縄文人の志葉楽さんのブログ

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●あまのじゃく 【天の邪鬼】

2020年06月02日 18時44分00秒 | 文化
★あまのじゃく 【天の邪鬼】
〔(2)が原義〕
(1)人の言うことやすることにわざと逆らうひねくれ者。つむじまがり。あまのじゃこ。
(2)昔話に悪者として登場する鬼。「瓜子姫」に出るものが有名。記紀神話の天探女(あまのさぐめ)に由来するともいわれる。
(3)仏像で四天王や仁王が踏みつけている小さな鬼。また、毘沙門天(びしやもんてん)が腹部に付けている鬼面。
(4)鳥キタタキの別名。

★天邪鬼 隠語大辞典
読み方:あまのじゃく
1.他人の言に従はず、必らずこれと反対のことをなす魂性の曲がれる者を云ふ。「あんな-を相手にするな」。
2.何事にでも人に反対して見たい性分の者をいふ。
分類  東京

★天邪鬼(あまのじゃく、あまんじゃく)https://ja.wikipedia.org/wiki/天邪鬼
悪鬼神もしくは小鬼、また日本の妖怪の一種とされる。「河伯」、「海若」とも書く。
「天邪鬼」とは「故意に相手に逆らう人」を意味する言葉で、ルールを素直に聞いてくれない人や、わざとまわりとは違う意見を言ったりする人を指します。

★天邪鬼 歴史民俗用語辞典
読み方:アマノサグメ
昔話の瓜子姫を代表として、民間説話に多く登場する想像上の妖怪。

★あまんじゃこ 大阪弁
 大阪弁    訳語     解説
あまんじゃこ あまのじゃく 天ん邪鬼。

★あまんじゃこ 高松の方言
方言  あまんじゃこ
意味
へそまがり・わざと反対する者・自分勝手。「あまのざこ(天邪鬼)」のなまり。
東京では「あまんじゃく」という。

★きそんぼ 四日市市四郷地区方言
 方言   共通語・該当漢字   語意解説または【使用例】
きそんぼ   かわりもの    あまのじゃく、偏屈へんくつ者


★うりこひめとあまのじゃく
https://ja.wikipedia.org/wiki/うりこひめとあまのじゃく
日本の昔話の1つ
瓜から生まれた瓜子姫が主人公の日本民話。 桃太郎のように、植物から生まれた人物が活躍する民話の一つである。
日本全国に広く分布しており、話の展開が地方によって異なる。
また、主人公の名前も瓜子姫のほか、瓜姫(うりひめ)、瓜姫子(うりひめこ)、瓜子織姫(うりこおりひめ)、瓜娘(うりむすめ)などとなる場合もある。

★天逆毎(あまのざこ) https://ja.wikipedia.org/wiki/天逆毎
日本の女神。俗に、天狗や天邪鬼の祖先であるとされている。
江戸時代の百科事典である『和漢三才図会』(巻44「治鳥 付 天狗 天魔雄」)では「ある書」からの引用として、神であるスサノオが体内にたまった猛気を吐き出し、その猛気が形を成すことで誕生したとされる。姿は人間に近いものの、顔は獣のようで、高い鼻、長い耳と牙を持つ。物事が意のままにならないと荒れ狂う性格で、力のある神をも千里の彼方へと投げ飛ばし、鋭い武器でもその牙で噛み壊すほどの荒れようだとされている。また、天邪鬼のように物事をあべこべにしないと気の済まない性格で、前のことを後ろ、左のことを右などと言ったという。
自らと同様に、自分ひとりで子供の天魔雄(あまのさく)をもうけるが、後に天魔雄は九天の王となり、荒ぶる神や逆らう神は皆、この魔神に属した。彼らが人々の心に取り憑くことによって、賢い者も愚かな者も皆、心を乱されてしまうとされている。
江戸時代の僧侶・諦忍は『天狗名義考』(1754年)で、この天逆毎・天魔雄を「日本天狗ノ元祖ナリ」と評し、また「天狗」に対して「あまのざこ」という訓読を付けているが、他の書にはこの説は見られない。
天逆毎・天魔雄は、鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』(1779年)でも描かれている。
天逆毎と天雄魔神の親子は、鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』でも描かれている。

