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2019年12月12日
仏さまのプロフ〜釈迦如来・阿弥陀如来
如来とは
悟りを開いたもの。仏法や宇宙の真理そのもので仏の最高位。。。
その意味は、
「真理を悟った者」で仏教の開祖であるお釈迦様のみを指しました。そのお釈迦様が入滅された後、お釈迦様の説法を聞いた人々が集まって教えをまとめたのが諸々の経典ということになります。これらの経典の中から様々な如来が登場してきます。ここではこれらの中から代表的な如来のプロフィールとそのプロフィールなどをシリーズでご紹介していきましょう。
第一回の今回は釈迦如来です。
釈迦如来
釈迦如来は文字通り仏教の開祖にあたります。古代インドの小国の釈迦族の王子で妻や子供もいた実在の人物で釈迦如来とは彼が阿耨多羅三藐三菩提(最上の悟り)を得た姿を表しています。
お釈迦様は生まれてすぐ7歩歩いた後、天地を指さし「天上天下唯我独尊」と言われました。これは、一人一人が尊い命で聖なる命を生まれてきた。という意味です。
その後29歳で出家し、35歳で悟りを開き真理に目覚めることになり後に「仏陀(ブッダ)」「釈迦牟尼世尊(シャカムニセソン)」「釈尊(シャクソン)」などと呼ばれるようになりました。その後、お釈迦様は沙羅双樹の下で80歳で入滅したと伝えられています。
仏教の教えの中には如来の他、菩薩や天、明王といった様々な仏さまが登場してきます。
「仏さまのプロフ」ではそれらの代表的な仏さまを取り上げご紹介していきたいと思います。
阿弥陀如来
無限の寿命を持つことから無量寿如来
ともいいます。無限の智慧と命を持って人々を救い続けるとされており西方極楽浄土
の教主です。
阿弥陀三尊として聖観音と勢至菩薩と並ぶ姿が多いです。さらに、二十五菩薩を従え雲に乗って往生者を迎えにやって来るといわれております。
主なご利益は極楽往生・現世安穏で亥年・戌年生まれの守り本尊です。
悟りを開いたもの。仏法や宇宙の真理そのもので仏の最高位。。。
その意味は、
「真理を悟った者」で仏教の開祖であるお釈迦様のみを指しました。そのお釈迦様が入滅された後、お釈迦様の説法を聞いた人々が集まって教えをまとめたのが諸々の経典ということになります。これらの経典の中から様々な如来が登場してきます。ここではこれらの中から代表的な如来のプロフィールとそのプロフィールなどをシリーズでご紹介していきましょう。
第一回の今回は釈迦如来です。
釈迦如来
釈迦如来は文字通り仏教の開祖にあたります。古代インドの小国の釈迦族の王子で妻や子供もいた実在の人物で釈迦如来とは彼が阿耨多羅三藐三菩提(最上の悟り)を得た姿を表しています。
お釈迦様は生まれてすぐ7歩歩いた後、天地を指さし「天上天下唯我独尊」と言われました。これは、一人一人が尊い命で聖なる命を生まれてきた。という意味です。
その後29歳で出家し、35歳で悟りを開き真理に目覚めることになり後に「仏陀(ブッダ)」「釈迦牟尼世尊(シャカムニセソン)」「釈尊(シャクソン)」などと呼ばれるようになりました。その後、お釈迦様は沙羅双樹の下で80歳で入滅したと伝えられています。
仏教の教えの中には如来の他、菩薩や天、明王といった様々な仏さまが登場してきます。
「仏さまのプロフ」ではそれらの代表的な仏さまを取り上げご紹介していきたいと思います。
阿弥陀如来
無限の寿命を持つことから無量寿如来
ともいいます。無限の智慧と命を持って人々を救い続けるとされており西方極楽浄土
の教主です。
阿弥陀三尊として聖観音と勢至菩薩と並ぶ姿が多いです。さらに、二十五菩薩を従え雲に乗って往生者を迎えにやって来るといわれております。
主なご利益は極楽往生・現世安穏で亥年・戌年生まれの守り本尊です。
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2019年12月01日
菩薩になるということ
「菩薩になる」とは?
