石ころ

えこひいき(ヤコブ2章)

 

私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。(1)

よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。
それなのに、あなたがたは貧しい人を軽蔑したのです。あなたがたをしいたげるのは富んだ人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。(5~6)



えこひいきする心は世の価値観から出ており、頼りとしているものが何であるかを現している。しかし彼が頼りとしているものは、頼る人々を支配する立場にあり、搾取することで富を得た者である。憐れみを取り繕うことがあっても、貧しい人や無学、弱さや、愚かさを持つ人の友ではなく、彼らはイエスさまと真逆である。


何を重んじているかは何気ない日常の行動となって現れる。キリストを愛する人は、キリストの愛している人を愛し、キリストが友となられた人を友に選ぶ。
それは、心に植えられたキリストのことばから、芽生えたことであり、みことばが成長してみこころを行うのは、主が備えられたことである。


あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名をけがすのも彼らではありませんか。(7)


人が権力を持つと神のように考えたり、振る舞ったりするようになり、神さまを蔑ろにして御名を汚すようになりやすい。
貧しさや弱さにある幸いは、恐れと謙遜をもって主に聞き従うことが易しく、小さなことも祈りに頼る者は、生かされてあるすべてに喜びや恵みを味わっている。


洗濯物が乾いても、細切れ肉がたまたま美味しくても、足の痛みが無くなって歩けることも嬉しく、平和なまどろみから目覚めた時は、感謝が心から染み出して来る。
平凡な日々の繰り返しの中で、細やかな一つひとつに喜びを覚えるのは、誇るべき余計な物を持たない恵みである。


律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。(10)


律法をまっとうして救われる人はいない。律法を完全に行った「人」はイエスさまだけであって、キリストのみことばによって救われるのである。完成されたキリストのうちに在る者が救われるのである。


自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行いなさい。
あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。(12~13)


キリストの十字架のあがないによって赦された者は、罪ある人の弱さと愚かさを憐れむ主によって、信仰に導き入れて頂いたのである。それは賜りものである。
すべては恵みに拠ることであり、それゆえ、赦しの喜びを分けたくてキリストを語り続けるのである。ただで頂いた永遠のいのちの恵みだから。


キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。(ローマ8:2~3)


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