新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

プラモデルの断捨離

2022-02-24 18:51:14 | 新日本意外史 古代から現代まで
老生、男の終い支度として、身の回りの物をほとんど捨てた。
その中に趣味で作ったプラモデルが数百点在る。これも業者に綺麗さっぱり全て引き取ってもらった。
プラモデルなどというシロモノは興味のない人間にとってはただのプラスチックの厄介なゴミにすぎない。
ただ、比較的印象に残っている作品は画像としてクラウドサーバーにUPし保存してある。
これはその中の一点だが、当ブログの「小難しい文章」の合間の一服としてお許しいただきたい。
武器はどんな綺麗ごとをいっても紛れもない「殺し道具」でしかない。しかし小は拳銃やナイフから戦艦大和まで、その機能と美しさが一致した究極の造形美は事実であり、なんとも不思議で皮肉な人間の性(さが)である。
なお、作品のほとんどはリアルさを追求する「汚れ技法」は使っていない。武器が綺麗だということは、戦争がないということだから。


ハリウッド映画 『黒い司法』

2022-02-13 17:29:41 | 新日本意外史 古代から現代まで




   ハリウッド映画 『黒い司法』


 先日CATVで、ハリウッド映画 『黒い司法』を観た。数ある「冤罪事件」を扱った実話映画である。
民主主義先進国であるアメリカの闇を抉った傑作。日本も冤罪事件は多く、警察官や検事、裁判官にも「教材」として観てもらいたい。


 正義は真実からしか実現できないという強力なメッセージが込められている。
そして主人公弁護士と、死刑囚の「諦めない強い心」が結局勝利を勝ち取る。
この映画は、観る者の怒りと人種差別の不条理を増幅させ、死刑囚の悲哀に滂沱と流れる涙と慟哭が止まらないだろう。

“黒人であること自体が、罪になる”。2020年2月28日に公開された映画「黒い司法 0%からの奇跡」は、そんな“いともたやすく差別が行われた信じがたい事実”を題材としている。
物語の主役は、有力な証拠もないのに死刑囚にされた黒人と、彼を救うため戦い続けた黒人弁護士。怒りすら覚えるような冤罪事件が背景にあるが、
物語には重苦しい絶望を振り払う逆転劇が備わっており、見るや爽快な希望の灯が胸にともる。これは“0%”を覆した不撓不屈の男たちによる、奇跡の実話である。
以下に 映画ドットコムのURLを記してます。
興味のある方は観ていただきたい。

 https://eiga.com/movie/90684/special/



古代史擬  延暦の日本三十八度線

2022-02-05 17:09:48 | 新日本意外史 古代から現代まで


         古代史擬
    
   延暦の日本三十八度線



 箱根山を境に日本列島を二分したのは、なにも徳川家康が嚆矢ではない。
彼は箱根を境に東は「金本位制の四進法」、西は「銀本位制の十進法」と一国二貨幣制度を作った。(「箱根の山は天下の権」に詳細)


宝亀十一年つまり七百八十年。
 陸奥の上治郡の俘囚(日本原住民)が蜂起して、伊治の砦にいた占領軍の紀の広純を討ち、武器食糧を奪還すると、すぐさま、
 「それッ西へ……失地回復するのは、このときしかない」と雪崩をうって攻めこんだ。


この時期、継体王朝系の藤原仲麿が勢力を伸ばしてきてから三十二年たち、弓削道鏡が東へ追われ十年目のことである。
翌七八一年は、「天応元年」となり、次の八二年には、「延暦元年」となって恒武帝の世となる頃のことなのである。


だが、エビス、エベス、エソとよばれ、エの戸(江戸)以東へ追われていた、アマのつく天の王朝系や騎馬民族で、新しい王朝へ国譲りのため疎外され追われていた者らの子孫は、
「エの戸を破って西討せん」と、今の神奈川県から静岡まで必死の進撃を続けてきた。
 のち藤原体制が確立されると、彼らは、蔭の民となり差別され、さながらアメリカでの白人騎兵隊に、討伐されるインデアンみた卜な存在になってしまい、西国人より、「東えびす」と、東国に居住の者はあくまでも卑しめられるようにもなる。
しかしてある。もともと、エビスというのは、パンダが棲息している笹の多い沿海州から北満では、「女性自身」の呼称なのである。
仁徳王朝について南鮮クダラからきた人々が、捕虜にした女たちを売春婦扱いして、エビスとそのものずばりに蔑称したのが、後に一般化したらしい。