俗に法華経を信じてたくさんの人にお釈迦様の教えを広めること。他人の苦しみを自分の苦しみとして受け止め、世の中の役に立ちたいと願いそれを実行することです。
その菩薩になるための修行では心がけるべき六つの修行があります。これを「六波羅蜜」といいます。
1.布施
世のため人のために力を尽くすことで布施には三つの種類があり、すなわち金銭や品物を他人に施す「財施」、他人の悩みや苦しみを無くし安心を与える「無畏施」、仏様の教えを他人に伝える「法施」があります。
2.持戒
仏の戒めを守り正しい生活をして自分を向上させていくことですが、だからといって自分自身を束縛するものではありません。欲望という苦しみに囚われず日々の暮らしを豊かなものにするという意味があります
3.忍辱
どんな苦しみにも耐え忍びおごり高ぶらない穏やかな心をもつこと。人から悪口を言われたり誹謗中傷されるたびにいちいち腹をたてず怒りをこらえる菩薩になるための修行
4.精進
「精」とは混じりっけがなく純粋な・・・という意味ですです。自分の目指すべき場所と向き合い目標に向かってひたむきに進むこと自体もまた菩薩になるための修行なのです。
5.禅定
禅定(ぜんじょう)は迷いのない落ちついた心で精神集中をする修行です。静かな心、不動の心を常に禅の心を持つこと、どんなときも落ちついて動揺しない定の心を常に持ち続ける修行のこと
6.智慧
普段私たちが使用している「知恵」は損得の区別を表しているのに対し経典に記されている「智慧」は善悪の区別を表しています。悪を知り愚かなことはせず正しく生きることも菩薩になるための修行なのです。
ただ、自分だけが菩薩になって救われるのではなく他人の幸せのために修行する「慈悲喜捨の行」
も必要です。この世に生きている全てのものを思いやる「慈悲」の心と他人の幸福を自分自身も喜び
人を差別する心を捨てる
修行をいいます。
俗に法華経を信じてたくさんの人にお釈迦様の教えを広めること。他人の苦しみを自分の苦しみとして受け止め、世の中の役に立ちたいと願いそれを実行することです。
その菩薩になるための修行では心がけるべき六つの修行があります。これを「六波羅蜜」といいます。
1.布施
世のため人のために力を尽くすことで布施には三つの種類があり、すなわち金銭や品物を他人に施す「財施」、他人の悩みや苦しみを無くし安心を与える「無畏施」、仏様の教えを他人に伝える「法施」があります。
2.持戒
仏の戒めを守り正しい生活をして自分を向上させていくことですが、だからといって自分自身を束縛するものではありません。欲望という苦しみに囚われず日々の暮らしを豊かなものにするという意味があります
3.忍辱
どんな苦しみにも耐え忍びおごり高ぶらない穏やかな心をもつこと。人から悪口を言われたり誹謗中傷されるたびにいちいち腹をたてず怒りをこらえる菩薩になるための修行
4.精進
「精」とは混じりっけがなく純粋な・・・という意味ですです。自分の目指すべき場所と向き合い目標に向かってひたむきに進むこと自体もまた菩薩になるための修行なのです。
5.禅定
禅定(ぜんじょう)は迷いのない落ちついた心で精神集中をする修行です。静かな心、不動の心を常に禅の心を持つこと、どんなときも落ちついて動揺しない定の心を常に持ち続ける修行のこと
6.智慧
普段私たちが使用している「知恵」は損得の区別を表しているのに対し経典に記されている「智慧」は善悪の区別を表しています。悪を知り愚かなことはせず正しく生きることも菩薩になるための修行なのです。
ただ、自分だけが菩薩になって救われるのではなく他人の幸せのために修行する「慈悲喜捨の行」
も必要です。この世に生きている全てのものを思いやる「慈悲」の心と他人の幸福を自分自身も喜び
人を差別する心を捨てる
修行をいいます。
2019年11月19日
合掌・礼拝するということ
「常不軽菩薩品第二十」より
