古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

崇神記のパンデミック記事について

2020年04月20日 | 古事記・日本書紀・万葉集


 我が国におけるパンデミック(爆発的感染)の最初の記録は、崇神天皇の時代に遡る。卑弥呼の頃、3世紀初めと推測される。当時のヤマトの国はおおむね奈良盆地を版図としていたと考えられる。本稿では、古事記の記述について考察する。

 此の天皇の御世に伇病(えやみ)多(さは)に起りて、人民(おほみたから)尽きなむとす。(此天皇之御世伇病多起人民為尽)(崇神記)(注1)

 崇神天皇時代、疫病が流行して、人口がゼロになりそうになった、と言っている。これがどういう流行病であったか表面の記述上はわからないものの、それまでになかった感染症が猛威をふるったことは読み取れよう。
 中国大陸では西暦220年に後漢が滅ぶ。国の混乱から逃れようと、列島へ渡る人もいたであろう。風土病が広範囲に広がる伝染病となる契機である。伝染病のことを「伇病」と言っている。和名抄に、「疫 説文に云はく、疫〈音は役、衣夜美(えやみ)、一に度岐乃介(ときのけ)と云ふ〉は民の皆病む也といふ。」とある。トキノケとは一時的に流行する病気の意味である。今日的表現では、集団免疫をつけて克服する病ということであろう。ほかに、「伇気(えやみのけ)」(崇神記)、「疾疫(えのやまひ)」(崇神紀五年)、「疫病(えのやまひ)」(崇神紀七年十一月)などともある。記の真福寺本にある「伇」の字としては、万葉集にも「課伇(えつき)」(万3847)と見える。
 中国で「役」の字は、公役にあてられて家から離れて遠く赴き、戦争や土木工事に使役されることをいう。ヤマトコトバでは、「役」をエ、ないし、「発つ」が続いてエタチというという。各地から徴用され、そのうちの誰かが伝染病の病原体を持っていると、必然的にうつし合う集団感染、いわゆるクラスターとなり、一斉に発病、伝播する。よってエヤミという。「役」をエと訓むのは、「中国北方の字音 yek の k の脱落したもの。」(注2)とされている。「役」は、呉音にヤク、役所、役割、役者など、漢音にエキ、兵役、服役、現役、使役などと使われている。もともとの「役」の字は、彳は道が交差しているところの形、殳はほこを手で持っている様子を示している。よって、人が遠いところへ行かされてこき使われることを表す。古代日本では、溜池、道路、古墳、都城、大仏などを造らされたり、防人に行かされるとき、またその後も前九年の役、文禄・慶長の役、西南の役など、辺地での戦に駆り立てられるときに用いられた。
 一方、古事記に見える「伇」の字は、集韻に「役に同じ」とするが、楊子方言に、「拌 棄つる也。楚、凡そ揮(ち)り棄つる物は之を拌と謂ふ。或に之を敲と謂ふ。淮汝の間に之を伇と謂ふ」とある。管見ながら、古事記に「伇」の字が選択的に使われている理由は、検討すらされていない。