 いまは、また復活し「エビスビール」として出廻っているが、シベリア出兵時代に、「エビスビール」の名で輸出しだのが、原地の人に、その名を忌まれて一本も売れず、みな零下三十度で瓶が破裂し、サッポロビールに名を変えたのは半世紀前の事である。
 が大正時代では、もうエビスはエビスさまといった七福神の一つになっていて、縁起のよい名称と思って増産送荷したらしいが、向こうでは今でも女の隠し所をいっている。    
 だから、さぞ塩っぱいビールだろうと一本も売れなかったままでの事だが、日本の歴史家は京都の人のように、知っていながら知らないそぶりだろうが何もいわない。本当のことは書かない。


 だから、エビスの名でまたリバイバルされたのだろうが、さて七八〇年から七八二年にかけてどんどん東北から集団で西国へと進攻してきたエビス軍は、
 「田子の浦」の名で今はよばれる辺りから、「三保の松原」にかけての清見が関で、必死になって木柵を作って拒む相手に、せき止められてしまった。
もちろん当時のことゆえ、三十八度線のように直線ではなかった。だから庵原の先の清水よりの辺りを、エゾ共の最後だから、「江尻」の名で呼ぶのは、エビス軍の後尾がその辺りまで溢れていた名残りであろう。
 現在の茨城県の多賀の砦を落とし、そこの弓矢や馬匹や糧食を奪って一の関の連中も、「西国突入」と清見が関へ迫ってきたので、第一線がアキタのアタマロ軍ゆえ、次が岩手の一の関軍でイ、
江刺(のち京では餌刺しとよぶ)のエ、雄勝からのオの四軍が、富士山を仰ぐ地区までアイ(ウ)エオで号令をかけ進出し隊伍を整えた。
が、藤原体制の方は今でも算数というごとく、「イ、アル、サン、スウ」と十進法だが、エビス軍の方はそんな高等数学はできなく、
 「片手の指で、勘定をすまそう」とした。江戸時代まで五人組とか、隊伍を揃えて行列を進めた、というのもそれから来ているのである。
旧帝国陸軍も最小戦闘単位は五人編成で、これの長を「伍長」としていた。
というのはそれからである.また金貨幣制度で、五の内から一を引き、「四朱で一分、四分が両」とする計算法も、発祥は清見が関である、つまり駿河湾に向かって、今でいえば、「東日本人民共和国」を作ったのは、
人口のすくない当時でも十万余はあったと思惟せられる日本原住民である。さて、「西日本に桓武王朝」はこれまで東征、蝦夷とかエビスと呼ばれたのを討伐した事はある。
 だが逆に攻めてこられたのは、初めてゆえ公家共はびっくりし、周章狼狽した。
 そこで本土決戦に備え信州へ大本営を、移そうとした大東亜戦争の時ように、山背国の険である長岡へ、延暦三年には疎開された。七八四年十一月十一日のことである。
 もちろん、西軍がいつまでも日本列島を東西1二して放っておく訳はない。


 歌人人伴家持が亡くなった翌年から車備拡張をはかった。延暦五年の、『勅』によれば、「七月十九日に太政管院をおこし、群臣の中で意見のある者は、身分に係らず発言を許可」した。
 「八月八日に東海道と山陰道へ使いを出し、軍士召集準備、武具の徴集厳令」を行った。


 延暦六年の『勅』では「正月二十二日に令して命ず、王官や百姓らが異俘(エビス、エゾ)と通じ交わったりすれば、利敵罪として罪せられる旨を告ぐ」さらに、延暦七年の『勅』になると、
「東西分離を憂いたまい、比叡山に延暦寺を建立して降伏の祈願をなさしめたまう」ということになり、
「七月六日に参議紀ノ古佐美を召し、征夷大将軍に任命、十二月七日に到りて古佐美が、エゾの勢い強くしてわれ勝つあたわずと、清兒が関より戻ってきて解任を奏請するのに、
東海道より進まず富土山の裏側の道を行くべしと、殿上に召し征夷の節力と勅を賜う」となった。