常不軽菩薩は、どんな地位や身分の人にでも全てに仏がいると述べていますが、そのことを信じない者がその菩薩に悪口を言い、棒で殴打したり石を投げつけたりしてきました。ですが、それらに決して腹を立てることなく「あなた自身も必ず仏になれる」と合掌・礼拝し続けました。
このように全ての人に敬いの気持ちを表し続けたことが悩み苦しむ人々を利他の心で救う人という意味でありそれ以来「常不軽菩薩」と呼ばれるようになりました。
人だけでなく動物や草木、大地にも命があり
その「命」を大昔から脈々と「全ての命をつないできたもの」と受け止め、そのことに「ありがたい」と敬い感謝の思いを込めて手を合わせることが真の「合掌する」ということです。
食事のときの「いただきます」は命に感謝し敬う心を表した合掌の姿です。お寺だけでなく家庭や様々な場面で合掌し礼拝するということは、それら全てに感謝するという意味が込められています。
この世の全ての命を尊いと受け止め、感謝の気持ちを込めて合掌する。その心が仏に成る。仏と向き合うということなのです。
常不軽菩薩は、どんな地位や身分の人にでも全てに仏がいると述べていますが、そのことを信じない者がその菩薩に悪口を言い、棒で殴打したり石を投げつけたりしてきました。ですが、それらに決して腹を立てることなく「あなた自身も必ず仏になれる」と合掌・礼拝し続けました。
このように全ての人に敬いの気持ちを表し続けたことが悩み苦しむ人々を利他の心で救う人という意味でありそれ以来「常不軽菩薩」と呼ばれるようになりました。
人だけでなく動物や草木、大地にも命があり
その「命」を大昔から脈々と「全ての命をつないできたもの」と受け止め、そのことに「ありがたい」と敬い感謝の思いを込めて手を合わせることが真の「合掌する」ということです。
食事のときの「いただきます」は命に感謝し敬う心を表した合掌の姿です。お寺だけでなく家庭や様々な場面で合掌し礼拝するということは、それら全てに感謝するという意味が込められています。
この世の全ての命を尊いと受け止め、感謝の気持ちを込めて合掌する。その心が仏に成る。仏と向き合うということなのです。
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2019年11月01日
法華経の基本
全ての人・動物・植物・大地に「仏の心」が存在する。(方便品第二より)
そして全ての人の心の中には必ず10の世界が存在している。
つまり、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏である。
これらが全て関わり合って自己の思いが成り立っている
日蓮上人が説かれたお題目「南無妙法蓮華経」とは?
「南無」とは、一心に仏を信じるということ
「妙法蓮華経」とは、お釈迦様が人々に教えを広め導いた智慧と慈悲の功徳が全て備わっているということ
全てに備わる「仏の心」を信じ「南無妙法蓮華経」を唱えるということは、己の中にある「仏の心」も信じるということでもある。
「お釈迦様は過去・現在・未来を超えて仏を信じる者をいつも見守り、助けてくださる」と法華経の中で最も大切なところとされている如来寿量品第十六に記されている。
法華経でいう「命」とは単に肉体的な生命としての意味ではなく慈悲の心で安穏な世の中を願う想いであり全ての生きとし生ける者の命とお釈迦様の思いは繋がっている。苦しみと迷いに満ちた世の中にあっても一心に仏を信じれば必ず救われる。
ただ。。。法華経の信仰は頭で理解するのではなく、心で信じることが大事とされている。その努力が法華経を生きるということなのである。
そして全ての人の心の中には必ず10の世界が存在している。
つまり、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏である。
これらが全て関わり合って自己の思いが成り立っている
日蓮上人が説かれたお題目「南無妙法蓮華経」とは?
