『氷と炎の歌』を先に読んでいると感じる違和感
最近、アマゾンプライムでゲームオブスローンズを観ている。
いまさら言うまでもなく、これは極めてすぐれた映像作品だし、これに多くの人が熱中しているのもよくわかる。
だが、原作小説『氷と炎の歌』シリーズを先に読んでいると、ゲームオブスローンズには小さな違和感を感じないでもない。
その違和感とは、「登場人物のビジュアルが思っていたのと違う」ということだ。
- 作者: ジョージ・R・R・マーティン,目黒詔子,岡部 宏之
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2012/03/31
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『氷と炎の歌』の最初の巻『七王国の玉座』では、アリアは「馬面のアリア」と呼ばれていて、剣を振り回すのが好きな女の子という設定になっている。
この設定から、アリアはあまり女の子っぽくない感じなんだろう、と想像していたが、ゲームオブスローンズの映像では(容姿は)わりと普通に女の子っぽい感じだった。
キャトリンは「ネッドのためにもう一人くらい子供を産んであげてもいい」と言っていたので割と若い感じなのかと思っていたら初老の女性に見えたし、あれではちょっと子供が産めそうな感じではない。西洋人は日本人より年上に見えるとはいっても、少々無理があるような気はする。
ジョンやロブはまだ少年のはずだが映像では青年といっていい年齢に見えるし、エダードは思っていたよりもいかつい感じで、ティリオンは言うほど醜くないように感じた。
一方、ロバート王は大体イメージ通りだ。ジェイミーもいかにもジョック代表といった感じだし、ジョフリーも小生意気な感じがよく出ている。
一番イメージ通りだったのはヴィセーリスだ。顔立ちは整っているのに所作から抑えきれない小物臭が漂っている。よくこれほどぴったりの役者を見つけてきたものだと感心した。
ダニーもまあこんな感じだろう。儚さと強さが同居している雰囲気がよく出ている。粗暴なように見えて(ドスラク人にしては)紳士的なところもあるドロゴもなかなかいい。本当は騎馬民族はもっとアジア人ぽい人に演じてほしかったところではあるが、あまり細かいことを言っていても仕方がないだろう。
いろいろと書いたが、ここまで書いたことはすべて私の主観にすぎない。とはいえ、先に原作小説を読んでいる場合、映像化されるとどうしても心の中のイメージと映像が食い違う人物が出てくるのは避けられない。ゲームオブスローンズのようによくできた映像化でもそういうことは起きる。
最近、小説の強みと弱みについてよく考えるが、映像にくらべて視覚情報が圧倒的に少ない小説をわざわざ読む理由は、このあたりにあるのではないだろうか。
映像化、漫画化するとビジュアルが決まってしまう
正直に言って、ゲームオブスローンズ(シーズン1)で「壁」の巨大さをはじめて映像で見たとき、やはり映像作品には小説はかなわないのだろうか、と思ったことはある。
ダイアウルフは狼に見えたり犬にしか見えなかったりするときがあるが、それだけに両方のいいとこどりをしているように思えるし、やはりビジュアルとして動物の姿を見ることができるメリットは大きい。
ブランがアサシンクリードのような感じに壁をのぼっているのには正直笑ってしまったのだが、あれはやろうと思えば子供でもできることなのだ、というのも映像がついたことで説得力が増す。
なんだかんだといって、やはりドラマや漫画はビジュアルに訴えることができるという点では強いし、作品への間口を大きく広げてくれる。
だから、私は好きな小説が映像化されたりコミカライズされるのは基本的に歓迎している。
その方が多くの人に触れてもらえるし、なろう作品なんて漫画はベストセラーになるのに原作は打ち切りになってしまう作品すらあるほどだ。
そうなってしまったらそれはそれで悲しいものだが、とにかく文字だけの小説にくらべ、視覚に訴えられる媒体のほうが多くの人の手に取ってもらえることは間違いない。
小説と漫画、アニメや映画の価値の優劣を比べてみても仕方がないと思うが、小説だけだと客層を広げるのに限界があるのも事実だ。
今、出版業界からはあまり景気のいい話は聞こえてこない。
