縄文人の志葉楽さんのブログ

日記や趣味を書く

◆さかやき(月代) 武士の髪形

2019年12月01日 11時00分35秒 | 文化
◆さかやき(月代) 武士の髪形
おかさん
うむ、うむ。
ところで質問!
「月代(さかやき)」って・・・?
 
 
コメントが有りました。
 
頭髪を、前額側から頭頂部にかけて半月形に、抜き、または剃り落としたもの。
抜くとは毛の根っこを抜き取る事。
甲を被ると蒸れるので蒸れを防ぐ為に剃ったらしい。
其れが時代をを経る内にファション化されていった。
平安時代末期くらいからの風習のようだ。
後の女の髪形などにも影響したのではないだろうか。
昔はタダ束ねて済ますのが当たり前のようだった。
由衣始めたのはいつ頃なのか 又 調べて見たいと思う。
 
 
◆さかやき(月代)https://ja.wikipedia.org/wiki/さかやき
 さかやき(月代)は、日本の成人男性の髪形のひとつ。
「サカヤキ」の語源、また「月代」の用字の起源は諸説ある。
 一説にさかやきはサカイキの転訛であるという。
 戦場で兜をかぶると気が逆さに上るから、そのイキを抜くためであるという
 伊勢貞丈の説が広く認められている。
 
『玉葉』安元2年7月8日の条に、
「自件簾中、時忠(平時忠)卿指出首、(其鬢不正、月代太見苦、面色殊損)」
 とあり、平安時代末期、行われていたことが分かる。
 
『太平記』巻5に、「片岡八郎矢田彦七あらあつやと頭巾を脱いで、側に指し置く。
 実に山伏ならねば、さかやきの跡隠れなし」とあり、絵巻物などと
 照らし合わせると、鎌倉時代、室町時代にさかやきが行われていたと分かる。
 当時は、兜による頭の蒸れ対策として戦の間だけ行われた習慣であり、
 日常に戻った時は総髪となった。
 
 戦国時代になると、さかやきが日常においても行われるようになった。
 それまでは毛抜きで頭髪を抜いてさかやきを作るのが主流であったが、
 頭皮に炎症を起こし、兜を被る際に痛みを訴える者が多くなったため、
 この頃を境に毛を剃ってさかやきを作るのが主流となる。
 江戸時代になると、一定の風俗となった。
 公卿を除く、一般すなわち武家、平民の間で行われ、
 元服の時はさかやきを剃ることが慣例となった。
 さかやきでない者は、
 公卿、浪人、山伏、学者、医師、人相見、物乞いなどであった。
 さかやきの形は侠客、中間、小者はぼんのくぼまであり、
 四角のさかやきは相撲から起こり、その広いのを唐犬額といった。
 江戸時代末期にはさかやきは狭小になり、これを講武所風といった。
 また若さをアピールする一種のファッションとして、
 さかやきやもみあげを藍で蒼く見せるという風習も流行した。
 明治の断髪令まで行われた。
 
◆伊勢貞丈 https://ja.wikipedia.org/wiki/伊勢貞丈
伊勢 貞丈(いせ さだたけ、享保2年12月28日(1718年1月29日) - 天明4年5月28日(1784年7月15日)
、江戸時代中期の旗本(幕臣)・有職故実研究家。江戸幕府寄合・御小姓組蕃士。父は伊勢貞益、兄に貞陳。子に娘(伊勢貞敦室)。
幼名は万助、通称は兵庫、平蔵。安斎と号した。有職読みでテイジョウと呼ばれることもある。
 
◆『玉葉』(ぎょくよう)https://ja.wikipedia.org/wiki/玉葉
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて執筆された、日本の公家九条兼実の日記。
『玉葉』は兼実の公私にわたる記録であり、その記述は1164年(長寛2年)から1200年(正治2年)に及ぶ。
この時期は院政から武家政治へと政治体制が変動した時期と重なり、源平の争乱についても多数の記述がある。
このことから、平安時代末期から鎌倉時代初期の研究を行う上での基礎史料と位置付けられている。
 
なお、同時期の史料には『吾妻鏡』もあるが、これは鎌倉幕府とりわけ北条氏の立場で編纂された正史に近いものである。
一方、九条兼実は関白や太政大臣を歴任した朝廷側の大物であり、『玉葉』は朝廷側の史料と言える。
そのことから『玉葉』と『吾妻鏡』は相補的に用いられることが多い。
 
