縄文人の志葉楽さんのブログ

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∵ ∵ ∵ 日本の時の読み方

2020年04月09日 19時28分28秒 | 自然
∵ ∵ ∵ 日本の時の読み方
★比較文化史の試み37 旧石器時代  https://00m.in/8ulBa
旧石器時代
日本の旧石器時代は、約3万5千年前の後期旧石器を始まりとする。
いわゆる、原人や猿人などのことではなく、私たちと同じ
「新人(ホモ・サピエンス・サピエンス)」の時代に入ってきてからである。
しかも、ナイフ型石器というかなり完成された石器を伴う。
つまり、旧石器人は高度な技術をもって、日本列島にやってきた。こ
のナイフ型石器には日本固有の特長があり、周辺地域とは異なる点がいくつかある。
もちろん、彼らには日本人などといった意識はないし、
単に現在の日本の領土内にいたということにすぎない。
文化の継承があるとは断定できないが、現在に我々が存在する以上、
旧石器時代に我々の先祖にあたる人々どこかにがいることは間違いない。
 
★比較文化史の試み38 旧石器時代2  https://00m.in/i84RV
旧石器時代 その2
北海道は大陸と陸続きの関係で、本州・四国・九州とは異なった石器文化をもっていた。
大陸から見れば半島であり、北海道までは容易に到達することができる。
ナイフ型石器が日本列島独自の文化であることは前述のとおりだが、
それは本州・四国・九州が対象となる。
北海道に到達した旧石器人が「まだ舟をつくっていない」と仮定するなら、
津軽海峡を越えられるのは厳寒期の凍結時だけと思われる。
おそらく、これが文化を分けた理由だろう。
 
★比較文化史の試み39 旧石器時代3  https://00m.in/TbNdW
旧石器時代 その3
ナイフ型石器II期になると、角錐状の石器が出現する。
しかし、現在のところ北海道では出土しない。
これも津軽海峡という「海」が影響しているのだろう。
北海道は旧石器時代を通して本土とはやや異なる文化圏に属していたようだ。
旧石器時代の黒曜石の産地のひとつに神津島があり、神津島が本土と
陸続きになったことがないと考えられ、このことから舟の存在が指摘されている。
その根拠となった「石斧と砥石(といし)」がナイフ型石器I期の途中で
忽然(こつぜん)と消えてしまう。
この原因は全く不明である。磨製石斧が舟を作る道具で、より便利で
新しい道具に置き換わったのなら、その石器が出土するはずだが、
現実には、そのような石器は見つかっていない。
その結果、磨製石斧を動物解体用の道具とする説が有力視されることになる。
そして、大型動物の激減が磨製石斧の生産を止めさせる。
そのように説明するのが「動物解体道具説」である。
出土した磨製石斧の一部から動物の脂肪酸が検出できたとの報告もあるが、
疑問視するむきもある。

★江戸時代の時間の感覚は弥生時代と変わらない...?: あまのじゃくの羅針盤
http://aze.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-4ff7.html
2011/02/17
江戸時代は,なんせ...2時間単位で行動していたみたい。
この間の1時間は半刻と呼ばれてはいたが、これはもう時間の経過が分からない。
 したがって腹時計でやっていたとも...?
 「明け六つ」も一定の時刻ではなかった。
文字通り夜のあける時間...という程度の割り振り、感覚だった?
故に、この明け六つは季節によって動いていく。
季節が変われば明け六つの時刻が変わり
「一刻」の時間の長さも季節によって変わっていた。
また昼と夜の長さが季節で変わるから、
一刻の時間の長さも昼と夜では少し違うものになる。

★第75回 時計と時間 – 縄文エッセイ - 縄文ファン
https://aomori-jomon.jp/essay/?p=7477   2014/12/09
蚊やダニは我々が気づかない間に皮膚に穴をあけて管を刺し、血を吸って立ち去るという離れ業をやってのけます。小さくてすばしこい蚊の眼には人間の巨大な肉体の動きはスローモーションに見えると聞いたことがあります。反対に、静かに立っていると思える樹木は早回しのフィルムで見ると、実は生き生きと陽の光を追って葉や枝を動かし、成長していることがわかります。
小さな虫、大きな木それぞれに流れる時間は、その速さが違うということになります。
木と虫にとどまらず、あらゆる生き物にはそれぞれに流れる時間の速度があって、惑星レベルで考えれば、マントルの動きや季節風の代謝などさらにマクロな時間が流れ、宇宙に至っては時間の流れはさらに混沌とした不確かなものになると考えられます。

