古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

古事記の置目説話について

2020年07月07日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 古事記では、真福寺本を底本として校勘した原文には次のようにある。

此天皇求其父王市𨕙王之御骨時在淡海國賤老媼參出白王子御骨所埋者専吾能知亦以亭御齒可知御齒者如三枝押齒㘴也尒起民掘圡求其御骨即獲其御骨而於其蚊屋野之東山作御陵葬以韓帒之子䓁令守其陵然後持上其御骨也故還上㘴而召其老媼譽其不失見貞知其地以賜名号置目老媼仍召入宮内敦廣慈賜故其老媼所住屋者近作宮𨕙毎日必召故鐸懸大殿戸欲召其老媼之時必到鳴其鐸尒作御歌其歌曰阿佐遅波良袁陁尒袁湏疑弖毛々豆多布奴弖由良久母淤岐米久良斯母於是置目老媼白僕甚耆老欲退夲國故随白退時天皇見送歌曰意岐米母夜阿布𫟈能淤岐米阿湏用理波𫟈夜麻賀久理弖𫟈延受加母阿良牟

 これを次のように訓んでいる。

 此の天皇、其の父王(ちちみこ)市辺王(いちのへのみこ)の御骨(みかばね)を求(ま)ぎたまひし時、淡海国(あふみのくに)に在る賤しき老媼(おみな)参ゐ出でて、白(まを)ししく、「王子(みこ)の御骨の埋(うづ)みし所は専(もは)ら吾(われ)能く知れり。亦以亭御歯可知」とまをしき御歯は三枝(さきくさ)の如く押歯(おしは)に坐(いま)しき。 爾(ここ)に民(おほみたから)を起(おこ)して土を掘り、其の御骨を求(ま)ぐ。即ち、其の御骨を獲て、其の蚊屋野の東の山に御陵(みさざき)を作りて葬(はぶ)りて、韓帒(からぶくろ)が子等(ら)を以て其の御陵を守らしめき。然くして後に、其の御骨を持ち上りき。
 故、還り上り坐(ま)して、其の老媼(おみな)を召して、其の見失はず貞(さだ)かに其の地(ところ)を知れるを誉めて、名を賜ひて置目老媼(おきめのおみな)と号(なづ)けき。仍ち、宮の内に召し入れて、敦(あつ)く広く慈(うつく)しび賜ひき。故、其の老媼の住める屋は宮の辺に近く作りて、日毎に必ず召しき。故、鐸(ぬりて)を大殿(おほとの)の戸に懸けて、其の老媼を召さむと欲(おも)ひし時は、必ず其の鐸を引き鳴らしき。爾に御歌を作りたまひき。其の歌に曰はく、
  浅茅原(あさぢはら) 小谷(をだに)を過ぎて 百伝(ももづた)ふ 鐸(ぬて)響(ゆら)くも 置目来(く)らしも(記111)
 是に置目老媼、白さく、「僕(やつかれ)甚だ耆老(お)いたり。本国(もとつくに)に退(まか)らむと欲ふ」とまをす。故、白す随(まにま)に退る時に、天皇見送りて歌ひて曰はく、
  置目もや 淡海の置目 明日よりは み山隠(がく)りて 見えずかもあらむ(記112)(顕宗記)

