珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

人間ちゃんのおすわりについての覚書|二足歩行が出来ることを他の動物に自慢するためにずっと立ってる説

人間電動ドリル

例えば極限の疲労とか、抗いがたい気圧の変化などによって、この肉体を地中深く、足元の地面へ引き摺り下ろさんとする力が働いたとしても、我々は真下に向かって倒れることは出来ない。ウム。我々が倒れるとしたら、前か、後ろか、もしくは左右に向かってである。その場にしゃがみこむことは真下に向かって倒れることに限りなく近いが、真下に向かって倒れることそのものではない。真下に向かって引っ張る力に従って真下に向かって倒れようと思ったら、「真下」という性質上、我々は直立の体勢を維持していなければならない。しかし、「倒れる」という性質上、我々は何らかの形で肉体を崩折れさせなければならない。直立の体勢で崩折れる、なんて器用なこと我々には出来っこない。だから、我々はいくら真下に引っ張られようと、真下に向かって倒れることは出来ないのだ。ウム。何言ってんだ?

 

もう死ぬゥって声に出して言えてるうちは大丈夫って母が言ってました

しかし考えてもみると、疲労感、あいつらはいつも決まって真下に向かって我々を引っ張るではないか。いっそ前や、後ろや、左右に引っ張ってくれさえすれば、我々は気軽に倒れることが出来るのに。病は我々を前や、後ろや、左右に引っ張る。一方で疲労感は真下へ向かって我々を引っ張る。人間、「クッソ疲れた死ぬゥ」くらいじゃ倒れないように出来てるのが正直納得いかない。「あっ白黒さんまた電池切れてるよ」くらいの気軽さで、もっとパタパタ倒れて、それで1時間後くらいに起き上がって、気まずい思いをしながら日常生活に戻るくらいの、それくらいの「倒れやすさ」が人間に欲しい。疲労感に襲われた人間がそこらじゅうに転がっていて、それを誰も気に留めやしない。そうなると本当に危機的状況でぶっ倒れている人との区別が付かなくなるのが難点だが、人類が皆気軽にパタパタ倒れられるような生き物になったのなら、本当に危機的状況で倒れている人間は全身が発光するとか、それくらいの進化は遂げていることだろう。道端に転がっている人間の中に光っている人がいた時だけ、救急車を呼べば良いのだ。

 

人間!おすわり!

どれだけ真下に向かって引っ張られようとも、倒れることすら出来ずに頑張って頑張って頑張って踏ん張ることを強いられている人間って一体何なんだろう。動物の生態には詳しくないから知らんが、大抵の動物は修羅場でもない限り、自分の身体が真下に向かって引っ張られたときはちゃんとおすわりすると思う。おすわりでも間に合わないときは、その場にごろんと転がるのだ。一方、人間が自分の身体を真下に向かって引っ張る力を感じてその場にごろんと転がったら頭のおかしいヤツ扱いされるし、それどころか一時的なおすわりでさえ周囲から心配されれたり不審がられたりする。なんでや。猫ちゃんはそのへんでおすわりするやろ。人間ちゃんもおすわりしてええやろ。現状では、人間ちゃんがそのへんの道でおすわりしていたら通りすがりの知らない人から大丈夫ですか?と声を掛けられることもある。やさしい世界。まあ、それ自体は良いのだ。本当に危機的状況でおすわりしている場合もあるだろうから。だからこう、バイト休憩中につける「休憩中」のバッジみたいな感じで、頭上に「おすわり中」の表示を出しさえすれば、いちいち声を掛けられることなくひとり静かにおすわり出来ると良い。とはいえ、三毛からハチワレまで、野良猫が至るところでおすわりしているのは微笑ましいが、学生からリーマンまで、人間が至るところでおすわりしているところを想像するとキモい。早く価値観が是正されないかなあ。

 

ボーナスステージ

肉体疲労がわりと限界なんですがあと1日働けば休みだがんばるぞい あと8日働いたら休み

 

 

f:id:shirokuro_044:20201120115004p:plain