また当時の公家の日記は、宮中行事を遂行するための所作など(=有職故実)を後世に伝える目的も帯びていた。
『玉葉』も例外ではなく、宮中における儀式の次第が詳細に記されている。
 
兼実の孫・九条道家の没後、元本は一条家に伝えられた。九条家に伝わるものは写本である。
 
別名 『玉葉』は『玉海』『月輪兼実公記』などと呼ばれることがある。
このうち『玉海』については、同じ五摂家の二条家が『玉葉』という名称を用いず『玉海』と呼んだのが始まりとされる。
 
江戸時代、水戸藩が大日本史を編纂する時は『玉海』の名で記載された。
 
◆吾妻鏡 https://ja.wikipedia.org/wiki/吾妻鏡
『吾妻鏡』(吉川本)右田弘詮の序文『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、1180年(治承4年)から1266年(文永3年)までの幕府の事績を編年体で記す。
成立時期は鎌倉時代末期の1300年頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。
後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。
 
編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。
 
◆『太平記』https://ja.wikipedia.org/wiki/太平記
『太平記』(たいへいき)は、日本の古典文学作品の一つである。
 
全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。+「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。
 
第二次世界大戦後、「太平記」を称する小説やテレビドラマが多く作られたため、混同を避けるために『古典太平記』と呼ばれることもある。
 
◆総髪(そうはつ)https://ja.wikipedia.org/wiki/総髪
男性の髪型。江戸時代前期から男性の神官や学者の髪形として結われ始めた。
なお女性の場合は同じ「総髪」でも読みが「そうがみ」と異なる(→ 「ポニーテール」の項を参照)。
 
月代(さかやき)を剃らずに、前髪を後ろに撫で付けて、髪を後ろで引き結ぶか髷を作った形を言う。
髪を結ぶ位置が高いものは形が慈姑(クワイ)に似ることから「慈姑頭」とも呼ばれた。
 
そもそも月代とは、兜を被ったときに、頭が蒸れないようにするのを目的とした武士の戦での髪型が起源であり、神官や学者は戦闘にはかかわらないという思想上の観点から、この月代は剃らずに総ての髪を残していた。
これが「総髪」の語源である。
時代が下るにつれて、儒者に限らず「思想家」が一般的にこれを結うようにもなり、幕末の頃になると勤王派の志士の間で大流行したほか、佐幕派の面々の間でもこれを結う者が少なくなかった。
江戸時代初期の軍学者・由井正雪、幕末の勤王派の志士・坂本龍馬、佐幕派の新撰組局長・近藤勇などの画像や写真では、月代を剃らず、全ての髪が残っている。
 
なお時代劇に出てくる医師は大抵この総髪を結っているが、御殿医などの官職に就いてる医師の場合髪を剃り上げていた。これに対し町医者などは総髪が一般であった。
これは戦国時代の医師が戦場に動員される際には非戦闘員(金創医)であることを敵方に示すために髪を剃り上げていたことに由来するという説もある
 
◆クワイ(慈姑)https://ja.wikipedia.org/wiki/クワイ
クワイ(慈姑、学名:Sagittaria trifolia var. edulis)は、オモダカ科の水生多年草であるオモダカの栽培変種である。別名(田草、燕尾草、クワエ)とも言う。
 
クワイの語源は河芋(かわいも)が変化したという説やクワイグリから転じた等の伝承がある。
 
日本へは平安初期に中国から伝来したという説、16世紀に朝鮮半島より伝わったという説がある。
 
◆ポニーテール(英:ponytail)https://ja.wikipedia.org/wiki/ポニーテール
 髪を後頭部の高い位置で一つにまとめて垂らした髪型。
 日本語ではかつて総髪(そうがみ)といった。
 
◆月代(さかやき)はいつごろどうしてできたの? 町人思案橋・クイズ集
http://bit.ly/xbRfap

◆つき‐しろ【月代】
1 月が出るときの白い空。「 -ガミエタ/日葡」
「五つ時の空には地上を照らす―とてもない」〈藤村・夜明け前〉
2 「さかやき」に同じ。

コメントを投稿