「南無」とは、一心に仏を信じるということ
「妙法蓮華経」とは、お釈迦様が人々に教えを広め導いた智慧と慈悲の功徳が全て備わっているということ
全てに備わる「仏の心」を信じ「南無妙法蓮華経」を唱えるということは、己の中にある「仏の心」も信じるということでもある。
「お釈迦様は過去・現在・未来を超えて仏を信じる者をいつも見守り、助けてくださる」と法華経の中で最も大切なところとされている如来寿量品第十六に記されている。
法華経でいう「命」とは単に肉体的な生命としての意味ではなく慈悲の心で安穏な世の中を願う想いであり全ての生きとし生ける者の命とお釈迦様の思いは繋がっている。苦しみと迷いに満ちた世の中にあっても一心に仏を信じれば必ず救われる。
ただ。。。法華経の信仰は頭で理解するのではなく、心で信じることが大事とされている。その努力が法華経を生きるということなのである。
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2019年10月27日
お釈迦様の歩まれた道
紀元前5〜6世紀、インドの北部(現在のネパール)の釈迦族の王子として生まれる
「この世に生まれてきた者は誰もが年老いて病になりいつか必ずしんでしまう」という逃れることができない現実に悩むようになる
29歳の時、これら苦しみの解決方法を求め修行する決意をする。王子という地位と家族との幸せを捨て出家の旅に出る
その旅先で答えを見つけるため心の乱れや迷いを抑える修行、断食の修行、呼吸を止める修行を続けるも苦しみを解決する答えは見出せなかった
35歳の時、修行の旅をやめ菩提樹の下でそれまでの自身の歩みを振り返る。王宮での暮らしと出家後の苦しい修行で「極端な生活は極端な考え、価値観を生み出してしまう」と答えを見出す。これがいわゆるあの「阿耨多羅三藐三菩提(無上の悟り)」である
その後、それらの修行を経験して得た「悟り」を5人の僧に伝え、80歳の生涯を終えられるまで各地方へその真理と教えを説く行脚を続けていくことになる
「この世に生まれてきた者は誰もが年老いて病になりいつか必ずしんでしまう」という逃れることができない現実に悩むようになる
29歳の時、これら苦しみの解決方法を求め修行する決意をする。王子という地位と家族との幸せを捨て出家の旅に出る
その旅先で答えを見つけるため心の乱れや迷いを抑える修行、断食の修行、呼吸を止める修行を続けるも苦しみを解決する答えは見出せなかった
35歳の時、修行の旅をやめ菩提樹の下でそれまでの自身の歩みを振り返る。王宮での暮らしと出家後の苦しい修行で「極端な生活は極端な考え、価値観を生み出してしまう」と答えを見出す。これがいわゆるあの「阿耨多羅三藐三菩提(無上の悟り)」である
その後、それらの修行を経験して得た「悟り」を5人の僧に伝え、80歳の生涯を終えられるまで各地方へその真理と教えを説く行脚を続けていくことになる
2019年10月18日
お釈迦様の教えとは?C
世の中のあらゆる出来事や物事は常に変化し全てが影響を与え合う関係にある。そこには必ず存在するものがあります。いわゆる原因です。その原因に関係するものが全て縁となって加わり結果が生まれるのです。物事の全ての根本にはあらゆるものが関わって存在している。いわゆる「縁起」という教えです。
自分の思い通りにならない出来事ばかりなのに人間は手に入らないはずのものを欲し、そこに執着してしまいます。このジレンマが膨らむことで、そこに因と縁から煩悩が生まれるのです。
私たちが向き合うべきは「人生は思い通りにならないことが当たり前なのだ」という現実なのです。このことを基本に自己や世の中を見つめて苦しみや悩みから解放される方法を見い出しましょう。
世の中の無常を素直に受け入れ一期一会の出会い、仕事、人間関係を大切にし全てが縁起によって繋がっていることを理解しましょう。そこからあらゆるものへの慈愛の心が生まれ一度しかない尊い人生に感謝の心を持つことができるのです。今あるあなたの命は全てのものに生かされているのです。
これが今を充実させて生きることができるお釈迦様の教えなのです。お釈迦様は全ての人々を慈しみ苦しみから解き放たれて幸せになれるようにと仏教をこの世に残されたのです。
自分の思い通りにならない出来事ばかりなのに人間は手に入らないはずのものを欲し、そこに執着してしまいます。このジレンマが膨らむことで、そこに因と縁から煩悩が生まれるのです。