 置目という老女が、よく市辺王の遺骸を埋めたところを覚えていたので、でかしたということから厚遇したと言っている。この話の後に、大長谷王から逃れる際に御粮を奪った猪甘の老人を探し出し、責める記述が載っている。そのため、それら「二つの話の対比に注目したい。」(注1)とする解釈が行なわれている。しかし、話(咄・噺・譚)として考えたとき、どうなのであろうか。
 話は言葉が空中を飛んでいる。顕宗記に載る置目老媼と猪甘の老人は、遡ること清寧記、雄略記の前の安康記にある。リメンバー安康記、ないし、リメンバー雄略即位前紀として、2つの話を対比するものであると考えるのは、鮮明に記憶に残ったであろう親を殺された億計・弘計ならともかく、それ以外の人にとってなかなか難しいものがある。特に対比することなく、そういえばそういう悲惨な状況だったなあと思い出すだけのこととして設定されているのではなかろうか。
 記の原文中、難訓箇所がある。第一に、「亦以亭御歯可知」とある部分、「亭」は兼永本によって「其」と改められていることが多い。「亦、其の御歯を以て知る可し」と訓んでわかりやすいと思われるからである。話の主題は、顕宗天皇が、虐殺された父親の市辺王の「御骨」を探すことに始まっている。「御骨」の在り処、「所埋」を知っていると「老媼」が名乗り出ている。そして、その「御歯」で識別すればいいと語っていることになっている。理解しやすい展開であるが、面白味に欠ける。「老媼」の言うように探し掘ってみて、いろいろ出てきた遺骨のうち、「御歯」が「三枝」状のものを忍歯王のそれと断定したということになっている。遺骨収集団のことを語っても仕方があるまい。
 次の「即獲其御骨而、於其蚊屋野之東山、作御陵、葬以韓帒之子等其陵、然後持‐上其御骨也」にどのようにつながっているのかも定かでない。御陵を作って葬ったのに、どうしてその後、「御骨」を「持上」しているのか、今日までの解釈では了解に至っていない。「御骨」と「御歯」との関係性は洗い直す必要がある。
 割注に「御歯者如三枝押歯坐也」とある。「御歯は、三枝の如く押歯なり。」とある。この「三枝」については、ミツマタ、ヤマユリ、チンチョウゲ、フクジュソウなど諸説あるものの、ミツマタが有力視されてきた。忍歯王のオシハという名は、オソハ(齵)に由来するというのである。和名抄に、「齵歯 蒼頡篇に云はく、齵〈五溝反、又、音は隅、齵歯は於曽波(をそは)〉は歯の重ねて生ずる也といふ。」とある。名前の由来はそのとおりであろう(注2)が、考え方としてあまり面白いものではない。すでに忍歯王という名は誰にしも認められ知られている。「老媼」が名乗り出なくても、天皇の勢力を使って蚊帳野を隈なく掘り返していけばいずれ発見できる。数ある遺骨の中から乱杭歯を選択すれば、それが忍歯王のそれであると断定できる。そんな人海作戦をせずに見つける方法を尋ねたとき、老媼がここです、と言っている。それが話の肝であろう。すなわち、遺骨の在り処が一目でわかるものがあり、ここ、この下です、と言っているのである。その目印が、「三枝」であると言っている。
 そう考えると、地上に「三枝」状のものがあったということになる。植物は、それが巨樹名木のようなもの以外見分けがつかない。野のどこかに限られることなく生えている。真福寺本に従うなら、「老媼」が奏上しているのは、「王子御骨所埋者、専吾能知。亦以亭御歯可知」である。これですべてが通じている。割注の「御歯者如三枝押歯坐也」は、言っている「御歯」にのみかかる説明である。つまり、「亭」があるところ、それが「王子御骨所埋」であると言っている。「亭」とはアヅマヤである。
攬翠亭(瀋秀園、株式会社石勝エクステリア「大師公園」HP、http://www.iei-kouen.jp/daishikouen/item_list2.html)
 アヅマヤ(亭、東屋、四阿)は庭園などに配される屋根のついた休憩所である。日差しやにわか雨をしのぎ、腰かけられるようになっている。その造りは、隅に柱を建て、屋根はそこから弦をなして中央の真束に互いにもたれかかるようになっていて、真束は互いの力で宙ぶらりんの状態のまま浮いている。四角い造りをしていたらその四角形の屋根には隅木が基本的には四本ある。「四枝」であるから「三枝」に近い形状をしていると言える。八重歯の部分の三本が残り、周囲の歯が虫歯などで欠落していたら、なにゆえそれらばかりが宙に浮くように残っているのか不思議な思いを致したであろう。アヅマヤの屋根の不思議さに通じている(注3)
 そして、我々は「二枝」のものをよく知っている。蚊屋野へ狩りに行った時の獲物から作ることができる鹿杖である。置目老媼が話に絡んでいるのは、姿が枝分かれを暗示しているからである。すなわち、「四枝」と「二枝」の間に、「三枝」なる忍歯王の御骨は埋められているらしいとわかる。
四阿(東屋)の天井
鹿杖(左:板橋貫雄模、春日権現験記絵・第9軸、明治3年(1870年)、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287494/5)をトリミング、中:一遍聖絵模本・巻十一、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591583/32)をトリミング、右:志貴山縁起写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574278/12をトリミング)

 淡海国に在る賤しき老媼参ゐ出でて、白ししく、「王子の御骨の埋(う)みし所は、専ら吾能く知れり。亦、亭(あづまや)を以て御歯を知るべし」とまをしき。御歯は三枝(さきくさ)の如く押歯(おしは)に坐しき。