 エはヤ行のエである。ヤマトコトバの ye という音には、ほかに兄、江、枝、柄、胞の意味がある。もともとのヤマトコトバは文字を持たない音声言語であったから、同じ音として一つの言葉(音)に集約しているということは、それらの間にどこか共通する意味を有し、ひとつの概念として捉えていた可能性を表わしている。
 エ(ye)というヤマトコトバの意味には、ある共通項がある。枝(え)は、花を咲かせ実をつける部分で、分かれていくほどその数が増えるし、幹と違い折れやすい。江(え)は、海(湖)岸線が陸地のほうへ伸びているところで、潮の干満で水没を繰り返しており、船の停泊にかなっている。胞(え)は、赤ん坊が生まれて後から出てくる後産(あとざん)で、胎児を包んでいた膜や胎盤のことである。出産時の死亡率は非常に高かった。柄(え)は、柄杓の柄のように伸びていてつかみやすくて使いやすいが、使いやすければ使いやすいほど壊れやすい。そして、兄(え)については、古代は末子相続であったがため、兄弟の兄のほうは新しく家を構えて進出するフロンティアであり、それはリスクを伴う存在でもあった(注3)
 すなわち、現状に満足せずに伸びて行ってハイリスク・ハイリターンを求めるところが、エ(ye)という言葉の概念である。楊子方言に、「伇」のことを棄てることとあったのは、ハイリスク・ハイリターンな金融商品は余裕資金で行ない、すべてが失われたとしてもかまわないつもりでいるようにというのに同じである。逆に言えば、自粛してじっと我慢する生活にとって、不便をいとわずに暮らすことだけを考えるなら、エ(ye)というものは求める必要はない、いわゆる不要不急ということである。人間の活動を伸長させることは、疫病の危険性を伴っているという教えとして、エ(ye)なるヤマトコトバはつくられていると言える。その痕跡は、奈良時代に用いられた助動詞「ゆ」の連用形のエ(ye)に見て取れ、今日、「あらゆる」、「いわゆる」という形に化石的に残る。この「ゆ」は、自然の成り行きから自発してすることや、自然の成り行きから可能となること、自然の成り行きとして被る受身の意味を示す。その連用形の名詞に当たるエ(ye)という言葉は、それ自体として自然の成り行きとしてできて展開していってしまっていることを自己循環的に表している言葉と言える。
 枝も江も胞も柄も、自然の成り行きで出で来て現われている。木の枝や後産の胞は生命活動としての側面としてそうであるし、海や湖の江部分は波や水の流れから、ひしゃくの柄は使い勝手を考慮すれば付けたくなるのは当然のことである。ただ、比喩的な言い方で“冬の時代”が訪れた時、それは要らない。命脈を保つことのみを念頭に置いて耐え忍ぶのが肝要である。木を移植するときに根を痛めることがあるから、思い切り枝を伐っておく。子孫へと命ばかりをつなぐためには、きわめてリスクの高かった出産時には、母体の健康よりも子の健康を優先しなければ命は引き継がれない。先に出てくる子の命が優先で、後産の胞が出てこないときには残念ながら母親の命は諦めるほかはない(注4)。湖面の水位が下がれば、江は一気に水が引いていく。柄は壊れやすくて取れてしまうが、なくても器部分さえあれば水を汲めないことはない。命脈を保つことばかりに限定して耐え忍ぶとき、不要として棄て去るべきなのがエということになる。



 「伇」に罹った人は社会から棄てられた(注5)。そうしなければ社会の方を守ることができないからである。強制的に就かされる労役や有無を言わさない強引な徴税も、拘束されて家族、国元から引き離され使役されたり、自分のもとから取り上げられて勝手に使われてしまうことを言っている。村人から見れば、結果的には、村で最小限、最低限の暮らしをなんとか維持していく以上の余剰にあたるところは、自然の成り行きとして棄てなければならない存在に当たるということなのであった(注6)
 では、疫病としての「伇」はどのように防げばいいのであろうか。感染症なのだから、ソーシャル・ディスタンスをとればいい。病原体、ウイルスを持っている人と接しなければ罹らない。周知の真理である。歴史的に、経験則として知られていたものと思われる。だから、疫病の意味を「伇」、「役」字で表している。したがって、水際対策、検疫体制、国境封鎖は有効であると“常識的に”理解されていたであろう。甘いとつらいことになる。

 爾くして、天皇愁(うれ)へ歎きて神牀(かむどこ)に坐(いま)しし夜、大物主大神(おほものぬしのおほかみ)、御夢(みいめ)に顕れて曰(い)ひしく、「是は我が御心ぞ。故、意富多多泥古(おほたたねこ)を以て、我が前(みまへ)を祭らしめば、神の気(け)起らず、 国安らけく平らけくあらむ」といひき。是を以て、駅使(はゆまづかひ)を四方(よも)に班(あか)ちて、意富多多泥古と謂ふ人を求めし時、河内(かふち)の美努村(みののむら)に其の人を見得て貢進(たてまつ)りき。爾くして、天皇の問ひ賜はく、「汝(な)は誰(た)が子ぞ」ととひたまふに、答へて白(まを)ししく、「僕(あ)は大物主大神の、陶津耳命(すゑつみみのみこと)の女(むすめ)、活玉依毘売(いくたまよりびめ )を娶(めと)りて生みし子、名は櫛御方命(くしみかたのみこと)の子、飯肩巣見命(いひかたすみのみこと)の子、建甕槌命(たけみかづちのみこと)の子にして、僕は意富多多泥古ぞ」と白しき。是に天皇、大きに歓びて詔(のりたま)はく、「天の下平らぎ、人民(おほみたから)栄えむ」とのりたまひて、即ち意富多多泥古命を以て神主(かむぬし)と為(し)て、御諸山(みもろやま)に意富美和之大神(おほみわのおほかみ)の前を拝(をろが)み祭りき。
 又、伊迦賀色許男命(いかがしこをのみこと)に仰(おほ)せて、天(あめ)の八十(やそ)びらかを作り、天神地祇(あまつかみくにつかみ)の社を定め奉りき。又、宇陀(うだ)の墨坂神(すみさかのかみ)に赤き色の盾・矛を祭り、又、大坂神(おほさかのかみ)に黒き色の盾・矛を祭り、又、坂の御尾(みを)の神と河の瀬の神とに、悉(ことごと)く遺(のこ)し忘るること無く幣帛(みてぐら)を奉りき。此に因りて、役(え)気(け)、悉く息(や)み、国家(あめのした)安らけく平らぎき。
 此の意富多多泥古と謂ふ人を神の子と知りし所以は、上に云へる活玉依毘売、其の容姿(かたち)端正(きらぎら)し。……(崇神記)

