誰もが自我を持っている。

そして誰もが自我を持つが故に不自由だ。

自由とはあなたが自由に振舞うことではない。

あなたから自由になることを「本当の自由」と呼ぶ。

 

私という境界線。自我はそこから芽生える。

人はその狭い境界線から出ようとしない。

自分の個性や自分の財産を守ることに必死だ。

 

元々私たちは、無限であるにも関わらず

自我が人間をこれほどまでに有限なものにした。

 

外を見てみるといい。

もし我が家にいるのならば、庭先をみるといい。

そこに咲く花はあなたの所有物だ。

 

しかし、それは所有した気になっている物に過ぎない。

草木は元々自然から与えられた物であり、誰の所有物ではない。

法的にあなたの所有物と認められているだけの話だ。

 

それは一時的なものだ。

 

その土地を売ってしまえば、あなたの物ではない。

あなたはいつか死ぬが、その時所有物は全て失われる。

子孫に引き継げればいいかもしれないが

人生はあなたの思いどおりにはならない。

 

そう、所有とは一時的なものだ。

自分の身体でさえ、所有してはいない。

死があなたから全てを取り上げてしまう。

 

私、私のもの。

このキーワードに自我の全てがある。

 

所有の芽生えは、執着を生み出し、人を不自由にさせる。

 

家を所有すれば、失わないよう保険をかける。

若さにしがみ付くと、老いることに恐怖を感じる。

子供への所有欲が芽生えると、子供の人生に執着する。

会社に執着すると、自分を犠牲にしなければならなくなる。

 

人は皆不自由だ。

だから、人生は重苦しいのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ー自我から自由になることなしに、人は解放されないー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真の自由とは、あなたが自由になることではない。

真の自由とは、あなたから自由になることを指す。

 

あなたが自由になる道は、自我を育てる道だ。

自我は所有欲を生み、そこから不自由さが生まれる。

 

あなたが自由を求め、暗く重い人生から解放されたいと願うなら

自我から自由になる道を選びなさい。

 

それは意識の変容だ。

 

自我とは思考から成り立っている。

 

座禅ではよく思考を見守りなさいというが、

思考を見守っても悟りに到達することはできない。

自我と向き合うことは、自我を育てることに繋がるからだ。

 

思考に振り回されない。

思考がただゆくに任せる。

ということに関しては、私も大賛成だ。

 

しかし見守る対象は、そこではない。

 

いいかな。

あなたの身体は借り物だ。

夜が明ければ、明け渡し出ていかなければならない。

 

所有せず、執着せず。

ただ浮かび、漂うこと。

 

ブッダが執着を手放せという時、

それは執着と向き合えという意味ではない。

 

執着せず、ただ漂えと言っているだけだ。

言葉をシンプルに受け取りなさい。

 

あれこれと判断するのも、また自我だからだ。

 

自由とは自我からの自由。

それ以外に、道はない。

 

 

長谷川TAOプロフィール