 「亭(あづまや)」付近に忍歯王は埋められている。押歯に因んで「亭」が建てられている、と主張している。まことに頓智がきいていて、至極尤もな言い分である。忍歯王は雄略天皇(大長谷王子)に殺害された。その方法は、「矢を抜き其の忍歯王を射落して、乃ち亦、其の身を切り、馬樎(うまふね)に入れて土と等しく埋(う)めき。」(安康記)と淡々と記されている。「馬樎(うまふね)に入れて土と等しく埋(う)めき。」が、屋根を持った厩ばかりか養蚕小屋を導いていたことがわかる(注4)
 「埋」字について、筆者はウムという動詞にとっている。安康記に、馬樎を地面と同じ高さになるようにパカっと嵌めたと解釈している。通訓のウヅムとする訓は、ここからも誤りであることがわかる。真束に隅木をパカっと嵌める感が求められているからである。パカっという音は、馬の馳せる音でもある。馬を飼うにも蚕を飼うにも、雨ざらしではどうにもならない。その点で、大長谷王子のとった忍歯王の埋葬方法は、死者を冒涜するものとは言い切れず、それなりの配慮が行なわれていたと考えられなければならない。
 結局のところ、そこから改葬して「於其蚊屋野之東山作御陵葬」している。なぜ「東」にしたのか。それは、四阿(東屋)に落ち着いていたものだったからそれにふさわしくアヅマなる方向、「東」に定めている。「御陵」として形にしたいから、「山」を活用している。「以韓帒之子等、令其陵」と相成ったのは、「韓帒」が「幹袋」の謂いで、ミソサザイの巣のことを示していたからである。ヤマトコトバにサザキ(鷦鷯、陵)と一語なるが故、ミソサザイの巣と前方後円墳とは相似的に考えられたということである。
平城宮跡造酒司井戸跡パネル(賃貸のマサキ様「奈良ゴコロ」造酒司井戸跡(平城宮跡)https://www.chinmasa.com/spot/result29201/cate0315/detail3494675/をトリミング)
 そんな「亭」式の屋根を必要とした施設としては、掘り井戸がある。平城宮址の造酒司の井戸には屋根が付いていたと考えられている。仮に蚊屋野に井戸が掘られていたとする。その時、「亭」の真ん中に井戸枠があったとは考えにくい。なぜなら、野だからである。水がかりが悪いところが野である。地下水は地面から深いところにある。汲み上げにくい。技術的に進歩して周りに障害物などないとすれば、撥ね釣瓶式の井戸が設けられていたと考えられる(注5)。支柱には、Y字形の棒が立てられ、その股のところに横竿がまたがるように作りつけられる。四枝の「亭」と二枝の撥ね釣瓶の支柱があり、その間に「三枝」なる特徴の「御歯」をした「御骨」は埋められている。とてもわかりやすい構図である。
撥ね釣瓶(大蔵永常他・農具便利論、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536574/30)
撥ね釣瓶(タクナワン様「テコの原理で水を汲み上げる「跳ねつるべ」の井戸(北海道開拓の村)」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/井戸)
 井戸枠にすっぽりパカっと嵌るように「馬樎」が入れ込まれている。そして、「与土等埋」としていた。井戸の水があるべきところに「馬樎」のプールがあって、残念ながら忍歯王の身が切られて入っていて、土が平らに均されている。もはや水場ではなくなっている。たとえ退かせたとしても、長らく使わずに井戸浚えもせず、「馬樎」の中から血や腐敗した液が落ちていれば、井戸はもはや役に立たない。廃棄されるべきである。
四角い井戸枠(Saigen Jiro様「雷丘東方遺跡出土 井戸枠 明日香村埋蔵文化財展示室展示。」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/雷丘)
馬模型と四角い飼い葉桶(日本民家園旧工藤家住宅内展示物)
 そこで、御陵に「亭」の材木や「馬樎」の材木を埋めて記念塚にした。五行思想で木火土金水のうち木は東に当たる。その点でも、蚊屋野の東に御陵は造られている。そして、「御骨」を「持上」ることになっている。「於其蚊屋野之東山、作御陵葬」したのに、どうして「御骨」を埋葬しなかったのか。なぜここに、「作御陵御骨」と書いていないのか。御陵に遺骨を葬らないはずはないのであるが、何か思惑があって「持上」ることにしている。それまで「持上」げていたものは何か。撥ね釣瓶の桶、古くは大きな甕が利用されていた。それである。「御骨(みかばね)」に当たるミカ(御甕)+バネ(撥ね)を「持上」げていたから、都へ帰るにあたり、井戸は閉じられたが撥ね釣瓶の御甕は持ち帰ってきたということである(注6)。話としてとてもよくできている。