 最後の文章は、「此謂意富多多泥古人所-以知神子者、上所云活玉依毘売、其容姿端正。」と訓読して、意富多多泥古が神の子であると知った理由は、活玉依毘売の容姿が端麗であった、云々ということになっているが、説明になっていない。以下はいわゆる三輪山伝説である。
 そうではなく、意富多多泥古は、活玉依毘売の玄孫、五世の末裔である。上の告白から、大物主大神が陶津耳命の娘の活玉依毘売と結婚して生んだ櫛御方命の子である飯肩巣見命の子である建甕槌命の子であるのが、意富多多泥古であるとわかる。このことは、意富多多泥古が神の子であると知った理由について、すでに了解済みであるということを示している。訓みが誤っている。

 此謂意富多多泥古人所以知神子者上所云活玉依毘売其容姿端正。
 此謂意富多多泥古人所-以知神子者、上所云。活玉依毘売、其容姿端正。
 此の意富多多泥古と謂ふ人を神の子と知りし所以(ゆゑ)は上(かみ)に云へり。活玉依毘売、其の容姿(かたち)端正(きらぎら)し。

 第一の文章は、意富多多泥古と謂う人を神の子と知った理由はすでに上に述べたとおりである、の意味で、前の段落の最後につけるべきものと知れる(注7)



 では、どうして、上の意富多多泥古の告白によって、意富多多泥古と謂う人を神の子と知ったのか。大物主大神や活玉依毘売から玄孫の意富多多泥古に至る系譜を述べていた。それをきちんと答えられることは難しいことであったかもしれないが、それ以上のことを言外に述べているのであろう。すなわち、この系譜は、大物主大神―櫛御方命―飯肩巣見命―建甕槌命―意富多多泥古(注8)という男系の系譜を述べたものである。ヲ(雄・男)の続いていることが文字どおり伝えられている。ヲとは、ヲ(麻・苧)でもあり、ヲ(緒・弦)でもある。ヲ(麻)のことは後の三輪山伝説に続いている。ヲ(緒)のことを今、言っている。撚り合わせた繊維の一筋につづくもので、半永久的に切れないでどんどん長く伸びていく。そこから、「年の緒」、「息の緒」などの意に転用され、命の意味に用いられた。「己が緒(を)を 盗み殺(し)せむと」(記22)と見える。命脈を保つことがヲなのである。非情ではあるが、非常事態だから、エ(胞)のことは顧みずにヲ(命)を優先させている。あくまでも命をつないでいく、その命のことがヲであり、子や孫が死んで老人が生き残っても、それはヲではない(注9)
 したがって、意富多多泥古が系譜を告白した時点で、「於是天皇、大歓以詔之、天下平、人民栄。」と、希望の表明に至っている。何をすれば良いかがわかったということである。ヲばかりに専念すればいい、そうすればいつの日にか「天下平、人民栄」へと転換できると見えたのである。「以意富多多泥古命、為神主而、於御諸山、拝-祭意富美和之大神前。」と、ヲのことだけ考えてすべての活動を自粛しようと決め、また、「仰伊迦賀色許男命、作天之八十毘羅訶、定奉天神地祇之社。又、於宇陀墨坂神、祭赤色盾矛、又、於大坂神、祭黒色盾矛、又、於坂之御尾神及河瀬神、悉無遺忘、以奉幣帛也。」と、ロックダウンしたのである。坂から入ってくるな、山裾から入ってくるな、河から入ってくるな、と標識を立てている。よその人にとっても、異様な盾や矛、幣帛が置かれていたら、奈良盆地には何か緊急事態があると知れ、近づかないようにしようと気づいたのであった。
「ソーシャルディスタンス」(首相官邸HP、https://www.kantei.go.jp/jp/headline/kansensho/coronavirus.htmlからコラージュ)
 以上のことを勘案すると、崇神記のこの「伇病」は、呼吸器感染症であった可能性が高いと考えられる。そして、上代の、ヤマトコトバを音声言語としてしか用いていなかった人たちにとって、この逸話は呼吸器感染症に対する有効な手立てをきちんと語り継ぐものであった。知恵ある暮らしがあり、知恵ある人々がいた。感染症が蔓延する緊急時には、エ(ye)はいいからヲに専念せよ、と伝えている。