私たちが向き合うべきは「人生は思い通りにならないことが当たり前なのだ」という現実なのです。このことを基本に自己や世の中を見つめて苦しみや悩みから解放される方法を見い出しましょう。
世の中の無常を素直に受け入れ一期一会の出会い、仕事、人間関係を大切にし全てが縁起によって繋がっていることを理解しましょう。そこからあらゆるものへの慈愛の心が生まれ一度しかない尊い人生に感謝の心を持つことができるのです。今あるあなたの命は全てのものに生かされているのです。
これが今を充実させて生きることができるお釈迦様の教えなのです。お釈迦様は全ての人々を慈しみ苦しみから解き放たれて幸せになれるようにと仏教をこの世に残されたのです。
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2019年10月17日
お釈迦様の教えとは?B
仏教でいう「苦しみ」とは
四聖諦(ししょうたい)とは苦しみが生まれる原因を突き止め、その苦しみから救われる手立てを求めるという教え
八正道の修行とは
- 死:死んでいく苦しみ・恐怖
- 病:病への苦しみ・不安
- 老:老いへの逃れられない苦しみ
- 心と身体を思うようにコントロールできない苦しみ
- 家族・恩師・友人などどんな人とでも必ず別れなければならない苦しみ
- 恨み・憎しみの対象となる人と出会う苦しみ
- 貧困、地位や名誉に恵まれない苦しみ
- 生きていることへの苦しみ
四聖諦(ししょうたい)とは苦しみが生まれる原因を突き止め、その苦しみから救われる手立てを求めるという教え
- 生きることは思い通りにならない。苦しみの連続なのだと素直に受け入れること
- 苦しみの原因は自身の中の煩悩にある・・・と自覚すること
- その煩悩を断ち切り涅槃に住することに前向きになること
- 「八正道」と呼ばれる修行で涅槃を目指すこと
八正道の修行とは
- 正しい考え方・物事の見方をする
- 憎しみ・恨みを鎮め穏やかな心を常に保つこと
- 悪口雑言を控えトラブルの原因を作らない
- 殺生・盗みなど人倫の道に外れたことをしない
- 礼節、行儀の良さを重んじることで心身のバランスを保つ
- 善行を常に積み重ねていくこと
- 正しい意識をいつまでも持ち続けること
- 物事に動じず常に安定した心を持つこと
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2019年10月13日
お釈迦様の教えとは?A
仏教の基本
@一切皆苦
私たちの世界は自分たちの思い通りにならないことばかりである。。。お釈迦様はこのように真理を説かれています。仏教での「苦しみ」とは単に苦しいということではなく「思い通りにならない」という意味である。どんな人間もその現実から逃れることができない。そのことを素直に受け入れることから仏の道は始まるのです。
A諸行無常
世の中の全ての物事は変化の連続でできています。天候などの自然現象をはじめ世の中の物事は常に私たちの意思とは関係なく日夜変化を繰り返しています。自分の健康状態、資産の状況・・・などそれらの安寧をいくら願っても思い通りにならず自然災害にあったり、病気や失業、貧困や無益な争いに苦しむ出来事と直面してしまう。つまり、良いことも悪いことも長くは続かない。この繰り返しをいかに素直に受け入れられるか?これが問題解決のための一つのきっかけになってくるのです。
B諸法無我
世の中のあらゆる事象には必ず何らかの原因がある。自分の命、財産、日常生活は世界中の全てと繋がりがあるという真理。自分という存在が主体的な自己として存在するのではなく全ての繋がり、関係の中で生かされている存在なのです。
C涅槃寂静
宗教の目的は「どうしたらみんなが幸せになれるか?」を追求すること。それでも世界には不幸な出来事が溢れ不平不満が飛び交い争いごとも生じる。
仏教ではこれらの要因は全て自分自身の心が生み出していると考えます。その要因とは何か?を常に問いその現実と素直に向き合い受け入れる。煩悩を消し去るとはこういうことなのです。いわゆる「無上の悟り」です。
@一切皆苦
私たちの世界は自分たちの思い通りにならないことばかりである。。。お釈迦様はこのように真理を説かれています。仏教での「苦しみ」とは単に苦しいということではなく「思い通りにならない」という意味である。どんな人間もその現実から逃れることができない。そのことを素直に受け入れることから仏の道は始まるのです。
A諸行無常