 つまり東日本エビス軍の裏をかき、東山道から現在の茨城へ五万の軍をすすめたのである。延暦七年の『勅』は、それゆえ、
 「三月九日、諸国軍を多賀城に会さすは、そこより叛賊の本拠地をつかしむ為なり」
 「六月三日、されど紀ノ古佐美より戦況を奏上し、芳しからざる旨を報告しきたる」
 「七月十七日、征夷大将軍古佐美へ、賊が頑強なるも撃ちてしやまむと激励の勅を下す」
 といった具合であったが、男たちは清見が関へ出動し平泉に居たのは女ばかりだったので、五万余の西軍は、なめてかかってひと息に攻めかかったらしい。
 しかし女将と書いてオカミと今も呼ぶことく、エビス軍の女たちは勇敢で強かった。
 「山へ行けば草むす屍、五万余の男子にて生きて戻るは者は算えるのみと、九月八日に征東大将軍古佐美帰還し、節刀を戻し処分をまつ」と出ているが、十日後の『勅』では、
「勅使、古佐美の許へゆき、やむ得ざることと、その敗戦の罪を免ぜらる」とある。
 これでは仕方がないから、大敗した西日本軍は、「征夷のため延暦九年三月に畿内で革甲二千領、四月には九州で三千領の割り当てをし、十四万石の軍食の供出を天下に布告をなす」
 「翌延暦十年三月二十六日には京畿七道へ、追加の革甲の増産を命じられ、十月二十五日には征矢(そや)の大量供出を下命。十一月三日には十二万石の軍糧の追加供出を厳命」と、
 いわば国家総動員法を発布されて、東海道軍は清見が関を強行突破。東山道軍は裏から進んで日本原住民のエビス軍を破ったのである。そのため、
 「延暦十三年十月二十二日、長岡より平安京へ戻られる。この年八月に『続日本紀』できる」という結果にやっとなれたのである。
大陸勢力にとっては、めでたしめでたしであったろう。


北のミサイルはアメリカ製か 武器から見える国際情勢の裏 

2022-01-28 18:04:28 | 新日本意外史 古代から現代まで
    北のミサイルはアメリカ製か
  武器から見える国際情勢の裏
アメリカの本質を見誤ってはならない

  
 
 今回は、国際軍事に精通する、危機管理ジャーナリストの丸谷元人氏の記事を引用しての紹介です。


 2022年に入ってから、まだ1ヶ月も経っていない今日までの間に北朝鮮は4回(計6発)のミサイルを日本海に向けて発射しました。
防衛省は、一番最近の17日に発射された2発の弾道ミサイルについて、2019年3月などに発射されたものと同じ型の短距離弾道ミサイルとみられるとし、
北朝鮮の軍事動向について引き続きアメリカなどと緊密に連携を図りながら日本の平和と安全の確保に万全を期すと発表しましたが…
このミサイルはアメリカの短距離弾道ミサイルである「ATACMS(エイタクムス)」にそっくりだったようです。
日本を守ってくれるはずのアメリカがまさか北朝鮮にミサイルを供給しているとは考えたくはありませんが、どうやら、国際社会においては、そのような生優しい期待は通用しないようです。