被籠式釣瓶(籠付き土器、高26.0cm、滋賀県守山市下之郷遺跡、弥生時代、1世紀、守山市教育委員会蔵、守山市教育委員会「歴史のまち守山」http://moriyama-bunkazai.org/shimonogo/contents02/)
 第二の難訓箇所として、真福寺本の「必鳴其鐸」は兼永本により「必鳴其鐸」に改められている。この個所については、話の中心部分の訓みにくいところと関連がありそうである。「故還上㘴而召其老媼譽其不失見貞知其地以賜名号置目老媼」を「故、還上坐而、召其老媼、誉其不見、貞知其地以、賜名号置目老媼。」と読む際に、「不失見」を「見失はず」は字順がおかしいとされている(注7)
 「不失見」は、「不見」の形と思われる。見たことを失わなかった、というのである。見たら誰でも覚えているだろうと考えるのは、「置目」という命名譚に矛盾する。すなわち、その老媼は、目が不自由になってしまっていたのである。そのとき、「鹿杖」の存在が際立ってくる。老いて失明していたが、その場所についてははっきりと記憶していた。だから、「貞知其地以、賜名号置目老媼。」なのである。貞(さだ)かに、ないしは、貞(ただ)しく知っていた。失明していなければ今でも何かを見ていて、昔のことは忘れてしまったかもしれないのに、過去の出来事に「目」という機能を「置」いてきたから覚えているということになる。他の「耆宿(ふるきおきな)」たちは、以後もいろいろなことを見てきたから、昔のことはおぼろげになっていて、細かいことは忘れてしまっていた。そういう命名として、「置目老媼」という名はある。なぜ「目」を「置」いてきたのか。忍歯王の殺害を目にしてショックだったからである。紀には、「詔畢、与皇太子億計、泣哭憤惋、不自勝。……臨穴哀号、言深更慟。自古以来、莫如斯酷。」(顕宗紀元年二月~是月)とある。天皇や皇太子と同じ思いをしていたと知れるのである。だから、「貞」で正しく、それを「置」とする兼永本は賢しらごとであるとわかる。
盲目の女性姿(西行物語写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541035/6をトリミング)
 目が不自由なのだから、「召-入宮内、敦広慈賜」した場合、「其老媼所住屋者、近‐作宮辺」にしてあげたくなる。そして、「毎日必召」ことになったら、「鐸懸大殿戸」をしておいて、視覚的な合図ではなく、聴覚的な合図である鈴の音で知らせればいいから、「欲其老媼之時、必到‐鳴其鐸」としたのである。紀には、「伶俜羸弱、不‐便行歩。宜張縄引絚、扶而出入。縄端懸鐸、無謁者。入則鳴之。」とある。紀では必ずしも「老嫗置目」を目が不自由であるとはしていないが、ロープ伝いに参内すれば、鐸が鳴るからそれが正しい道であることはわかることになる。同様の表現であると捉えれば、記の字面は、真福寺本どおりに、「必鳴其鐸」で正しいと再確認される。
 その際、「必」をどのように訓むかが問われる。記の「必」字については、会話文では「必ず……む」、「必ず……じ」と推量の助動詞を読み添えて訓まれるはずであると考えられている(注8)。筆者は、この読み添え式の訓み方は、会話文に限られるものではないと考える。地の文でも、必ずそうなるだろうという推量、必ずそうしようという意志を示していると仮説したい。ここでは、いずれも「故」という原因理由を述べる文に「必」が現れている。だから、必ず……になるようになっているのだよ、と語っており、それは地の文だから客観的な立場からの物言いである。客観的にみて、必ずそうなるようになっていると捉えられている。したがって、連語の形の「むとす」がふさわしい(注9)。日本国語大辞典の「むとす」の項に、「すぐに実現しそうな事態の予想・推量、話し手の決意などを、客観的な立場から表わす。…しようとしている。…しようと思う。んとす。」(⑫1007頁)とある。そして、世の中は、一番偉い人を中心に回っているから、天皇の意向を述べておけばそれが客観的であるということになる。天皇中心の予定調和が地の文の反映なのである。