とにかく本が売れないと言われるし、それは小説も同じことだ。
小説がつまらなくなった、とは思わない。今でもすぐれた作品は日々生み出されていて、今でもそれらを愛好する人々が存在している。
ゲームオブスローンズのような優れた映像作品が存在しているのに、わざわざこれを小説で読む意味とはなんだろうか。先にこのドラマの役者がイメージと違っていると書いたが、まさにビジュアルが存在していないことによって、読者の好きなように姿を想像することができるのが、小説の強みであるともいえる。
小説が映像化されると、人物の姿は演じた役者の姿で固定されてしまう。これが正解、ということになるので、もう想像の余地はない。これは違う、と言ってみたところで、公式がそう決めたんだから仕方がない。
映像化、漫画化は客層を広げ、作品への間口を広げてくれると同時にビジュアルを固定化してしまうので、それまで心の中に存在していた曖昧模糊とした人物や風景のイメージが上書きされてしまう、というデメリットもある。
もちろん、あらかじめビジュアルが頭に入っていることが、逆に読書の助けになるという場合もある。
ウィッチャーの小説などはそうだろう。これを買う人の多くは、ゲームの方を先にプレイしているだろうからだ。
アンドレイ・ザコプスキの小説はよくできているのだが、ゲラルトやシリがどういうキャラクターか、 ケィア・モルヘンというのがどういうところなのか、ということをあらかじめ映像として思い浮かべられるからこそこの物語に没入できる、というのも確かだ。
そういう例外はあるものの、ビジュアルは抜きにして小説自体を楽しめるのが読書家だ。
おそらく小説を好んでいる人は、活字から想像力を働かせるのが好きな人だろう。
そして現在、そういう人は少数派になっていて、だからこそ本が売れない、ということになっているのではないだろうか。あるいは、活字から想像力を働かせることができても、映像や漫画を見る方がより楽しいという人が多くなっているのかもしれない。
ゲームオブスローンズのドラマはただ流して観ているだけでも楽しめるのに対し、原作小説は面白いものの、読むのにはなかなか体力がいる。登場人物はやたら多いし、何人もの視点が入れかわりながら物語が進んでいくので誰か一人に感情移入はしにくい。
それだけに群像劇が好きな人には向いているのだが、この形式がだれにでも読みやすいものだとは思わない。もちろん『氷と炎の歌』を先に読んでもいいのだが、ゲームオブスローンズを先に観てからこれを読むほうが、普通の人には読みやすいのではないだろうか。
言葉が脳内に呼び起こす風景
『氷と炎の歌』シリーズはこの小説独自の言葉が豊富に出てくる作品だ。
私は翻訳の小説を読むのが苦手なのだが、この作品は好きで読み続けていられるのは、この言葉の豊饒さに原因がある。
たとえば、『七王国の玉座』にはこのような部分がある。
この〈神々の森〉を、キャトリンはどうしても好きになれなかった。
彼女はずっと南の、三又鉾(トライデント)河の赤の支流(レッド・フォーク)のほとり、リヴァーラン城のタリー家に生まれた。
そちらの〈神々の森〉は明るくて風通しのよい庭園のようなところで、赤い赤木(レッドウッド)が小川のせせらぎの上にまばらな影を広げ、小鳥たちの人目につかない巣から歌声が聞こえ、空気は花々のかぐわしい香りに満ちていた。
(中略)
ここの森には灰緑色の針状葉で武装した頑強な哨兵の木(センチネル・ツリー)や、オークの大木や、国土そのものと同じくらい古い鉄木(アイアンウッド)が生えていた。
黒くて太い木が密生し、枝が絡み合って頭上に厚い天蓋を作り、地中では歪んだ根がもつれあっていた。ここは、深い静寂と、のしかかる影の場所であり、ここに住む神々には名前がなかった。
(p43)
長めに引用したが、カッコ内の言葉はその前の言葉にルビとして振られているものだ。
このような情景描写が、映像表現に劣っているとは私は思わない。
むしろ、トライデント川だとか、哨兵の木だとか、こういう言葉から自由に好きな情景を連想する愉しみは、小説独自の味わいではないだろうか。
哨兵の木などというからには、やはりこちらを威圧してくるような高い木なのだろうか?幹は太いだろうか?枝ぶりはどんなものだろうか?