2019年に北朝鮮が発射したミサイルについて、軍事専門家の方や防衛省の出身の先生が「あれは完全にアメリカ製だ」「いや、あれはアメリカの兵器に似ているけれども、違うのだ」
と各々に分析されていますが、問題はアメリカ製にそっくりなミサイルを、どうして北朝鮮が持っているのかということです。
ここまで酷似しているということは、 やはり技術をしっかり盗んでいる、そうでなければ、誰かが供給しているということになるでしょう。おそらくは、アメリカ製だったのでしょう。
なぜなら、私にはこのような精巧なミサイルを北朝鮮が自国で作り出せるとは到底思えないのです。
なんせ、巨大な軍需産業を持つアメリカやロシアが何千億円もの設備投資をしてやっと作れる代物です。
それをどうして、鳥取県や島根県と同じくらいの GDPしかない北朝鮮が年に何度も景気良く花火のように打ち上げられるのでしょうか。
すると、誰かが後ろからそれを提供しているのは間違いないわけなのです。
「風が吹けば桶屋が儲かる」ということわざがありますけれども、「北が撃てばアメリカが儲かる」ということなんではないかと思っています。
北からミサイルが飛んでくると、韓国も日本も一生懸命になって「イージス・アショアを買わなくては、○○ミサイルシステムを買わなくては」と言って、何千億円規模の高額な防衛システムを言い値で買ってくれるということがあるので、
何か関連性はあるのではないかと見ています。そして、おそらくこういったことが、国際政治の裏側にある本当のところに近いのだろうなと、私は個人的には思っております。
また、これだけ人工衛星が発達している中で、こんなに大きなミサイルの輸送を発射直前になるまで、本当に誰も察知できないのかという疑問もあります。
ロシアや中国の国境から鉄道か何か、もしくはトラックで、こんなに⻑いミサイルを 運んでくるわけです。
「当然それを察知できるのではないか」と思うのですけれども、そういう話は出てこないのです。
普通に報道を読んでいますと、「北朝鮮がミサイルを撃った」といきなり書いてありますが、そもそも、"なぜそんなミサイルを撃てたのか”ということなんです。
日本の報道だけ見ていれば「北朝鮮というのは閉ざされた国だ」と思ってしまうかも知れませんが、そう思っているのは、日本人くらいの話であって、
実際は、世界中の百何十カ国とも国交を持っておりますし、大使館も持っておりますし、
年間何十万人ものヨーロッパ系の外国人旅行者を受け入れておりますし、結構いろいろとやっているのです。
その平壌空港を経由して旅行していた人から、「平壌空港で日本の横田基地行きの飛行機の案内が出ていましたよ」という発言が何年か前にありまして、実際に私も写真を見ました。


「横田と平壌の間をつないでしまっている飛行機があるのか」と思いましたけど、横田基地というのは日本の領土ではなく、カリフォルニア州だそうですから、厳密に言えば 日本の領土ではなく、日本に文句を言う資格はないのです。ただ、「そういった飛行機でいろいろな部品を運んでいたりしなければいいな」 と思うばかりです。
【注】この項を書いている1月27日にも北朝鮮はさらに二発のミサイル発射をしたとニュースは伝えている


(以上引用終わり)


武器から見える裏の国際情勢

武器から見える軍事支援の出元



 日本のマスコミは情報の取り方も、本質的な分析能力もない。国内では警察発表や官庁発表情報の垂れ流し。
海外情報は、ただ共同通信の配信を垂れ流しているに過ぎなく、テレビ局の解説者も、コメンテーターも、元大使だとか、元外務省審議官などの肩書でしたり顔で解説しているが、
全く皮相的で「情報リテラシー」能力はゼロに等しい。だからこんな連中の話は信じられない。
さらに、日本は「学術会議」問題で明らかになったように、学者の軍事研究はタブーの為、軍事や武器の話題はタブー視され、民間人のモデルガンやエアーガンの趣味さえも危険視され肩身が狭くなっている。


 ここでマスコミのテレビニュースの例を一つ二つ紹介する。
アフガニスタンで米軍が撤退した後、勝ち誇った過激テロ組織イスラム国兵士の映像が流れた。
驚いたことに彼らの武器(ロシア製AK47や米軍M16が混ざっている)も、迷彩服も米軍御揃いだった。まさか撤退する米軍が「どうぞお使いください」と、置いていった訳はない。
また忘れていったのとも違tう。何処かの誰かが裏で支給しているのである。
ニュースはこんな判り切った不条理さには全く触れない。


 さらに、2012年パキスタンの中学生だった少女、マララさんが学校から帰宅途中何者かに襲われ、頭部に45口径拳銃弾二発を喰らい重傷だった。
この弾は射入孔から射出孔を経て貫通はしない。脳内に留まりもしない。弾が当たった瞬間、頭は吹き飛び即死状態になる。映画と違いこれが実態なのである。
 ケネディ大統領暗殺時の映像でも、頭部にライフル弾が当たった大統領の脳漿が飛び散り、妻のジャクリーヌが必死に後部ボンネットに散らばった脳味噌を搔き集めていたように、悲惨な状態になる。
しかしマララさんは二週間も経たず退院して元気な姿をテレビに晒していた。45口径とは11ミリもある弾丸で、おそらく至近距離だったろうから、頭は完全に吹っ飛んで即死になる。
この奇怪さに気づかず、疑問も持たずただニュースを垂れ流しているのが日本のマスコミ。欧米のマスコミはこんなことは無い。
軍事や兵器音痴のこれはマスコミに限ったことではなく、日本全体の深刻な問題でもある。こんな国が中国と戦うなどは悪い冗談なのである。