 仍ち、宮の内に召し入れて、敦く広く慈しび賜ひき。故、其の老媼の住める屋は、近く宮の辺に近く作りて、日毎に必ず召さむとす。故、鐸を大殿の戸に懸けて、其の老媼を召さむと欲ひし時、必ず其の鐸に到り鳴(な)さむとす。

 宮殿近くに居所を作ってあげて、毎日のように呼び寄せることができるようにしておいた、という物言いには、天皇の意志が感じられる。「毎日必召」を「日毎に必ず召す。」と訓む文章があり得ないのは、顕宗天皇は介護事業者ではないからである。毎日のように呼び寄せようとしていたというだけで、実際に毎日呼び寄せるはずはなく、置目老媼としても台風や大雪の日に呼ばれたら、いくら近いとは言ってもたまったものではない。そういう環境を整えておいたということを言っている。そういう間柄とは、阿吽の呼吸で、天皇が呼び寄せたければ召すことになるし、置目老媼のほうも行きたくなったら参内してかまわないという仲のことである。「鐸懸大殿戸」となっていれば、天皇が呼びたければロープを揺すって鳴らせばいいし、置目老媼が行きたくなって近づいたらロープに触れてチャイムが鳴ることになる。一般民である置目老媼のほうから天皇を訪問することは、奏上事などないのだから本来ならあってはならない。だから、置目老媼が行きたくなって参内したら、それはすなわち、天皇が呼んだことにしておくようとしておいた、ということである。天皇の意志として、必ずそうなるようにしようとしたのである。訓は、「必ず其の鐸に到り鳴さむとす。」である。鳴らす、の意の上代語は、四段活用の「鳴(な)す」である。

 …… 竹の い組竹(くみだけ)節竹(よだけ) 本辺をば 琴に作り 末辺をば 笛に作り 吹き鳴す ……(紀97)

 話の終わりに置かれた2つの歌については、当たり前のことをただ伝えているにとどまるもののようである。記111においては、3句目までは4句目を導く序であり、ほぼ意を成さない。4・5句で、鐸を揺らして置目が来るらしい、と歌っているのは、天皇が呼んだから来たのか、置目が自ら来たのか、不透明にできるからである。この両者の自己が溶解的な関係に至っている点こそ、「敦広慈賜」したことの証である。当初、押歯王の死について、失明するほどに御子らの気持ちとまったく同じで溶解的だったことを表している。記112は、置目が見えなくなると歌っていて、置目が盲目であったことを掛けて一話を結んでいる。

 浅茅原(あさぢはら) 小谷(をだに)を過ぎて 百伝(ももづた)ふ 鐸(ぬて)響(ゆら)くも 置目来(く)らしも(記111)
 置目もや 淡海の置目 明日よりは み山隠(がく)りて 見えずかもあらむ(記112)

 以上、古事記の置目説話について考察した(注10)

(注)
(注1)新編全集本古事記、365頁頭注。
(注2)倉塚1986.は、「忍歯王の名が必ずしも特徴的な歯にちなんだものではない」(268~269頁)とし、「口誦言語と文字言語の接点において誕生した説話だった。」、「細註は本文にもとづきつつ、話を、言語音の転換という一般的パターンに還元したということになる。」(269頁)としている。この議論には無理がある。オシハを忍歯と書いたから歯のことに気が向かったというのでは、ヤマトコトバのハという言葉(音)の意(刃・端・歯・葉)について、無文字に暮らした人が鈍感であったということになってしまう。「歯(は)」はヤマトコトバであって、漢字の音読みではない。そして、名は名づけられることによって作られている。オシハと名づけられたその時点で、人々が皆納得して共通認識となったから名として自立し得るのである。名の本性は綽名に宿っている。オシハと呼ばれたということは、オシハ的な性格が人々の間でわかち合えたということであり、それはとりもなおさず、特徴的な歯並びをしていたということに他なるまい。
(注3)DIYヘルパー チャレンジ永井様「とっても気になる四阿(東屋)」http://diyhelper.jp/azuma/azuma1.htm参照。物理的、工学的に何の不思議もないと頭で考えてしまい、ありのままの特徴を見て面白がる気持ちを忘れてはならない。
(注4)拙稿「忍歯王暗殺事件について」参照。
(注5)古代に、撥ね釣瓶が行なわれていたか、また、なかったか、証明されてはいない。中国では荘子によく知られた話が載る。「子貢、楚に南遊し、晋に反(かえ)らんとして漢陰を過ぎ、一丈人の方将(まさ)に圃畦を為らんとするを見るに、隧を鑿(うが)ちて井に入り、甕を抱きて灌を出で、搰搰然として力を用ゐること甚だ多くして功を見ること寡(すく)なし。子貢曰く、「此に械有り、一日に百畦を浸す。力を用ゐること甚だ寡くして功を見る事多し、夫子欲せざるか」と。圃を為る者、仰ぎて之れを視て曰く、「奈何(いかん)」と。曰く、「木を鑿ちて機を為り、後は重くして前は軽くし、水を挈(あ)ぐること抽(なが)るるが若(ごと)く、数(はや)きこと湯の泆(あふ)るるが如し、其の名を槹(はねつるべ)と為(す)」と。圃を為る者忿然として色を作して笑ひて曰く、「吾、之れを吾が師に聞けり、機械有る者は必ず機事有り、機事有る者は必ず機心有り、機心胸中に在れば則ち純白備はらず、純白備はらざれば則ち神生定らず。神生定らざる者は道の載せざる所なりと。吾、知らざるに非ず、羞ぢて為らざるなり」と。子貢瞞然として慚(は)ぢ、俯きて対へず。」(荘子・天地篇)。
(注6)甕が釣瓶に使われていたことは確かめられている。鐘方2003.に次のようにある。「最近まで日本で使用されていた釣瓶は、結桶でつくられたものがほとんどである。しかし、中世以前には素焼きの土器(おもに甕や壺)や刳り物容器、曲物が長らく利用されていた。刳り物容器の多くは木製であるが、他に瓢箪などが使用された可能性も十分にある。
(図13)
土器を釣瓶として利用する場合、その頸部に藁縄紐を巻き付けて使用する例(頸部巻き付け式)、蔓などの編物で外面を被いこれに縄紐を付けて使用する例(被籠式)、穿孔または耳を貼り付けて縄紐を通し使用する例(穿孔通紐式・附耳通紐式)、土器内部に入れた棒の中央に縄紐を結び付け、それを内部に引っ掛けて釣り上げる例(内釣り式)の4種の方法が中国で認められている(図13)。またそれら以外に、釣り手を付けて汲み上げる釣り手式の方法が桶などの木製容器において行われた(南京博物院・呉県文管会1985)。日本でも同様の方法が行われていただろう。……弥生時代中期以降に井戸の確認例が増加し、釣瓶の出土例も散見できるようになる。土器釣瓶には、釣瓶縄を直接頸部に巻き付けるもの(頸部巻き付け式)と籠で覆ってそれに釣瓶縄を取り付けるもの(被籠式)の両方が認められる。……土器が釣瓶として使用されたのは、土師器甕がなくなる平安時代頃までではなかろうか。」(25~31頁)。
(注7)新編全集本古事記では、「「見しことを失(わす)れず」と読んでおく。」(363頁頭注)としている。倉塚1986.に、「「置」でなければ「置目老媼」と号けたという話柄は生きてこない。」(264頁)、西郷2006.に、「断固として「置」であり、……「記伝」の説に従うべきである。さもなければ、この老女をほめて置目老媼(オキメノオミナ)と名づけたゆえんが不明に帰する。」(153頁)とする。
(注8)思想大系本古事記訓読補注に、23例あるなか15例が会話文中で呼応して訓まれるとしている。ほかにも数例、会話文と思われるものがあるので含めて示す。