★女天狗(おんなてんぐ、めてんぐ)https://ja.wikipedia.org/wiki/女天狗
天狗の一種で、その名の通り女性の天狗。
江戸時代の百科事典『和漢三才図会』巻44治鳥付天狗天魔雄の記述では、スサノオが吐き出した猛気から「天逆毎姫」(あまのさこのひめ)が生まれ、これが獣の首と人の体を持つ天狗神だとしている。僧の諦忍の著書『天狗名義考』でも『先代旧事本紀大成経』から引用し、スサノオの息から「天狗神」(あまのざこがみ)が生まれたとある。これは鳥山石燕による妖怪画集『今昔画図続百鬼』にも「天逆毎」として描かれている。
また『源平盛衰記』によれば、驕慢な性格の尼法師が「尼天狗」になるとある。尼天狗の顔は天狗に似るが、もとが尼のために頭は剃髪しており、背に翼を持ち、法衣を身にまとっているという。
こうした女天狗は、男性の天狗と共に世俗に混じっているという。その際の姿は長い頭髪を持ち、黛や口紅で化粧し、歯には鉄漿をつけ、緋色の袴、小袖五ツ衣、薄絹を身に着けており、天狗どころか優美な女性にしか見えず、背の翼を見るまでは天狗とはわからなかったという

★『今昔画図続百鬼』(こんじゃくがずぞくひゃっき)
https://ja.wikipedia.org/wiki/今昔画図続百鬼
1779年(安永8年)に刊行された鳥山石燕の妖怪画集。『画図百鬼夜行』の続編。
「雨」「晦」「明」の三部構成となっている。『画図百鬼夜行』は絵のみであったが、本作は加えて解説文が添えられていることが特徴。

★『画図百鬼夜行』(がずひゃっきやこう)
https://ja.wikipedia.org/wiki/画図百鬼夜行
安永5年(1776年)に刊行された鳥山石燕の妖怪画集。
『今昔画図続百鬼』『今昔百鬼拾遺』『百器徒然袋』とある石燕の妖怪画の中でも最初に刊行されたものであり、現代ではこの4つを総称して「画図百鬼夜行シリーズ」などとも呼ばれる。
「前篇陰」「前篇陽」「前篇風」の3部構成となっている。各部を「前篇」と題しているものの後篇は存在せず、この後に刊行された『今昔画図続百鬼』が後篇に相当する。
題名の「百鬼夜行」とは本来は妖怪たちが集団で跳梁する様子のことであり、室町時代の『百鬼夜行絵巻』などはその通り妖怪の集団を描いたものだが、本書は妖怪の1点1点に名称を添えて紹介しており、いわば「妖怪図鑑」のようなスタイルとなっている。後の画集と比較すると河童や天狗といった、日本の伝承にある妖怪の中でも比較的有名なものが多い。
石燕自身が巻末で「詩(うた)は人心の物に感じて声を発するところ、画(え)はまた無声の詩とかや」と述べている通り、禁欲的なまでに画賛を廃しており、『今昔画図続百鬼』以降に見られるような解説文はないものが多く、解説文があってもごく短い解説に留められている。
題名の「画図」の読みは「がず」「えず」「がと」など様々で定説はないが、国文学者・高田衛は「がず」の読みを推奨している

★百鬼夜行絵巻(ひゃっき やぎょう えまき)
https://ja.wikipedia.org/wiki/百鬼夜行絵巻
日本の絵巻物の一種である。代表作とされてきたのは、京都大徳寺山内の塔頭、一休宗純ゆかりの真珠庵に所蔵される「百鬼夜行図」(重要文化財、真珠庵本)である。