 さて、丸谷氏指摘のように、アメリカは陰で何をやっているか判らぬ陰謀と謀略の国でもある。(アメリカに限らず、昔からアングロサクソン系やスラブ系は謀略の得意な国である)
アメリカ一辺倒、安保頼みに骨がらみの日本は、アメリカを信じ込んでいると、とんでもないことになりはしないか。
太平洋戦争で、日本は完膚なきまでに叩かれて敗戦し、骨抜きにされ「復讐」の観念を忘れたのか。
やられたことは忘れず、何時かはそのお返しをするのだ、という強固な復仇の意思は絶対必要である。


 戦時中東京大空襲で無辜の民を一夜にして10万人以上殺された。木と紙で出来た日本家屋を燃やすため、焼夷弾を発明し、焼土と焼人作戦を徹底した。
B29爆撃機乗員は、高度一万メートルまで立ち上る人肉の匂いが染み付くため、機体を入念に洗浄せねばならなかったし、ガスマスクを装着しなければ任務に当たれないほどだったという。
東京の下界はまさに阿鼻叫喚、人肉焼肉状態の地獄図だったのである。
 さらに、広島長崎への原爆投下でも、現在までの両市の死亡者数は合計48万人以上にもなっている。
敗戦目前の日本に原爆投下の意味は全く無く、あれは紛れもない「人体実験だった」のである。
敗戦後も欠陥憲法を押し付け、徹底的に搾取したのはアメリカだったことを忘れては困る。そしてアメリカは何時裏で北朝鮮や中国と手御握るかもしれない狡賢い国なのだ。


 今回の、沖縄や岩国米軍基地から漏れ出た武漢病毒悪性肺炎(新型コロナ、オミクロン)の蔓延を日本政府は止めることはできなかった。
これはアメリカ有利の安保条約と、日本を見下した地位協定のせいである。アメリカは未だに日本占領軍のつもりでいる。「日本を守ってやってる」と軍上層部も末端の兵も思っているのである。
しかし、軍政は米軍のものだが、民生は日本政府に在る。各基地の米兵が外出する際、機動隊でバリケードを作り阻止する強硬策も取れた。
 また、米兵が立ち寄る歓楽街の閉鎖、日本人基地従業員が基地に入ることを禁止することもできた。こうすれば武漢病毒悪性肺炎の蔓延は防げたのである。
これくらいの強硬策で日本の厳しい姿勢を示し、「ガタガタいうなら安保条約破棄も辞さないし、中国やロシアと慇懃を通じることもあるぞ」と、ロシアが望む「平和条約締結」も選択肢としてあるのだぞ。と、
明確に米国政府に伝えるのである。私が総理大臣ならそうした。

 今や日本は「誰からの情報を信じて良いのか」「どの情報を信じて良いのか?」こうした疑心暗鬼状態が現状なのである。
だから国民一人一人は、信頼できる情報、事実に基づいた情報を見極める力を身に着け、怜悧な耳目を鍛えなければならない。

(注) 画像で世界各国のテロ組織や反体制組織のシンボル画像をUPしておいたが、バックに描かれている銃を見れば(AK47とM16)裏で暗躍している国がロシアなのか(KGB)
アメリカなのか(CIA)またその下請けの武器商人なのかは、およその想像はつく。これが「武器から見える裏の国際情勢」であり「武器から見える軍事支援の出元」なのである。



日本人の祖国は何処か?  山田長政の目的

2022-01-12 10:03:28 | 新日本意外史 古代から現代まで
             


     日本人の祖国は何処か?


