血統入門【第15回】気品ある三冠馬ニジンスキー

さて、今回からは「ノーザンダンサーの後継種牡馬編」ということで、

世界的な大種牡馬の血を拡大させた優秀な後継種牡馬たちにフォーカスして、

お話をしていきます。

 

第一弾はノーザンダンサーの2年目の産駒であり、

競争馬としても種牡馬としても非常に優秀な成績を残した、

ニジンスキーです。

 

父と同じくカナダの地で、同じ生産者によって誕生したニジンスキーは、

やがて欧州に渡り、競走馬として35年ぶりの偉業を達成し、

父の名を世界中に轟かせる事となります。

 

欧州のスタミナ型血統としてのイメージが強いニジンスキーとは、

どのような馬だったのでしょうか。

そのイメージを明らかにしていければと思います。

 

ニジンスキー(1967年 カナダ産まれ)

 

父は歴史的種牡馬ノーザンダンサー

母フレミングページも父やニジンスキーと同じく、

カナダの馬産家E・P・テイラーによって生産された馬です。

競争馬としてもケンタッキーオークスで2着になった、

バリバリのアメリカ血統の馬でした。

 

そんな母のアメリカの血の影響とノーザンダンサーの欧州的な血の要素の化学反応でしょうか。 

ニジンスキーは小柄で脚も短くずんぐりとした馬体だったノーザンダンサーと異なり、

非常に雄大で大柄、脚も胴も長く、全体的にスラッとした馬体を誇っていました。

 

イギリス伝統の理想のサラブレッドの体型。

それがニジンスキーの欧州競馬への高い適性の理由であったと言われています。

 

このニジンスキーの欧州的な洗練された馬体が、

やがて、彼が競走馬として欧州でデビューする理由となります。

当時のアイルランドの名調教師がリボーの産駒を求めて牧場を訪れた際、

お目当てのリボー産駒ではなく、

ニジンスキーに一目惚れをしたことがきっかけで、

アイルランドへ渡って競走馬としてデビューを飾ることとなったのです。

 

デビューしたニジンスキーは、

5戦5勝の戦績で2歳シーズンを終えて、

英・愛の2歳チャンピオンの座に輝きます。

 

しかし、この5連勝は卓越した競走能力を持ったニジンスキーとって、

通過点でしか有りませんでした。

 

3歳になり、初戦を制したニジンスキーは、

ついにイギリス伝統のクラシックに挑んでいくこととなります。

 

第一弾の英2000ギニー

後方から鋭い脚で追い込んできたニジンスキーは、

レッドゴッド産駒の強豪馬イエローゴットとの競り合いを見事に制して、

第一冠目を手にします。

 

第二弾のダービー。

ここでもニジンスキーは1番人気に支持されますが、

単勝オッズは生涯で一番高い2.4倍というものでした。

 

他の名馬でもよくある話ですが、この時のニジンスキーは、

「ダービーは距離が長いのではないか・・・」と思われていました。

ノーザンダンサーが12ハロンで行われたベルモントSで3着に敗れた事や、

母もバリバリのアメリカ血統馬で、かつ12ハロンの距離は勝利経験がなかったためです。

ニジンスキー自身もここまでの7連勝は全て6〜8ハロンのレースであったので、

この評価は無理も有りませんでした。

 

しかしこのレースを機に、

人々はニジンスキーに秘められたスタミナを思い知る事となります。

 

すでに中距離重賞を複数制覇していた2番人気のフランスの強豪馬ジルを、

最後の直線で一気にかわしたニジンスキー

結局2馬身半もの差をつけて、ダービーを優勝して二冠目を手にしました。

 

優勝タイムは、当時マームードに次いでダービー史上2番目に速いタイムだったのですから、そのレースレベルの高さも証明されていました。

そのまま一月もたたないうちに、返す刀でアイルランドダービーも制覇します。

 

そしてその更に1ヶ月後にはキングジョージを制覇。

更に一月半後、

無敗のまま挑んだセントレジャー(日本の菊花賞のようなレースですね)で、

ニジンスキーは三冠制覇を達成します。

それは前の英三冠馬バーラム以来、実に35年ぶりの快挙達成でした。

 

いまでは考えられないローテーションですが、

そこから一ヶ月も立たないうちに、

ニジンスキーは欧州最高峰の舞台である凱旋門賞に駒を進めます。

 