 「我がなせの命(みこと)の上り来る由は、必ず善き心あらじ。……」(記上)
 「……汝が身、本の膚の如く必ず差(い)えむ。」(記上)
 「此の八十神は、必ず八上比売を得じ。……」(記上)
 「……若し待ち取らずは、必ず汝を殺さむ。」(記上)
 「……必ず其の大神、議(はか)らむ。」(記上)
 「此は、久延毘古、必ず知らむ。」(記上)
 「……必ず国つ神の子ならむ。」(記上)
 「……故、必ず是を取りつらむ。」(記上)
 「……為然(しかせ)ば、吾、水を掌(つかさど)るが故に、三年の間、必ず其の兄、貧窮(まづ)しくあらむ。……」(記上)
 「……必ず是の表(しるし)に有らむ。」(垂仁記)
 「凡そ子の名は、必ず母の名けむを、何(いか)にか是の子の御名を称(い)はむ。」(垂仁記)
 「我が宮を天皇の御舎(みあらか)の如く修理(をさ)めば、御子、必ず真事とはむ。」(垂仁記)
 「……汝、必ず是の牛を飲食(す)かむ。」(応神記)
 「……彼(そ)の時に、吾、必ず相言はむ。」(履中記)
 「……若し兵(いくさ)を及(や)らば、必ず人咲(わら)はむ。……」(允恭記)
 「……亦、今は志毘、必ず寝(い)ねたらむ。……」(清寧記)
 「父王の仇(あた)を報いむと欲はば、必ず悉く其の陵を破壊(やぶ)らむ。……」(顕宗記)
 「……是に今単(ひとへ)に父の仇の志を取りて、悉く天下を治めし天皇の陵を破らば、後の人、必ず誹謗(そし)らむ。……」(顕宗記)

