江戸川教育文化センター

「教育」を中心に社会・政治・文化等の問題を研究実践するとともに、センター内外の人々と広く自由に交流するひろば

若い教員を育てられない教育委員会と学校現場 (3)

2019-04-18 | 随想
教育委員会の間違いは山ほどあるので今回は取り立てて扱わないが、その指導の下で愚かな振る舞いをしている現場から見ていきたい。

まず、今の学校現場が教育委員会の言いなりになっていることもダメな理由の一つであるが、それは同時に管理職も含め一人一人が教員としての誇りや哲学を持ち合わせていないことも背景にはある。

これは、時には当局サイドが言う言葉かもしれないが、要するに「プロ意識に欠けている」からである。

野球一つを例にとっても、プロ選手は勝つためにチームプレーに徹したり、個人の持ち味を存分に発揮したりする両面が求められている。
仕事の中身は全く異なると言えども、野球も学校教育もその両面で共通する所があるように思う。

先ずチームプレーだが、これは学校で言うところの協同性である。
この発想は佐藤学(東大名誉教授・学習院大学教授)さんの言うところの「学びの協同体」であり、協同性に基づく同僚性が確立されている状態を指すものである。
プロ野球ならば勝ってなんぼの世界であり、そのためにチームは協同して戦うであろう。
学校で言えば、そこの主人公である子どもたちの学びが どこまで深化するかが問われる。
そのための協同であり協働である。

また、個人の持ち味というか個人技はプロ野球チームにとって欠くことの出来ない必要条件である。
例えば、彼に任せれば絶対にランナーを進塁させるバントができる…といったバントのスペシャリストがいたりする。
教員だって同じである。
その人らしさ(その教員の個性)はかけがいのないものであり、面白いクラス(学習集団)を作る原動力でもある。
まして教育に対する教員個人としての発想なり技能は、学びを活性化させるには絶対に必要なものである。

学校や学年が一様に一糸乱れずに行動するのを美しいと感じる輩には理解できないのが、この教員の持つ個性の素晴らしさというものではないだろうか。

「プロ意識」ということから、随分と話題が拡散してしまったが、今の学校現場には個々の教員が独立心を持って自分だけで面白くやっていこうと決意している人間がどれだけいるだろうか。
誤解されては困るが、「自分だけで面白く」というのは他の教員と関わるなということではない。
むしろ逆であって、大いに刺激し合い時には協調して進むべきだ。
そのためにはまず、自分自身がどんな仕事がしたいのか明確なビジョンを持つべきである。
そう、それこそが自分の哲学なのだ。

(つづく)

<すばる>

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 若い教員を育てられない教育... | トップ | 教科担任制(小学校5・6年生)... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

随想」カテゴリの最新記事