決してコンディションは万全では有りませんでしたが、

陣営も騎手も、そして観衆も彼の無敗、12連勝での凱旋門賞の制覇を疑う者はいませんでした。

 

レースでは、ニジンスキーは後方からレースを進めます。

直線。残り400メートル。

4番人気の先行馬ササフラが先頭に立ちます。

追うニジンスキー。残り200メートル。

ササフラの直後まで追い込んできます。

 

並ぶササフラニジンスキー

しかし、騎手がムチを入れた瞬間、

それまでムチで叩かれることなく勝利してきたニジンスキーは驚いて外によれ、

ライバルに一瞬の不覚を取ってしまいます。

 

ゴール直前にササフラに差し替えされ、そのままレースは終わってしまいました。

ニジンスキーは、初めての敗戦を経験することとなったのです。

馬場は決して良い状態では有りませんでしたが、

レコードに1秒差のハイレベルでの決着でした。

 

その後チャンピオンステークスに出走することとなったニジンスキーの陣営は、

このレースを最後に彼を引退させることを発表していました。

歴史的名馬の最後の勇姿を見ようと押しかけた大勢のファンの歓声に興奮したニジンスキーは、

このレースでもひどく発汗してしまい、2着に敗れてしまいます。

通算成績13戦11勝で現役を引退。

それは、生涯初めての敗戦を経験した凱旋門賞の日から、

わずか13日後のことだったというので驚きです。。。

 

種牡馬としてのニジンスキー

 

 

 

マルゼンスキー:競馬の殿堂 JRA

 

残念ながら、一時期繁栄していたニジンスキーのサイアーラインは、

今ではほとんど衰退してしまっています。

 

しかしその優れた血の影響は今でも大きく、

日本でも多くの競争馬がその優れた血の恩恵を受けて活躍しています。

 

まずは、

1972年の産駒グリーンダンサー

イギリスとフランスでG1競走3勝の成績を上げます。

種牡馬としては

スーパークリークの父ノーアテンション

凱旋門賞馬スワーヴダンサー

●フィエールマンの母の父グリーンチューン

●朝日杯を制し、クイーンエリザベスCを連覇したエイシンプレストン

などを輩出します。

 

そして、なんと言っても

1974年産で日本で活躍した持込馬マルゼンスキー

その走りは異次元で、クラシックに出走出来なかったのが悔やまれますが、

8戦8勝で大楽勝の快進撃を続け、「スーパーカー」の異名をとりました。

彼は種牡馬としても優秀で、

菊花賞馬のホリスキーレオダーバン

●朝日杯とダービーを勝ったサクラチヨノオー

などを輩出します。

そして一頭の牝馬の産駒から、武豊に初めてのダービー制覇をプレゼントする名馬が誕生します。

マルゼンスキーを母の父に持つスペシャルウィークです。

 

1980年産駒のカーリアンは最も優れた後継種牡馬で、

●英・愛ダービーキングジョージを制したジェネラス

凱旋門賞バーデン大賞を制したマリエンバード

タイキシャトルの母ウェルシュマフィン

●3戦目で日本ダービー馬になったフサイチコンコルド

名牝ブエナビスタの母ビワハイジ

などの父となります。

 

あとは、

1983年のダンシングキイですね。

菊花賞ダンスインザダークオークスエリ女を制したダンスパートナーの母です。

ダンスインザダークはその産駒も菊花賞の舞台で強いので有名ですが、

そのスタミナの源泉はニジンスキーの血だったんですね。

 

1992年産のラムタラも優れた馬で、

わずか4戦のキャリアしか無いにも関わらず、

英ダービーキングジョージ凱旋門賞を無敗のまま制覇しています。

 

 

カナダに産まれ、

アメリカの血を豊富に抱えながら欧州の超一流馬として活躍したニジンスキー

多彩な顔を持つ彼の後継馬たちも非常に柔軟性があり、

様々なタイプの競走馬をレースに送り出しています。

 

基本的には「優れたスタミナを伝える血」という認識で間違いは無いと思いますが、

決してそれだけでは無い彼の汎用性と底力を、

ぜひ血統表から感じ取って子孫たちの走りを見守って行きたいと思います。

 

今回も最後までご覧いただき有難うございました。

ではまた(^^)