★西孝二郎著『古代史のからくり』の紹介
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/ekikyo.htm
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 古代日本の古典や祭祀・信仰が道教など中国の古代思想の影響を受けているという指摘が、これまでかなりなされてきた。個人的には、扶桑国問題などで『山海経』が興味深いものの、これを含めて中国や朝鮮半島の経典・祭祀を念頭においた観点からの日本古代史の考察や古典の分析も望まれる。
 さて、本書(2007年8月刊、彩図社ぶんりき文庫)は、儒教の基本テキスト「五経」の筆頭に挙げられる易経と記紀との関係について、考察を加え所説を展開するものである。裏表紙に記載の紹介文には、「古代史料のあちこちに潜む文字遊び・言葉遊びの数々。その大半は『易経』に立脚して創作された記紀の内容……。長年月の間に築き上げられてきた数多の定説の塔を粉砕し、一からの再考を強いる、古代史研究のための新・基礎解釈!」と記される。通読してみても、これは要を得た説明といえよう。

★「古事記」「日本書紀」の読み方(地名、人名)
https://blog.goo.ne.jp/ikejun_2018/e/2097f44e1e6324b1c803c2b9bac344b7
2018-06-09
 歴史の祠(ほこら)  魏志倭人伝の読み方(地名、人名)
https://blog.goo.ne.jp/ikejun_2018/e/61bca435a9719951984e1a1073501a6a
を参考に日本の歴史書「古事記」「日本書紀」の漢字について考えてみましょう。
漢字が仏教と共に日本に伝わったのが飛鳥時代の6世紀ごろ
氏姓制度で、地名や豪族の名前に漢字が使われます。
基本的には、漢字二文字が名前です。

★日本が好きになる!歴史全授業(小6・中学)
2013/05/14
http://aokihumu.blog69.fc2.com/blog-category-6.html
★弥生時代の開始年代
http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/yayoi.htm
国立歴史民俗博物館で「弥生はいつからか」というテーマで企画展示が行われているので2007年8月11日に四年ぶりに佐原まで出かけました。四年前にマスコミに大きく取り上げられ、その後の成果の報告を期待してでかけました。九州から東北までの縄文晩期~弥生の遺跡で発掘された土器に付着した炭化物や、水田に打ち込まれた杭(くい)や矢板で年代測定が行われました。国立歴史民俗博物館では、弥生時代の開始時期の定義を、水田稲作の始まった時期とし、九州北部で水田稲作が始まった前10世紀後半としています。従来の弥生観では、水田稲作と金属器がセットで生産性が非常に向上し、わずか100年間で畿内や東海の一部にまで伝播したことになっていましたが、報告された弥生時代では、早・前期の600年間が石器時代であり、ゆっくりと時間をかけて水田稲作が広がっていきました。
 
★道祖神 男根 胞衣(えな)信仰 猿楽  [No5]
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/enasinko.html
精霊の王/中沢新一
註:以下は上記の本からの抜粋である。ただし、緑色の部分は、私の補足説明であり、文責は私にある。
猿楽の徒の先祖である秦河勝は、壺の中に閉じ籠もったまま川上から流れ下ってきた異常児として、この世に出現した。この異常児はのちに猿楽を創出し、のこりなくその芸を一族の者に伝えたあとは、中が空洞になった「うつぼ船」に封印されて海中を漂ったはてに、播州は坂越(サコシ)の浜に漂着したのだった。その地で、はじめ秦河勝の霊体は「胞衣荒神」となって猛威をふるった。金春禅竹はそれこそが、秦河勝が宿神であり、荒神であり、胞衣であることの、まぎれもない証拠であると書いたのである。
 
 
●onia222さん
縄文時代は,みな3,4時間ほどの労働で,あとは歌ったり踊ったりと楽しい生活をしていたと思います。
なので世界中から永く日本は憧れの的だったようです。


諸外国は先天的に戦う宿命を持つ蕃族割拠のローカルの地でしたし、
従って歴史文化も永続きはなかったですからね。
今のほうが便利かどうかも疑問です。便利が進歩ではないかも知れません。

今と古代とは、価値観が全く違いますから、単純に比較できません。
人口比や食糧の多少で比較しても其れが要件になるかどうかは分からない。
貧しさとは何なのか?今は食料が豊かなのか?今は平和なのか?
こうした点についてそもそも日本人は認識できていない。

例えば、縄文時代は戦争をした形跡が見られないのに対して、
「20世紀は戦争の世紀」だったと言われる。
それで凡そ1億人が犠牲になった。今も何処かで戦争や内乱が続いています。
食料と水飢饉で何百万人もが苦しんでいます。

此れでは、人類には学習能力が皆無である証拠であり、今の世間の常識が
「生命第一」としたり、モノカネ主義の価値観こそ大きな誤解である事を
知るべきです。
日本人は昔から長寿でしたが、長寿は結果であって、病気や苦しみの中で
生き永らえるのは無意味です。