世の中の全ての物事は変化の連続でできています。天候などの自然現象をはじめ世の中の物事は常に私たちの意思とは関係なく日夜変化を繰り返しています。自分の健康状態、資産の状況・・・などそれらの安寧をいくら願っても思い通りにならず自然災害にあったり、病気や失業、貧困や無益な争いに苦しむ出来事と直面してしまう。つまり、良いことも悪いことも長くは続かない。この繰り返しをいかに素直に受け入れられるか?これが問題解決のための一つのきっかけになってくるのです。
B諸法無我
世の中のあらゆる事象には必ず何らかの原因がある。自分の命、財産、日常生活は世界中の全てと繋がりがあるという真理。自分という存在が主体的な自己として存在するのではなく全ての繋がり、関係の中で生かされている存在なのです。
C涅槃寂静
宗教の目的は「どうしたらみんなが幸せになれるか?」を追求すること。それでも世界には不幸な出来事が溢れ不平不満が飛び交い争いごとも生じる。
仏教ではこれらの要因は全て自分自身の心が生み出していると考えます。その要因とは何か?を常に問いその現実と素直に向き合い受け入れる。煩悩を消し去るとはこういうことなのです。いわゆる「無上の悟り」です。
2019年10月11日
お釈迦様の教えとは?@
お釈迦様は紀元前5〜6世紀頃、インド北部で釈迦族の王子として生まれました。
お釈迦様は、「なぜ人々に様々な苦しみがつきまとうのか?」
その仕組みを解き明かすために長い修行に入り、全ての人が幸せに生きていくための智恵、苦しみから救うための手立てを人々に広めました。
私たちの一生には生きていくうえで逃れることができない数々の苦しみ・悩みと直面します。
つまり@生老病死(生きている間は老い・病・死の苦があるという意味)、A人間関係から生じる悩み・憎しみ・争い、B貧困や不慮による自然災害などがあげられます
これら人々の様々な悩み・苦しみには必ず何らかの原因があり、それらから救われるためにはどうするべきか?これを常に問い答えを求めることが仏の道とお釈迦様は伝えているのです。これこそが仏の教え・・・つまり仏教なのです。
仏教が目指す境地は「成仏」、つまり仏に成ることです。この成仏というのは死後の世界を表しているわけではありません。今を生きるこの世界でこそ私たちが自ら仏に成ることを目指すべきだと、お釈迦様は説かれているのです。
仏とは世の真理に気づき心を乱さずその修行で得た智恵を駆使して苦しみや悩みから解放されようとする者のことです。仏教でよく使われる「智恵」という言葉は私たちが普段の生活で使っている「知恵」と大きな違いがあります。
つまり後者の「知恵」は損得を知る力であることに対し前者の「智恵」は善悪を知る力を言います。
現代社会で生きる私たちは普段から目先の損得ばかりにとらわれずそれらの中から常に善悪を見出して行く作業・・・それが日常生活での私たちにできる仏に成るための修行の一歩になるのではないでしょうか?
お釈迦様は、「なぜ人々に様々な苦しみがつきまとうのか?」
その仕組みを解き明かすために長い修行に入り、全ての人が幸せに生きていくための智恵、苦しみから救うための手立てを人々に広めました。
私たちの一生には生きていくうえで逃れることができない数々の苦しみ・悩みと直面します。
つまり@生老病死(生きている間は老い・病・死の苦があるという意味)、A人間関係から生じる悩み・憎しみ・争い、B貧困や不慮による自然災害などがあげられます
これら人々の様々な悩み・苦しみには必ず何らかの原因があり、それらから救われるためにはどうするべきか?これを常に問い答えを求めることが仏の道とお釈迦様は伝えているのです。これこそが仏の教え・・・つまり仏教なのです。
仏教が目指す境地は「成仏」、つまり仏に成ることです。この成仏というのは死後の世界を表しているわけではありません。今を生きるこの世界でこそ私たちが自ら仏に成ることを目指すべきだと、お釈迦様は説かれているのです。
仏とは世の真理に気づき心を乱さずその修行で得た智恵を駆使して苦しみや悩みから解放されようとする者のことです。仏教でよく使われる「智恵」という言葉は私たちが普段の生活で使っている「知恵」と大きな違いがあります。
つまり後者の「知恵」は損得を知る力であることに対し前者の「智恵」は善悪を知る力を言います。
現代社会で生きる私たちは普段から目先の損得ばかりにとらわれずそれらの中から常に善悪を見出して行く作業・・・それが日常生活での私たちにできる仏に成るための修行の一歩になるのではないでしょうか?