 これらの例のなかには、「必ず」の前に、「もし(若)」といった条件句を据えているものがあり注目される。すなわち、「必ず」は、論理包含(implication)にかかる語のようである。そこで筆者は、会話文中に限らず全般にわたって、「必ず……む」、「必ず……じ」と訓むものと考える。白川1995.に、「かならず〔必〕 おろそかのことでなく、その結果が定まって実現することをいう。……例外なくという、否定的な形の語である。活用語の未然形に打消しの「ず」がつづく形で、「かならじ」という述語の形もみえる。」(238頁)とある。漢文訓読文を中心に、さらに強めた「必ずや」という言い方もあるが、その場合も、きっと……するだろう、確実に……するだろう、の意である。カナラズが必然、必定を表わすなら、その言葉は実は要らない。「さあ、仕事しよう。」は、今現在していないから発する言葉である。わざわざ「必ず」と付けているのは、P→Qの前件に不確かさを含み、後件に推量や意志が見え隠れしていると言えるのではないか。
 なお、古典基礎語辞典に、「カリ(仮)ナラズの約(つづ)まった語……。原義の仮ではない意から、本当に、きっとなどの意が派生した。こういう意味を表すため、カナラズはどうしても、推量・意志の助動詞ム……と呼応する場合が多い。」(357~358頁、この項、我妻多賀子)とある。この考え方には矛盾がある。「必ず」という語が「仮ならず」の意というのなら、「必ず国つ神の子ならむ。」という例は、「仮に国つ神の子ならず。」、「仮に国つ神の子に有らず。」ということになり、「天つ神の子なり。」という言辞と同義になって、意味が逆転してしまう。
(注9)地の文においても「必」は「必ず……む」、「必ず……じ」の意味合いであり、さらなる訓み添えが必要である。記の地の文にある「必」は次の2例である。

 是以、一日必千人死、一日必千五百人生也。(記上)
 是以、至今其子孫、上於倭之日必自跛也。(顕宗記)

 第一例を「是を以て、一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生るるぞ。」、第二例を「是を以て、今に至るまで其の子孫(あなすゑ)、倭に上る日に必ず自づから跛(あしなへ)ぐぞ。」などと訓まれている。「必」が必然、必定の意のままであるなら、統計的に500人/日で人口が増えていっているデータがあり、また、猪甘の子孫はヤマトへ上京することができずに整形外科が繁盛していたということになるが、そういった事実は見られない。いずれの例も、「是以……日必……也。」という総括の形をとっている。前件に述べたことがらを踏まえて今に当たるとそういうことになると推量される、と言っているにすぎない。だから、「必」には、「む」という推量の助動詞を添えて訓むのが妥当なのである。「かなる」という語幹をした仮想語の未然形に、打消しの「ず」がつづいている本願でもあろう。そして、助動詞「む」を強調せんがために「也」と付いていると考えられる。推量、意志の強意した形は、連語の「むとす」に見られる。地の文で「む」が使われる使われ方とは、「むとす」の形をとって客観的な立場からの物言いであるとわかる。

 狭井河(さゐがは)よ 雲立ち渡り 畝傍山 木(こ)の葉さやぎぬ 風吹かむとす(記20)
 是を以て、一日に必ず千人死なむとし、一日に必ず千五百人生れむとす。
 是を以て、今に至るまで其の子孫、倭に上る日に必ず自づから跛(あしなへ)がむとす。

 なお、思想大系本古事記に、「日(ひ)毎(ゴト)に必(かなら)ず召(め)さむトす。」(289頁)と訓んでいる。
(注10)顕宗紀に所載の置目説話は、大枠では違いはないが、細かい点に違いがある。亡き父市辺押磐皇子の遺骨が帳内(とねり)の佐伯部売輪、別名、仲手子(仲子)のそれと混じっていたこと、彼の歯は上の歯がなかったことで分けようとしたがしきれず、2つの陵墓を同じように作って同様の葬儀を行ったこと、宮殿の近くに老嫗置目を住まわせたが歩行が難しいと訴えたので点字ロープを張って鐸が鳴るようにしておいた、という話になっている。
 2つ陵墓を作った点については、1人に1つずつ墓を作ることが望まれていた上代の思想を反映している。神功紀元年二月条に「阿豆那比(あづなひ)の罪」として明示されている。昼が夜のように暗いことが続き、当時の人が「常夜(とこやみ)行く」と呼んだ災禍があった。原因は、小竹祝と天野祝の2人を合葬していたのは良くないことでだから、別々にしたという話である。拙稿「雄略即位前紀の分注「𣝅字未詳。蓋是槻乎。」の「𣝅」は、ウドである論」参照。