    山田長政の目的



 「よく似ている、日本人にそっくりだ」と、ベトナムからタイやマレーシアへ行くと、びっくりしたり感慨を誰しもうける。それに感心させられるのは農村の水田耕作の方法である。
 朝鮮や中国方式でない日本の水田は、何処の国からの伝承かと首をひねる人も多かろうと想われる。
 しかし松林が続く風景や、杉木立などに包まれた周囲を見渡すと、まるで日本内地のおもむきがあるのも、丹念に見直すと日本の野山にあるのと同じ雑草が、ここにも生い茂っているせいであるらしい。


 もちろん何故に同じ植物が繁茂しているかは、どちらかの種子を人間が持ち込んだせいだろう。が、もっと驚かされるのは、そうした山間地で今もみられる男子の風俗である。
 日本そっくりな木立の中で、また同じ恰好の人間をみては、誰しもが成程とうなずかされるものがある。なにしろ日本式の六尺褌が、ここでは今でもまかり通っているからである。
 まあ考えてみれば昔はタイ、ベトナム、カンボジアからマレーシアまでが、「シヤモロ」とよばれる一大版図に入っていた。だからでもあろうか、日本では、「軍鶏」とかき「シャモ」とよぶのは、
今もサイゴンあたりのバザールで売られている痩せこけた南方産の鶏なのである。つまり北海道のアイヌ系のひとが、内地人のことを今日でさえ、ひっくるめて同じに、「シャモ」と、ずっと呼び続けているのも、
やはりそれなりの訳があるのであろう。


 これは、かつては東北地方から北海道にかけて群居し繁栄していた彼らが、次第に追い詰められ弱少民族になってしまったのは、シヤムロから渡って日本列島に住みついた部族に、迫害された結果とみなしている為らしい。
さて日本史では、天皇家の系列を、「神皇」と「人皇」と分け、神武さまから人皇としているが、今ではコトクニシラスノミコトと申しあげる崇神帝さまを、人皇の第一代とする傾向が歴史学者の中には強まっている。


 そして崇神帝のお伴をして沿海州や北鮮からの者たちのことを、騎馬民族とみなしている。江上説では、南鮮のミナマから日本列島へ入ってきたことにされているが、現在もロシアのハバロフロフスク民俗史料館の正面入口に、
笹りんどうの大きな民族章がレリーフになっている。学校では、「馬乗半島」とかつては当て字をして、マレーシアとマレー半島のことは教えていた。
 それゆえ、ベーリング海から入ってきた北方民族の筈の崇神王朝が、南のベトナムやマレーシアから入ってきた、みたいにされてしまった。さてマレーシアに、二コバルとよぶ土地がある。


 かつて大東亜戦争のときに、まっ先に日本軍が占拠したので知られているが、「アレキサンダー大王が東征したとき、アラブの首都スサを陥落させた。ヤサカの川の上流GIONの神を奉じたスサの民らは奴隷として、
スメラ山脈の聳えるアラブのペルシャ湾から、当時ギリシヤ植民地になったばかりのマレーへ持ってゆかれた」といわれ今でも、学校教科書の地図をみれば、南支那海に面した右半分はバハン州となっているが、
ポルトガル領時代までは、「バハン」と全体が呼ばれていたのである。日本でいうところの八幡船のバハンである。


 「日本の水田耕作法」が大陸の影響ではなく、西南アジア型である不思議さも謎ときできる。
 そして日本の農村や山村の風景そっくりな眺望が、ベトナムやカンボジアでみられるのも、成程なあと納得できるであろう。椰木とか象といったものを取ってしまえば、まるっきり日本とは変らない風物だし、
今ではアメリカの爆撃で跡形もないが、かつて、ツラーヌにあったチャンパ博物館には、巨大なリンガがあるので有名だが、日本式の鋏や庖丁も陳列してある。
 俗説の八幡船は、壱岐対馬から中国の沿岸を襲ったとする。だが、日本から中国へ季節風が吹くのは東北風の冬の間だけで、素裸で裸ひとって行けるのは南支那海に面したバハンからでなのある。


 マレーシアからなら中国は西南に向かっているゆえ、冬でも赤裸ひとつで寒くなく行ける。つまりベトナムやタイの山間民族が、六尺褌一本の姿が外出用である謎もそれでとける。
 マレー半島のニコパルが、かつてアレキサンダー大王によって、スメラから連れてこられたスサ民族の集結地で、そこから海流にのって、「逃亡奴隷」とし、彼らが日本列島へ渡った原点ゆえ、
日本軍はそこへ上陸し、おもむろにシンガポールを占領したのである。


 つまりアラブ語の水をさすアワや、シャムロ語でのアックワが、黒潮暖流の進路の地名にも今はなっている。
つまりベトナム、カンボヂア、タイ、マレーシアの住民が、よく日本人に似ているのは、「アマの民」とか「アワの民」とよばれ神話の世界へ、アメの何とかのミコトとかの称号で、
今ではその歴史も判らなくなっている「天の朝」の人民が、日本列島へ来ていたからであろう。


