頼子百万里走単騎 "Riding Alone for Millions of Miles"

環境学者・地理学者 Jimmy Laai Jeun Ming(本名:一ノ瀬俊明)のエッセイ

中国現地調査における教訓(その1)

2020-05-13 22:14:56 | 旅行

その昔、職場のニューズレター(1997年)で没にされた原稿(その1)。

昨年の著書にも収録してある。没の理由は忖度みたいなことだったと記憶。

---

「警官(公安)のコスチュームは軍服(人民解放軍)に似ていた(1992年春)」

 1992年3月14日、ちょうど1週間前に結婚したばかりの小生であったが、結婚式と新婚旅行との谷間の時期に中国出張をすることになり、北京首都机場(北京空港)に降り立った。遅まきながら、小生にとってはこれが初の海外渡航であった。新妻には多少顰蹙を買ったようであるが、地球環境研究総合推進費の委託研究費での海外調査(当時小生は東京大学都市工学科助手)へは、こんな時期にしか行けないのである。

 カウンターパートは国家計画委員会能源(エネルギー)研究所であった。空港に迎えが来ており、小生の名前の札を掲げているはずであったが、それらしき人物はどこにも見当たらない。待つこと1時間、結局誰も現われなかった。スーツ姿に大きなトランクを持った小生はいかにも「日本人」であったらしい。当然のように白タクの連中が群がって来る。小生も耳学問で客引きの白タクのことを知っていたので相手にしなかった。能源研究所の電話番号を持っていたのだが、30人ばかりずらりと順番待ちの並んだ公用電話と、料金を徴収している無愛想なおばさんを見て、すっかり臆してしまった小生には成す術もなかった。それ以前に、空港の係官から白タクドライバーに至るまでほとんど英語が通じないこと、空港にたむろする怪しい風体の連中等々、社会主義国家建設に燃える勤勉な中国人のイメージのみを抱いていた小生は、カルチャーショックに打ちのめされていたのであった。

 第三外国語や留学生との交流で習った文法を必死で思い出し、地上職員にしゃべってみる。相手の言うことはほとんどわからないが、こっちのいうことは少し通じるらしい。とある女子職員(彼女は例外的に英語がうまかったが、これが落し穴の始まりだった。)に自分の置かれた状況を説明していると、彼女に呼ばれて背の高い2人組みの男が近づいてきた。スーツの上に高級そうなウールのトレンチコートを羽織っている。ざっと見渡した範囲では一番高級そうな衣服に身を包んだ連中だった。彼等は自分達は中国の刑事だという。しかも流暢な日本語で、「この人はタクシードライバーです。彼の車でとりあえずホテルまでいって下さい。」と、さっきから小生に付きまとっていた白タクの男を指すではないか。「他不是出租司机!(彼はタクシードライバーなんかじゃない。)」という小生の訴えも空しく、乗せられるはめになった。関西の某球団の人気打者Iによく似た風貌のそのドライバーはホテルまでの道すがら、小生の米ドルと彼の人民幣との交換を再三にわたり要求し、安全運転もそっちのけでずいぶん怖い思いをさせられたあげく、通常の約6倍の320元(当時の1元は26円)をボラれたのであった。金額としては日本とほぼ同じ水準であろう。

 あの女子職員にしても名札をつけてカウンター付近をうろうろしていたので小生も信じてしまったのだが、やはり他の女子職員よりはずっと高級な制服(?)を着ていた。ニセ空港地上女子職員、ニセ刑事、白タクドライバーの連携プレーとは、今から考えるとずいぶん手のこんだ騙しかたである。表題の事実を知ったのは市内見物に出た後のことである。新婚1週間目にしてこのような目に会うとは思いもよらなかった。また、この渡航で中国調査における中国語の必要性を強く感じさせられた小生は、以後下手の横好きながら中国語会話をかじることになる。

 結局能源研究所のスタッフと合流できたのは2日後(3月16日)の夕方である。彼等が小生の到着日時を間違えていたらしい。また運悪く土日が入ってしまったため、ホテルから能源研究所に電話しても不在であった。実質2日ほど棒に振ってしまった形になったが、翌17日には工程師のF先生に中国のエネルギー問題についてのヒアリングを行うことができた。18日にはZ所長を始めとする能源研究所のスタッフに、推進費の成果についての発表を聞いていただき、数々の貴重なコメントをいただいた。F先生に作成していただいた中国のエネルギー消費構造のデータは、その後小生の博士論文の1章に寄与したのみならず、COP3に向けて準備されたレポート「地球温暖化の日本への影響1996」執筆にも生かされることになった。

 能源研究所のスタッフと合流するまでの3日間は、あてもなく北京の街を彷徨ったが、なんだか日本の戦後を見ているような感じで、再びカルチャーショックに襲われた。この国はどうやったら近代化できるのだろうか、と真剣に考えてしまった。石炭の大量消費に伴う大気汚染は深刻で、小生が子供のころに体験した豆炭コタツのような臭いが街中に漂っている。街路の緑化が中途半端なのに加え、道路の舗装はアスファルトではなくコンクリートであり、あちこち割れて痛んでいる上に粉塵で埃っぽいので、とても汚い街に見えて仕方なかった。夏に子供の着ているTシャツがくすんだ色をしているのも、洗濯物が大気汚染(SPM)で汚れるためではないだろうか。この夏(1997年)の調査で香港の対岸の街である深圳(Shenzhen)を訪ねたが、エネルギー消費のほとんどが原子力発電による電力とガスであり、道路もアスファルトで舗装され、中央分離帯にはいろとりどりの花が咲き乱れていた。空気もきれいで、これが同じ中国かと思えるくらい美しい街であった。現在(1997年)の北京も、この時に比べると大変な変わりようである。1992年には着ているもので日本人観光客と北京市民を見分けることができたが、今ではそれが難しいくらいみんなおしゃれになってきた。また、なんといっても車が増えており、日本のODAで作った三環路などは時間帯によってはほとんど動かない。1992年には街にはボコボコの車ばかり、という印象があったが、現在ではピカピカの高級外車が結構走っているのが目につく。やはり中国(北京)は、着実に近代化しているようである。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大学における大気科学実習教... | トップ | 大人向けの教科書にいずれ(... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

旅行」カテゴリの最新記事