ここには決まった答えはない。挿絵も何もないからこそ、そこは読者が自由に想像できる。少ない情報を頼りに脳内に好きな光景を描けることが、小説の強みだ。
他にも、『氷と炎の歌』シリーズには数多くの独自の単語が出てくる。
冥夜の守人(ナイツウォッチ)、誓約の兄弟(スウォーンブラザー)、王の道(キングスロード)、異形(ジ・アザー)、翡翠海(ジェイド・シー)、嵐の果て城(ストームズエンド)……などなど、読者の想像力をかき立ててやまない言葉が、この小説にはほんとうに多い。
こうした言葉をどれだけ思いつけるかが、ファンタジー小説を書くうえでは一つのカギになるのかもしれない。誰も見たことのない世界を想像させるには、普通の言葉だけを使っていてはいけないのだ。作者は語彙をできるだけ豊富にすることで、読者の脳内を豊かにしなくてはならない。
なぜ歴史ものは小説で読みたくなるのか
『氷と炎の歌』シリーズを読んでいて驚くのは、とにかく情報量が膨大なことだ。
まず、登場人物がすさまじく多い。正直、自分でも脇役はあまりちゃんと把握できていない。エダードやキャトリン、ダニーやジョンなどの主要人物の動きさえ追えればそれほど問題ないのだが、こんなにたくさんの人物が必要なのかと思うことはある。
これだけたくさんのキャラを動かさなくてはならないのは、これが一種の「歴史小説」でもあるからだろう。『氷と炎の歌』はファンタジー作品で、ドラゴンや屍人なども出てくるが、ストーリーの中核に据えられているのは各地方の実力者の権力争いだ。
もともとがイギリスの内乱である薔薇戦争に影響を受けて書かれた作品でもあるため、架空世界の戦記という色合いが強いのだ。
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このような小説は、世界観に重みを加えるため、しばしば過去の歴史が語られることになる。
『七王国の玉座』下巻では、ブランが従者のオシャに向かって、歴代のスターク家の当主の事績を語るシーンがある。ストーリーと直接関係ないこの話が2ページ近く続くので人によっては冗長に感じるかもしれないが、私はこういうものを読むのが好きだ。この世界がしっかり作りこまれていて、書き割りのような世界ではないことがよくわかるからだ。
そのあとには学匠ルーウィンが七王国成立以前の歴史を語るシーンもあり、ここもけっこう長い。
こういうものは物語を進めるうえではどうしても必要な場面ではないが、こういう場面があることで、世界観に厚みが出てくる。あたかもこの世界が本当に存在しているかのように感じられるのだ。
そして、このような「歴史叙述」には、やはり文章が一番適している。
これだけの長さの「歴史」を漫画で語っているとかなりページ数が食われて冗長になるし、映像でもやはり時間が食われる。
過去を語るには、文字の中に多くの情報を詰められる小説が適しているのだ。
だから、私は歴史ものは小説で読むのを好んでいる。もちろん合戦シーンなどの迫力は映像作品には及ばないが、文章なら映像作品よりも武将の家柄や人物像・敵国や友好国との外交関係・家族や兄弟の状況など、その世界を知るための情報をたくさん手に入れることができるからだ。
繰り返すが、こうした小説ならではの強みを楽しめる人が多数派だとは思っていない。だからこそ、小説は漫画には勝てないと言い出す人も出てくるのだろう。だが、小説には小説独自の愉しみがあることも間違いない。『氷と炎の歌』シリーズは、特にその愉しみに深くひたれる作品であることは間違いないと思う。