古城のほとり)が、長野市周辺から新潟県境付近の豊田村(現:中野市)周辺を高野辰之(朧月夜、故郷)が歌にし、日本人の郷愁を誘う原風景を伴う川としても知られている。 最近演歌として、「千曲川」 (詞 山口洋子,曲 猪俣公章、歌 五木ひろし)が流行した。 また、伝説で知られる姨捨山や、戸倉上山田温泉をはじめとした幾多の温泉地、長野市(旧川中島町から旧篠ノ井市にかけて)に川中島古戦場などを有し、歴史的な名所も多い。

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