(注)
(注1)拙稿「聖徳太子の髪型と疫病(えやみ)の関係について」参照。なお、崇神紀に、「五年に、国内(くにのうち)に、疾疫(えのやまひ)多(おほ)くして、民(おほみたから)死亡(まか)れる者有りて、且大半(なかばす)ぎなむとす。六年に、百姓(おほみたから)流離(さすら)へぬ。或いは背叛(そむ)くもの有り。」とある。政府を批判したり、コロナ疎開や他県のパチンコ店へ行くといったことをしている。紀では祭祀を行ない、「是に疫病始めて息(や)みて、国内漸(やうやく)に謐(しづま)りぬ。五穀(いつつのたなつもの)既に成(みの)りて、百姓饒(にぎは)ひぬ。」(崇神紀七年十一月)とあり、終息まで2年かかっている。
(注2)岩波古語辞典、197頁。
(注3)古代の、末子相続が原則における兄(え)については、複数の跡取り候補を設けておいて、その年長者から外へ出すのは、子孫存続の上で理にかなったやり方である。弟(おと)の方に何かあった場合、兄を呼び戻せば済むからである。そして、村を出て新田開発をしている兄には、いずれかの場所で感染症が拡大しているときには帰省しないでいただきたいのである。
 歴史的にそもそも末子相続であったのか、やがて長子相続へと変わっていったと定められうるのか、については検証しつくされてはいないが、言葉から考えれば実態はあったものと考えられる。白鳥1925.参照。
(注4)現代的な感覚と異なるところがあるが、人口が半分になるような状況下では仕方がないと考えられていたと思われる。
(注5)納体袋に入れて、周りの人が決してウイルスに触れない配慮が求められる。死に顔も見ることができないのはつらいものであるが、それが「伇」である。家族のなかで感染者が出た時、子供のいる家庭はどう対処したらいいのか難題であるが、当時は見棄てられたということを太安万侶の用字「伇」は物語っている。
(注6)古代の、ヤマトコトバを作り、使っていた人は、現在人とは危機感が違う。ヤマトコトバのエ(ye)に、新型コロナウイルスの感染拡大において、自粛と補償はセットであるといった悠長な視点は見られない。今日のヤマトコトバについての解説でも、尾山2018.に、「「疫」に「伇」が通用している理由は「え」同士の語義の繋がりではない」(3頁)と断じて憚るところがない。
(注7)「上所謂建豊波豆羅和気王者、……」(開化記)の例は、「上に謂へる建豊波豆羅和気王は、……」と訓む。「者」字までが主語である。
(注8)先代旧事本紀・地祇本紀に、「九世孫大田田禰古命。亦名、大直禰古命。此命、出雲神門臣女美気姫為妻、生一男。姓氏録云、出雲神門臣天穂日命十二世孫、鵜濡渟命後也。」とある。天皇制が平安時代以降、男系男子に傾いていったことといかなる関係があるのかについて、筆者は仮説を打ち立てる力さえ持たない。平安遷都により、ヤマトコトバは文字言語が完全に優位となり、上代特殊仮名遣い音さえも失ったからである。
(注9)ドーキンス2006.の主張するビークルという考え方は、このヲ(命)の捉え方によく似ている。感染症において死亡率が男性に高い傾向があって、古代に極端にヲ(雄・男)の人口減少を引き起こしていたかもしれない。死亡数に男女差があったればこそ、三輪山伝説という半月(はにわり)にまつわる伝承へと続いているとも考えられる。拙稿「三輪山伝説」参照。

(参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹明広・前田金五郎編『岩波古語辞典』岩波書店、1974年。
尾山2018. 尾山慎「「疫(え)」と「伇(え)」「古代語のしるべ」第五回、三省堂、2018年(https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp-images/kodaigonosirube_5.pdf)。
白鳥1925. 白鳥清「古代日本の末子相続制度に就いて」池内宏編『東洋史論叢─白鳥博士還暦記念─』岩波書店、大正14年。
ドーキンス2006. リチャード・ドーキンス著、日高敏隆・岸由二・羽田節子・垂水雄二訳『利己的な遺伝子 増補新装版』紀伊国屋書店、2006年。

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