戦後の日本や今のアジアのように多産多死ではなくて、今のように少子化でした。
縄文時代は、今のようにどっさり食ってどっさりウンコをする快楽文明ではなかった。

マスプロ、マス消費、大量生産、大量消費と大量ゴミと大量殺りくの戦乱、
病気、苦しみはなかった。
寧ろ其れをなくす知恵や哲学がありました。
また四季折々の滋味豊かな旬の食べ物が、家の周りの天然の冷蔵庫である
森や川に多種多様に幾らでもあった。

其れに比べて今はスーパーに色んな物があるけど、全て年中変わり映えのない
汚染された加工食品や偽装食品であり、ペットフードと大差ない商品。
そんなものしか食べられない生活は貧しいし、量より質の問題です。

それしかない中で、毎日仕事仕事の状況で有るなら、
ペットでも欝になってしまいますね?
其れとは違って縄文時代から江戸時代までの日本は、
凡そ上述のような平和と調和の暮らしでした。

一体どこが違ったのかと言えば、モノカネ主義ではなくて、
根本的には、どうせ一生、生きるなら悪魔の中ではなくて、
神様と共に生きようとする考えで暮らしていたからです。


◆消えた歴史 http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-922.html
戦後、ほんとうに日本的なもの、日本人が絶対に知っておくべき様々な歴史が、
次々と消えて行っているように思います。
たとえば、物語として、日本の神話や、
曽我兄弟、二宮尊徳、赤穂浪士、山鹿素行、乃木希典、天狗党、天誅組、
義経と頼朝の相克、壬申の乱、朝鮮進駐軍、ハーグ陸戦条約、軍人勅諭、
教育勅語等々、数え上げればきりがない。

◆縄文紀行 北日本の遺跡~実像に迫る
http://okome-okome.sakura.ne.jp/data/touhoku.htm
47 ナゾの板材 縄文の戦争論に一石  (2004.03.16)
 「縄文の狩猟採集民は富や蓄えがなかった。従って戦争はなかった。
 定義は難しいが、戦争は農耕社会が成熟した弥生時代から始まった」
 これは三年前に青森市内で開かれた、ある原子力関係の大会で、
 佐原真・国立歴史民俗博物館館長(故人)が、
 特別講演の中で述べた弥生の戦争論だ。

◆大平山元I遺跡 - Wikipedia http://bit.ly/ylekLh
大平山元I遺跡(おおだいやまもといちいせき)とは、青森県外ヶ浜町にある、縄文時代遺跡である。出土した土器片.この遺跡から発掘された縄文土器に付着した炭化物のAMS法による放射性炭素年代測定法の算定で16500年前(暦年較正年代法による)と...

◆大平山元遺跡 - 北海道・北東北の縄文遺跡群
https://jomon-japan.jp/jomon-sites/odai-yamamoto/
大平山元遺跡. [おおだい やまもと いせき].
2013(平成25)年3月27日 史跡指定.
時代区分-草創期.
青森県津軽半島の東側中央部、陸奥湾に注ぐ蟹田川左岸の標高26mの河岸段丘上に立地する、縄文時代草創期初頭(紀元前13,000年頃)の遺跡です。
旧石器時代の特徴を持つ石器群とともに、土器片と石鏃(せきぞく)が出土しています。土器片に直接付着していた炭化物の放射性炭素年代測定を行ったところ、12,680±140~13,780±170yrB.P.という年代が得られました。これにより約16,500年前のものである可能性が指摘されています。また、共伴する神子柴・長者久保石器群は、旧石器時代末期の特徴を引き継いでいます。
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時の流れていうか時間の使い方は様々で時間を遡るほどのんびりしていた。

現代人が果たして時間を無駄に使っているのか。
   人それぞれの考え方がある。

忘年会 新年会 懇親会 など
身近で行う模様しや宴会などは短時間で企画して実行できる。

人を集めるとなると最低 経験では三ヶ月。
大きくなればなるほど時間は掛かるもの。
時間かければ良いとは限らないけど。

時の流れの中で時間の観念はその時の情景なども加味されて人により変わってくる。

縄文時代は,みな3,4時間ほどの労働で,
あとは歌ったり踊ったりと楽しい生活をしていた

こんな生活をしてみたいもの。
キット時間はユックリと たゆとう様に流れ居たのだろう。

時計に縛られて生活している。
 現代人は幸せなのかな。

今は 武漢コロナウィルスに触り回されている。

支那人や 白人が 関わると 碌なことは無い。
のんびりと ゆったりと 行きたいものである。




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