 どうしてアレキサンダー大王の頃に、洋上を逃げてきたアワとかアマノとよばれた民族の後裔が、広く日本列島に分布したかといえば、彼らは男女ともに漁業や耕作をいとなんでいたせいである。
  もちろん今の史家たちはそうした事実を認めようとせず、江戸時代の鎖国前後の交流だけを重視し、
 「角倉、茶屋、末次、角屋などの朱印船が往復し、向こうの各地に出店を持っていたから、そのため日本人の多くが海を渡って、移住したのであろう」
といった解釈をしているのである。が、それは煙管(キセル)の竹を向こうのラオスから入れて、「羅宇竹」と呼び、用いたとする文献引用からの程度であるらしい。


だがサイゴンの、「大寺院広場」から河への目抜通りへ出ると、ナポレオン三世に占領され、フランス植民地だった歴史が長いだけに、カティナ通りからガルニエにかけては、フランス式の建造物も多いけれど、
ミート鉄道にのって農村地帯へ入ると、やはり東北の山村と見違うばかりである。
 なにしろ中国の黄河よりも長い延長一千五百里のメコンの流れは、今では他国になっているカンボジアをも横断し、首都のプノンペンも、地理的には河の四つ又の地点にあるくらいである。
   アンコールワットの遺や、バンガローホテル前に建つ大宝石塔にも、日本の正倉院御物と相似の物が見受けられるのも興味深い。


つまり水戸の彰考館に秘蔵されている処の、「祇園精舎図」たるや、アンコールワットの見取図であったり、爆撃をうけた遺跡の廻廊壁面に、「加藤主計頭清正森本儀太夫伜右近太夫、寛永九年参拝」といった落書みたいな署名があるのも、
彼我の距離は黒潮暖流にさえのれば、交通は左程まで困難でなかった裏書きだろう。


「実は自分も一六弁の菊紋を、リビア・アラブ共和国のトリポリ博物館の、古代の墓の前についているのを見ました。但し、どういう訳かそこだけは撮影禁止で、
写真をとろうとしたら館員にひどく叱られました」といったのを、弁護士の西垣内堅氏から貰ったが、リビアだけでなくシリア博物館にも、石門の紋章として十六弁の菊紋がある。


 さて話は戻るが通俗史では、天下分け目の関が原合戦や大坂夏の陣の結果、敗残兵というか世に望みを失った浪人が大挙、海を渡って現在のベトナムからマレーシアへ移住し、日本人町を作ったものとされている。
現代では北ベトナム共和国の首都になっているハノイから下ったユエの近くファイフォーには今は残っていないが、アメリカ軍北爆までは屋很葦きの<日本橋>が、川の袂に由来記の立て札をたてて存在していた。


 伝承によると、伊勢白子浦に生まれた角屋七郎兵衛が、ファイフォーに住みつき玩家(グエン)の妻をめとって貿易商として巨富をつみ、日本橋の他に、杉本寺なる菩提寺も建立という。
しかし一般によく知られているのは、前述の「六昆王」となった山田長政であろう。駿府の紺屋の生れであったが、本多忠佐の六尺とよばれる駕かきであって、大坂合戦では手柄があげられず、
くさって脱走して、「安南」とよばれた当時のシヤモロ王国へ行き同地に来ていた日本人を集めて軍団を作り、反乱軍退治に功があって王女を妻としたという。


 なにしろ日本人が海外へ出て、王になったような例は他にないのだから、少年冒険というか立志美談みたいにされて、学校の教科書でも取りあげられ世にひろまっているのである。
 しかし、実際はどうかといえば違うようだ。というのは、時代による価値判断の違いで、まだ大坂合戦の頃は足利時代からの伝統で、「金」はカネではなかった事に起因するらしい。
 関東と違い関西では金は装飾品用には使われはした、だが、貨幣には扱われなかったのである。


