基督の歌+3:自殺 | ウソの国ー詩と宗教(戸田聡 st5402jp)

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   基督の歌+3自殺
  
    自殺について
     (「自殺は最大の罪」とは
     「自殺者は最大の罪人」の意ではない
     これは生けるものに向かって発せられた言葉であって
     死者を呪うための言葉ではない)
 
自殺者はいつも
いちばん言いたかったことを
言い損ねて死んでしまう
したがって口を失った彼が
残された人々によって
嘆かれているうちはいいとしても
時には根も葉もないささやきの的になったり
とてつもない大罪を背負わされたりする
それでも死者は黙っているほかはない
 
 (神が生ける者の神であるように
  罪も許しもまた生ける者のためにあるのなら
  最大といわれる自殺の罪が
  果たして自殺者だけに帰せられるべきものかどうか)
 
もうだめだと思ったときに
他人を殺す人間もいれば
もうだめだと思ったときに
自分を殺す人間もいる
 
人がみんな死ぬときに
弾丸の間をすり抜けて生きのびた人間もいれば
人がみんな生きるときに
ひとり天井を眺めながら死んでいく人間もいる
 
 (基督は確かに生きよと言われるだろう
  だが その理由によって生きている人間は
  思ったほど多くはあるまい)
 
自ら死ぬ ということは
もう出会わないと言うに近く
ひょっとしたら
生まれてこのかた
誰にも会ったことはない
と言うことかもしれない
 
残された友人はただ
薄暗い電灯の下から
ふと泥のような顔を上げて
曲がった指で指差すだけだ
見ろ あいつが出ていったあの場所に
扉もなければ窓もない
 
 (もともと基督など信じていなかったのだ
  ということにすれば辻褄は合う
  だがどうしても合わないものがある)
 
自殺がどんな腹いせで
どんな恨みに基づいていようと
自殺者がどんな病気で
どんな不幸な目にあったのであろうと
自殺はいつも一つのことを告げてはいる
生きたかったと
 
 
「彼は天国へは行けない、自殺したから」という台詞を見たのは、外国の映画かドラマでした。
 
キリスト者でも、自殺する人はいます。まず、そのことを事実として冷静に受け取って考えることが必要です。私たちとしては、何によって、この地上に命を持ち、この世に繋がっているか、考える機会とするしかありません。
 
「彼は天国へは行けない、自殺したから」という言葉には、彼は自殺したから天国に行けない、ということだけでなく、自分は自殺していないから天国に行ける、という信仰の比較と、自分の優位性が含まれていることを忘れてはいけません。映画においては、表すべき別の意味や目的があったかもしれませんが、一般に、信仰の弁えにおいて禁句であります。
 
自殺は、ある日、突然、ある人が、存在を拒んで、あらゆる関わりを断って、この世からいなくなることです。原因は、推測するべきこともあるでしょうが、その人がどうなる、などと言うことを考えても仕方のないことです。私たちは、それを知るとき、なお、地上に生きているのです。
 
既遂の自殺者には、この世から差し伸べる手も足もありません。全面的に、神に任されているのです。できることは、自殺に至る苦しみを思いやり、神の愛と寛容によって、その人が救われるように祈ることだけでしょう。
 
自殺する人は、最低限の生きる条件が満たされないと思ったのかもしれません。そして、それは贅沢な条件ではなかったかもしれません。でも、中には、自殺する人は、殆ど、生物学的に、衝動的に、自殺する場合もあるようです。
 
心理的に追い詰められて自殺する場合、何らかの引き金になるようなことがあるのかもしれません。希死念慮が続いているときに、冷たい言葉や処遇が、重ねて向けられるとき、希死念慮から自殺念慮に、さらに自殺衝動から自殺企図に変わるのかもしれません。自殺が、間接的に、他者からの言葉や処遇による他殺のようなものになっている場合もあると思いますが、多くの場合、その詳細は分からないままのようです。
 
ということは、逆を考えると、温かい言葉や、今日一日分の、物質的、かつ、精神的な支えがあれば、多くの自殺念慮は、防げるのかもしれません。自殺は、誰も自分に関わらない、また、誰にも自分が関わりが無い、という、絶対孤独から生まれてきます。
 
絶対孤独からの解放は、キリスト信仰の大きな恵みですが、それだけでなく、崖っぷちにおいて、心ある他者の介入によっても、解放される余地があるということでもあります。
思い出した聖句と、私の意見としての説明ですが、
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20-21、新約聖書)
 
信仰は、神と人との関係です。しかし、キリストは、神の国について、私たちのただ中にあると言っています。ただ中、とは、心の中のような気もしますが、もう一つ、信仰が、神と人の関係であるなら、人と人の関係に表れることもある、という意味かもしれません。
 
だから、私たちは、自他の窮地において、私たちの信仰は、神の国を、垣間見たり、垣間見せたりすることがあるのかもしれません。キリストは、超常の天国ばかり夢見るのではなく、「あなたがたのただ中にあるのだ」という言葉で、神の国を、むしろ、人と人のの関係の中に表すことを、求めておられるように思えます。
 
キリストご自身が、誰よりも、人間ひとりひとりと、心を通わせる御方だからです。
 
キリストのようには、いかなくても、やさしさを装う偽善者の社交の丁寧語ではなく、人間として、本当の心から溢れてくるような行いと言葉を、人として学び、磨いてゆくことが、いっそう必要だということなのでしょう。
 
 
(2019年10月13日)
 
 
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