石ころ

神が鍛える本当の子(ヘブル12章)

 

訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。(7~8)


神さまは愛する子を放って置かれない。試練によって鍛え上げ、みこころを成す本当の子とされる。訓練によって聖さに与るのはそこに服従があるからである。それは神さまに、義による行為と認められ、新しく造り上げられて行くことである。


すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(11)


神が人の人生に介入し、がっぷり四つに組んで世で稽古をつけてくださる時なのである。
神さまはキリスト者の一人ひとりに、いつも真剣に向き合ってくださる。御子を十字架にかけて、いのちをたまわったほどの真剣である。


世のすべての問題の中で絶えず見張り、時に叶った助けを準備して訓練してくださる。
ヘブル11章にある先人の評価のように、私たちの本気も、きっと少し甘い御父の評価によって、義の実をつけさせてくださるのだろう。


また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです。
すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。(13~14)


私たちの真っ直ぐな道とは、イエスのことばを歩むことである。永遠に変わることのない約束のことばであり、如何なる権力も手出しすることのできない不変のことばである。
その事実の現れは、何に信頼して生きるかということ。神さまは、私たちが信頼しているものに任される。キリストのことばに信頼しているなら、その御真実によって成就する。


誰にでも、うちに居られるキリストに在って交わるなら、そこには平和の望みがある。
誰の前であっても、どのような扱いの中であっても、その存在がみことばに根ざしているなら、すべてがキリストを証しする。
不動のみことばに安息する聖さこそ、うちに居られるキリストの現れであるから。


あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。(イザヤ30:21)


不信仰はみことばを持たないことに発する。目の前に現れた世のチャンスや、世の賢さに飛びつく時には、みことばを持たず主を蔑ろにしていて、その浅はかさはサタンになぶられることになり、世の笑いものとなってしまうのである。


絶えざる主の交わりの中で、日々みことばを聴き続けることは、今日のための、みことばの剣を腰に差しているキリスト者である。主の訓練は、このキリストの聖なる戦士を仕立て上げるためである。


あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。(22)


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