石ころ

「今日」新しく聴くことば(ヘブル4章)

 

神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。
福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。(1~2)


荒野で死んだ人々から、私たちは神を恐れることを学ぶ者である。福音を聞き続けていても、それが日々のいのちと成らないなら、彼らと同じ道を歩むことになる。


信じた私たちは安息に入るのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。(3)


神はご計画された時にそれはすべて完成している。創世記から黙示録まで・・私たちはそのご計画を現して行く者である。なんと平安な道だろう。なんと神との深い交わりの中にある者だろう。


というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた」と言われました。(3~4)


すべての不信仰は、神が良い方であることを知らないことであり、救いを完成されているキリストの御わざに安心しないことである。
信じて感謝しないから安息がないのである。自分の納得のために、あれこれと付け加えて完成しょうとすることは、神の完全な福音を汚す。


此処に安息はない。いったい人から神に通用する程の善いものなど出てこない。そのことに絶望した時、その弱さの中に働く神の力を知ることになり、すべてを完成させてくださる主を心から礼拝して、福音の前に自分のわざを完了させてひれ伏すのである。


こういうわけで、その安息に入る人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえに入れなかったのですから、
神は再びある日を「きょう」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。(6~7)


憐れみ深い神は忍耐をもって、不従順な私たちにチャンスを残していてくださる。
それは今日であり「知っている」と言わないで、その知識を脇に置いて、新しくみことばに耳を傾けるなら聖霊が語り出してくださることばを聴くようになる。


朝毎に、昨日と同じことを繰り返すことではなく、明日もまた同じだろうという日ではなく、主に初めてお会いする新鮮なみことばを待ち望むなら、乳飲み子のように主から流れてくる温かいみことばを口に含むことが出来る。それは主が備えてくださった「きょう」である。


今日は生ける救いのことばに出会う日であり、その聴いたことばによって成長する日であり、感謝と喜びの新鮮な日、感動のうちに近しくキリストを覚える日である。それは、昨日と同じではなく、明日もまたこうだろうという日ではなく、私たちは日々新しい喜びをたまって成長することは神のご計画である。



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