★百鬼夜行(ひゃっきやぎょう、ひゃっきやこう)
https://ja.wikipedia.org/wiki/百鬼夜行
説話などに登場する深夜の町を集団で徘徊する鬼や妖怪の群れ、および、彼らの行進である。
鬼や妖怪などが群れ歩いているとされており、「百鬼夜行に遭った」という表現などがとられることもある。経文を唱えることにより難を逃れた話や、読経しているうちに朝日が昇ったところで鬼たちが逃げたり、いなくなったりする話が一般的で、仏の功徳を説く説話でもある。平安時代から室町時代にかけ、おもに説話に登場しており、多くの人数が音をたてながら火をともしてくる様子、さまざまな姿かたちの鬼が歩いている様子などが描写されており、これに遭遇することが恐れられていた。
『口遊』(10世紀)や鎌倉時代から室町時代にかけて編まれた類書のひとつ『拾芥抄』には、暦のうえで百鬼夜行が出現する「百鬼夜行日」であるとして以下の日が挙げられており、「子子午午巳巳戌戌未未辰辰」と各月における該当日の十二支が示されている。
1月・2月 - 子(ね)日
3月・4月 - 午(うま)日
5月・6月 - 巳(み)日
7月・8月 - 戌(いぬ)日
9月・10月 - 未(ひつじ)日
11月・12月 - 辰(たつ)日
百鬼夜行に出遭うと死んでしまうといわれていたため、これらの日に貴族などは夜の外出を控えたといわれている。また「カタシハヤ、エカセニクリニ、タメルサケ、テエヒ、アシエヒ、ワレシコニケリ」と呪文を唱えると、百鬼夜行の害を避けられるという。『口遊』や『袋草紙』(12世紀)などでも既に同様の歌は記されており「かたしはや えかせせくりに くめるさけ てえひあしえひ われえひにけり」などとある。これらは「自分は酒に酔った者である」(手酔い足酔いわれ酔いにけり)といった内容を詠み込んでいる歌である。または「難しはや、行か瀬に庫裏に貯める酒、手酔い足酔い、我し来にけり」などと解釈されている。また山脇道円『増補下学集』など、百鬼夜行日は節分(現在の太陽暦でいえば大晦日)であると記している文献も存在する。
 
●『口遊』(くちずさみ) https://ja.wikipedia.org/wiki/口遊
平安時代中期に編纂された児童向けの学習教養書。全一巻。源為憲の作。ただし書名は「くちすさび」と読んだかともいう。
解説
本書はその序文によれば、藤原為光の子である当時7歳の松雄君(のちの藤原誠信)のために編纂されたもので、内容を「門」と称して19の分野に分け、さらに「門」の中の各記事を「曲」と称して数え、総勢378曲を収録したという。序文の最後に「天禄元年冬十二月二十七日」(971年1月26日)と記す。本文は漢文で記され、和歌等は借字で表記される。その「門」の内容は、現存する唯一の伝本である真福寺本によれば以下の通りである。
乾象門六曲
時節門九曲
年代門三曲
坤儀門五曲
諸国門三曲
田舎門九曲
宮城門十三曲
居処門三曲
内典門四十一曲
人倫門十七曲
官職門五十五曲
陰陽門四十三曲
薬方門九曲
飲食門六曲
書籍門二十六曲
音楽門十六曲
技芸門五曲
禽獣門九曲
雑事門十一曲
 
●袋草紙(ふくろぞうし) https://ja.wikipedia.org/wiki/袋草紙
平安時代後期の保元年間(1156年-1159年)頃に公家で六条家流の歌人であった藤原清輔が著した歌論書である。4巻および遺編1巻からなる。
概要
『袋草紙』は「袋草紙」と「袋草紙遺編」から成立し、前者は「和歌会事」「撰集故実」などの故実部分・「故撰集子細」「諸集人名不審」などの歌集や歌人の考証部分・「雑談」の和歌説話・「希代和歌」の4つの部分から構成され、後者は古写本の多くが「和歌合次第」と記すように、主として歌合に関する資料を掲げている。
『袋草紙』の眼目は前者にあったと考えられている。特徴として、中国説話をほとんど用いていない点、紀貫之・凡河内躬恒・大江匡衡・藤原公任・能因・赤染衛門・和泉式部などの歌人に関する説話を援用している点が挙げられる。
藤原清輔が袋草紙を著述した意図は、対内的には作歌上の心得を教示するだけでなく、藤原隆経・藤原顕季・藤原顕輔・藤原清輔にわたる重代の歌人の心構えを説き、対外的には重代の家としての厳しさを強調し、その厳しさに絶えた矜持を誇示することにあったと思われる。また、藤原清輔と親戚関係の大中臣家を賛美する逸話が多い。
 
◆狂歌(きょうか)  https://ja.wikipedia.org/wiki/狂歌
社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込み、五・七・五・七・七の音で構成した諧謔形式の短歌(和歌)。
 
◆俳諧(はいかい)  https://ja.wikipedia.org/wiki/俳諧
主に江戸時代に栄えた日本文学の形式、また、その作品のこと。誹諧とも表記する。正しくは俳諧の連歌あるいは俳諧連歌と呼び、正統の連歌から分岐して、遊戯性を高めた集団文芸であり、発句や連句といった形式の総称である。





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