2019年10月01日
妙法蓮華経〜エピローグ
仏説観普賢菩薩行法経
このように私は聞いております。その時、お釈迦様はヴァイシャーリーの精舎の思閣講堂におられ阿難尊者らの比丘たちに「これより3か月後に私は入滅するであろう」と告げました。
そして、如来滅後の心得を示されたのでございます。
未来の世において人々が大乗経典を修し普賢菩薩を見たいと願うならば、このように観をなしなさい。
普賢菩薩は東方の浄妙国から白い象に乗って現れます。この白い象には6本の牙があります。この白い象の背中に金の鞍があり、四方に金・銀・メノウなど七宝の柱が大きな摩尼(宝珠)の蓮華の台を飾っています。その蓮華台に普賢菩薩が鎮座しているのです。
この普賢菩薩の姿を見た人はそのことによって十方無量の諸仏を礼拝することになります。
そして人は普賢の力によって正しく思念し、やがて心眼をもって東方の仏の黄金の姿を見、さらにあまねく十方の一切の諸仏を見るのでございます。ただ、人々は罪多く思念は不確かでありますゆえ・・・目を閉じれば諸仏が見えても目を開けばたちまち消えてしまいます。
人の眼は濁り、耳は悪声を聞いて煩悩を起こし、鼻は臭いによって欲望を起こし、舌は悪苦・妄語をなし、身は殺・盗・淫にかまけ心は不善の思いにまかせます。しかし、よく懴悔するならば普賢菩薩が目の前に現れ、夢の中でもその人から離れることはありません。普賢菩薩は、その人のために六根清浄の懴悔の法を説きます。そして清浄の目で見れば地の平らなことは手の平のようであり、瑠璃と黄金に輝いています。さらに、霊鷲山で法華経が説かれる声も聞こえますし多宝如来が現れるのも見えるのです。
諸仏如来は世の慈父であり人々の罪を除きます。釈迦如来は毘盧遮那(びるしゃな・光明の仏)であり、その国は常寂光(じょうじゃっこう・平安な光の国)です。この大乗経典は諸仏の宝の詰まった蔵です。持経者はすなわち仏身を持し仏の衣を着て仏の御業をなします。その人は諸仏の使いであり真実の法の子です。霊鷲山に向かって礼拝して懴悔し、このように懴悔しこのように唱えなさい。
「南無釈迦牟尼仏、南無多宝仏塔、南無十方釈迦牟尼仏分身諸仏。我、今大乗経典甚深の妙義に依って仏に帰依し僧に帰依す」と
そうすれば、どんな罪でも霜が陽に当たって溶けるように智恵の光に照らされれば消えてしまいます。それゆえ六根の懴悔をなすべきなのでございます。
大乗経の第一義甚深の法(法華一乗)を念じれば、指をはじくほど短い間に百万阿僧祇劫の無限の過去から積み重ねた生死の罪を除きます。この懴悔の法をなす人は仏子であり、菩薩の戒めを持す者でございます。諸仏も皆そうして仏になられたのですから。
そしてお釈迦様はとりわけ良家にあって世間の導きとなる居士(在家者)のために五つの懴悔を説かれたのでございます。
仏・法・僧の三宝を敬い念仏(諸仏を思い慕い)、念法(法を思い)、念僧(僧を敬い)、念戒(戒めを守り)、念施(施しに務め)、念天(神々を尊ぶ)。これら六念の法を修行しなさい。
そして大乗の持経者を供養し礼拝して甚深の第一義空(万物の根源は空であること)に思念を向けなさい。
これが第一の懴悔です。第二の懴悔は父母に孝養し師長を恭敬することです。第三の懴悔は正法をもって国を治め人々を惑わさないことです。第四の懴悔は六斎日(月に六日の清めの日)には力の及ぶところ不殺生を行じさせこの法を修行することです。第五の懴悔は深く因果を信じ一乗真実の道を信じて仏は滅したまわずと知ることです。
そしてお釈迦様は阿難尊者に「未来世においてこの懴悔の法を修行すればその人は諸仏に護られて阿耨多羅三藐三菩提(無上の悟り)に至る」と宣べたのでした。
