ラダック語は初めて聞く言葉で音が耳になれず、前回(去年)は全く覚えられませんでした。
今回は、旅の仲間が積極的にラダック語を使おうとしてくれたおかげで、ゲームに参加するような気持ちでみんなでワイワイとラダック語で挨拶などの言葉を言い合っていました。
もちろん、ラダック語なんて、何回聞いても覚えられない。何回繰り返しても忘れる。
その繰り返しです。
その時気がついたことは、忘れるたびに、小さく小さく、意識に登らないほどのスピードで、「やっぱり難しい」「私は覚えるの苦手だから」という気持ちがフッと湧いて出てくること。
その言葉を信じてしまうから(たいていはそういう心のささやきが真実だという思い込みを私たちは持っています)、いつまでたっても覚えられない自分にイライラしたり、嫌気がさしたりするのよね。
または、諦めてしまって、ラダック語なんて難しい言葉を覚えよう思うことをやめてしまいます。
でも、その小さな小さな、なんてことない気持ちの一瞬こそが大事で
その後の自分の世界を大きく大きく変えていく別れ目なんだよね。
暇過ぎて気持ちに余裕があるからこそできることではあるのだけど
あえてその逆の意味のささやきを意識的に入れてあげる実験をしてみた。
何回聞いても覚えられない、忘れる、そのたびごとに「覚えてやるぞー」的な上がる気持ちを
重くない、ごく軽〜いニュアンスで意識的に差し入れてあげるのです。
かるーくするためには中身も軽く。
「わたしって実は頭いいからなあ」「記憶力もいいもんね」とか、なんでもよいです。意味なんてなくていい。軽ければ軽いほどいい。
ポイントは、「軽く」。点を打つように、針を刺すように、風のように、チョンとやるんです。
続きはこちら。
ラダック語って初めて聞いた!
そして、この
ラダック語なんて、何回聞いても覚えられない。何回繰り返しても忘れる。
その繰り返しです。
その時気がついたことは、忘れるたびに、小さく小さく、意識に登らないほどのスピードで、「やっぱり難しい」「私は覚えるの苦手だから」という気持ちがフッと湧いて出てくること。
その言葉を信じてしまうから(たいていはそういう心のささやきが真実だという思い込みを私たちは持っています)、いつまでたっても覚えられない自分にイライラしたり、嫌気がさしたりするのよね。
まさに、私の英語!!!
何度やっても、どうせ覚えられないと何万回思っただろう?
この言葉を信じずに、自分を信じれたら、私はどれだけペラペラになっただろう?
いちいち、エネルギーをなくして、エネルギーを取り戻そうと頑張って・・・
仕事もそうだ・・・。
嫌いな料理も・・・。
もしかして子育ても・・・?!
一瞬一瞬の自分で自分にかけている言葉の暗示の破壊力ってすごいはずで、それはどんなことにも共通する。
幸せになりたければ、一瞬一瞬の気持ちの動きや、使っている言葉を、意識的に自分で整えていくだけのことなんだよね。それが「自分で選ぶ」ということ。
その地道な作業の(でも軽さが大事)積み重ねさえすれば、いくらでもなんとでも、自分の願う世界を自分でクリエイトしていくことができると本当に思う。
今まで自分にかけてきた言葉、
英語→どうせ何度やっても話せないし、聞けない・・・私は語学が苦手だから・・・
仕事→どうせ勉強が苦手だし、体力もないし、やりたくないし・・・
料理→どうせ作っても誰も美味しいと言ってくれない・・・
子育て→また子供に怒ってしまった・・・、器の小さなだめな親・・・
これから自分にかけたい言葉、
英語→私はどうせ記憶力もいいし、英語がスポンジみたいに沁み込む、染み込む
仕事→みんなと楽しみながら、わくわく仕事やろー
料理→かんたんに、キレイで美味しいものが作れるしー
子育て→子供と一緒に楽しもうー
いいことに気づかせてもらった!
ありがたい