 二月の戊戌の朔壬寅に、詔して曰はく、「先王(うしのきみ)、多難(わざはひ)に遭離(あ)ひて、荒郊(あらのら)に殞命(をは)りたまへり。朕(われ)、幼年(いとけなきとき)に在りて、亡逃(に)げて自ら匿(かく)れたり。猥(ま)げて求め迎へられて、大業(おほきついで)に升纂(つ)げり。広く御骨(みかばね)を求むれども、能く知りまつれる者莫し」とのたまふ。詔畢りて、皇太子(ひつぎのみこ)億計(おけのみこ)と、泣(いさ)ち哭き憤惋(いた)みて、自ら勝(た)ふること能はず。
 是の月に、耆宿(ふるきおきな)を召し聚(つど)へて、天皇、親(みづか)ら歴(とな)め問ひたまふ。一(ひとり)の老嫗(おみな)有(はべ)りて、進みて曰さく、「置目、御骨の埋(う)める処を知れり。請ふ、以て示(み)せ奉らむ」とまをす。置目は、老嫗の名なり。近江国の狭狭城山君(さざきのやまのきみ)の祖(おや)倭帒宿祢(やまとふくろのすくね)の妹(いろも)、名を置目と曰ふ。下の文(くだり)に見ゆ。是に、天皇と皇太子億計と、老嫗婦(おみな)を将(ゐ)て、近江国の来田絮(くたわた)の蚊屋野(かやの)の中に幸して、掘り出して見たまふに、果して婦(おみな)の語(こと)の如し。穴に臨みて哀号(さけ)びたまひ、言(こと)深(ねむごろ)に更(また)慟(まど)ひます。古より以来(このかた)、如斯(かか)る酷(いたみ)莫し。仲子(なかちこ)の尸(かばね)、御骨に交横(まじは)りて、能く別(わ)く者(ひと)莫し。爰に磐坂皇子の乳母(めのと)有(はべ)り。奏(まを)して曰さく、「仲子は、上の歯堕落(お)ちたりき。斯(これ)を以て別くべし」とまをす。是に、乳母のまをすに由りて、髑髏(みかしらのほね)を相別くと雖も、竟(つひ)に四支(むくろ)・諸骨(みかばね)を別くこと難(かた)し。是に由りて、仍(なほ)蚊屋野の中に、双陵(ふたつのみさざき)を造り起(た)てて、相似せて如一(ひとつ)なり。葬儀(はぶりのよそほひ)異なること無し。老嫗置目に詔して、宮の傍(ほとり)の近き処に居(はべ)らしむ。優崇(あが)め賜卹(めぐ)みたまひて、乏少(たらはぬこと)無からしむ。
是の月に、詔して曰はく、「老嫗、伶俜(さすら)へ羸弱(あつし)れて、行歩(あり)くに不便(もやもやもあら)ず。縄を張りてき引き絚(わた)して、扶(それにかか)りて出入(まゐりまか)づべし。縄の端に鐸(ぬりて)を懸けて、謁者(ものまをしひと)に労(いたは)ること無かれ。入(まゐ)りては鳴(なら)せ。朕、汝(いまし)が到るを知らむ」とのたまふ。是に、老嫗、詔を奉(うけたまは)りて、鐸を鳴して進む。天皇、遥(はるか)に鐸の声(おと)を聞しめして、歌(みうたよみ)して曰はく、
  浅茅原(あさぢはら) 小确(をそね)を過(す)ぎ 百伝(ももづた)ふ 鐸(ぬて)ゆらくもよ 置目(おきめ)来(く)らしも(紀85)(顕宗紀元年二月)
 九月に、置目、老い困(くるし)びて、還(かへ)らむと乞(まを)して曰(まを)さく、「気力(いきちから)衰(おとろ)へ邁(す)ぎて、老い耄(ほ)れ虚(うつ)け羸(つか)れたり。要仮(たとひ)縄に扶(かか)るとも、進み歩(あり)くこと能はず。願はくは、桑梓(もとつくに)に帰(かへりまか)りて、厥(そ)の終(をはり)を送らむ」とまをす。天皇、聞こしめし惋痛(いた)みたまひて、物(もの)千段(ちむら)賜ふ。逆(あらかじ)め路を岐(わか)れむことを傷みて、重ねて期(あ)ひ難きを感(なげ)きたまふ。乃ち歌(みうた)賜ひて曰はく、
   置目もよ 淡海の置目 明日よりは み山隠(がく)りて 見えずかもあらむ(紀86)(顕宗紀二年九月)

(引用・参考文献)
鐘方2003. 鐘方正樹『井戸の考古学』同成社、2003年。
倉塚1986. 倉塚暉子『古代の女―神話と権力の淵から―』平凡社、1986年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
西郷2006. 西郷信綱『古事記注釈 第七巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年。
思想大系本古事記 青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
日本国語大辞典 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版 第十二巻』小学館、2001年。
真福寺本古事記・下巻「此天皇求其~加母阿良牟(―初天)」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185390/30~31をトリミング結合)

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