このように私は聞いております。その時、お釈迦様はヴァイシャーリーの精舎の思閣講堂におられ阿難尊者らの比丘たちに「これより3か月後に私は入滅するであろう」と告げました。
そして、如来滅後の心得を示されたのでございます。
未来の世において人々が大乗経典を修し普賢菩薩を見たいと願うならば、このように観をなしなさい。
普賢菩薩は東方の浄妙国から白い象に乗って現れます。この白い象には6本の牙があります。この白い象の背中に金の鞍があり、四方に金・銀・メノウなど七宝の柱が大きな摩尼(宝珠)の蓮華の台を飾っています。その蓮華台に普賢菩薩が鎮座しているのです。
この普賢菩薩の姿を見た人はそのことによって十方無量の諸仏を礼拝することになります。
そして人は普賢の力によって正しく思念し、やがて心眼をもって東方の仏の黄金の姿を見、さらにあまねく十方の一切の諸仏を見るのでございます。ただ、人々は罪多く思念は不確かでありますゆえ・・・目を閉じれば諸仏が見えても目を開けばたちまち消えてしまいます。
人の眼は濁り、耳は悪声を聞いて煩悩を起こし、鼻は臭いによって欲望を起こし、舌は悪苦・妄語をなし、身は殺・盗・淫にかまけ心は不善の思いにまかせます。しかし、よく懴悔するならば普賢菩薩が目の前に現れ、夢の中でもその人から離れることはありません。普賢菩薩は、その人のために六根清浄の懴悔の法を説きます。そして清浄の目で見れば地の平らなことは手の平のようであり、瑠璃と黄金に輝いています。さらに、霊鷲山で法華経が説かれる声も聞こえますし多宝如来が現れるのも見えるのです。
諸仏如来は世の慈父であり人々の罪を除きます。釈迦如来は毘盧遮那(びるしゃな・光明の仏)であり、その国は常寂光(じょうじゃっこう・平安な光の国)です。この大乗経典は諸仏の宝の詰まった蔵です。持経者はすなわち仏身を持し仏の衣を着て仏の御業をなします。その人は諸仏の使いであり真実の法の子です。霊鷲山に向かって礼拝して懴悔し、このように懴悔しこのように唱えなさい。
「南無釈迦牟尼仏、南無多宝仏塔、南無十方釈迦牟尼仏分身諸仏。我、今大乗経典甚深の妙義に依って仏に帰依し僧に帰依す」と
そうすれば、どんな罪でも霜が陽に当たって溶けるように智恵の光に照らされれば消えてしまいます。それゆえ六根の懴悔をなすべきなのでございます。
大乗経の第一義甚深の法(法華一乗)を念じれば、指をはじくほど短い間に百万阿僧祇劫の無限の過去から積み重ねた生死の罪を除きます。この懴悔の法をなす人は仏子であり、菩薩の戒めを持す者でございます。諸仏も皆そうして仏になられたのですから。
そしてお釈迦様はとりわけ良家にあって世間の導きとなる居士(在家者)のために五つの懴悔を説かれたのでございます。
仏・法・僧の三宝を敬い念仏(諸仏を思い慕い)、念法(法を思い)、念僧(僧を敬い)、念戒(戒めを守り)、念施(施しに務め)、念天(神々を尊ぶ)。これら六念の法を修行しなさい。
そして大乗の持経者を供養し礼拝して甚深の第一義空(万物の根源は空であること)に思念を向けなさい。
これが第一の懴悔です。第二の懴悔は父母に孝養し師長を恭敬することです。第三の懴悔は正法をもって国を治め人々を惑わさないことです。第四の懴悔は六斎日(月に六日の清めの日)には力の及ぶところ不殺生を行じさせこの法を修行することです。第五の懴悔は深く因果を信じ一乗真実の道を信じて仏は滅したまわずと知ることです。
そしてお釈迦様は阿難尊者に「未来世においてこの懴悔の法を修行すればその人は諸仏に護られて阿耨多羅三藐三菩提(無上の悟り)に至る」と宣べたのでした。
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