 もちろん秀吉も朝鮮遠征に必要の軍需品(火薬)を海外から購入の為、「天正大判」「天正小判」といった金貨を作りはしたが、当時も西日本の銀本位制を抑えていた京の蜷川財閥の迫害でカネにはならず、
勲章のような褒美品になった前例もある。
 「銀やびた銭ならよいが、装飾用の物では」と今から考えると変な話だが、当時の有力大名も、誰一人として味方する者はなく、ただ訳も判らぬ浪人者だげが集ってきて、
 「われらは金銀の為に入城したのではない、正義の為である」と意気がっだものらしい。
大阪落城後、天守閣に在った膨大な竿金や分銅流し金を家康は「なんじに呉れて遣わす」と藤堂高虎に渡した。
ケチな家康としては豪気な話だが、これとて金が「おかね」でないため持て余して高虎へ下げ渡したのである。
貰った方の高虎もやけくそで金の茶釜を作ったのである。

 という事は関東方の山田長政や、多くの浪人が、海を渡って当時のジャムロ国へ行ったその訳は、
 「もはや徳川の世になったも同然である……」と前途に夢をなくし見限つて日本をすて、「新しき天地を求めて勇飛せん」と国外脱出したというのは、
敗れた大坂方の将兵だけでなく関東方の将兵に多かった点でも、納得しかねるものがある。
唐人船が生首を買い集めて、大阪天保山沖に夥しく来ていて、そのづ骸骨をを割らせるために、人夫として集めた山田長政らをも向こうへ連れていったともみられるが、金を問題にすると、また話が違ってくる。


 「せっかく黄金を掻払ったが、此方では使えんそうだから……いっそ海外へ出てしまえ」と金のために海を渡って、シヤモロヘ行ったものらしいとも考えられるのである。
朱印船を出していた津和野藩の亀井家の記録にも、黄金をもってゆき巨利をあげたという記事がみられることからも従来の説は間違いだと想われる。


なお、家康は江戸幕府ほ開いたが、蜷川と約束通り、小田原から東は「金本位制」とし(ビタ銭は全国共通だが一両は四朱、一朱は四分と四進法)
東は九州の果てまで銀本位制(一分銀、銀百匁と十進法)にして、これが明治維新まで続いた。以下に再掲載だが、日本金銀二分法の詳細を記しておきます。

  箱根の関所 

「箱根の山は天下の険」という有名な歌がある。この歌は何のことは無く、箱根に登山鉄道が出来た際の PR用の宣伝唱歌なのである。江戸時代、本当の所はここ箱根の関所は「天下の権」つまり徳川幕府の 国家権力のことだった。
日本は海外旅行をする際、現在と違って昔は出入国管理所で日本円は一万円以上の持ち出しは禁じられていた。
そして余分を持っていれば没収されたものである。
箱根の関所も同じで、現代でこそ「入り鉄砲と出女の禁」とまことしやかに伝わっているものの、これは与太話で、実は徳川体制の出入国管理所であった。

日本は世界にも例の無い、一国二制度製貨幣制度で、西と東では銀本位制と金本位制とに厳然と区分されていたと以前
「手形の由来」に記したが、此処の関所は東下りしてくる者は手持ちの銀は一貫匁以上は関所でオカミに没収された。
そこで余分の銀を持っている者は、どうせ関所で取り上げられてしまうのなら、旅の恥はかき捨てとばかり、
豪勢に使ってしまえと、箱根にさしかかる三島の宿場で(流連)いつづけして、飯盛り女郎の総揚げをして散財をしたのである。
さて有名な春日局は前の夫、稲葉正盛との間に産んだ子供、稲葉正勝を可愛がっていた。
そこで我が子可愛さのあまり、ここ小田原十万石の城主だった大久保忠隣を除封し、阿部正次を藩主にさせた。
これはいきなりやるのもえげつないので阿部はクッションの役目で、その後春日局は家康に頼んで四年目に吾が子稲葉正勝を小田原城主にさせている。
これは小田原が管轄する箱根の関所は膨大な金銀没収ができ莫大な利益があればこそである。


江戸時代の刃傷第二号は、貞享元年(1684)八月二十八日。
春日局第四子正則の子の、若年寄稲葉正休が、ときの大老堀田正俊を刺殺した。稲葉はその前日、
「五代将軍様に春日局のおん血をひく綱吉様を将軍に迎えた功によって、我らは幕閣を左右できる身分になったが、
自分はれっきとした直孫なのに、堀田は外孫を妻に迎えた血脈の者。
にも拘わらず堀田が春日局さまの遺産を独り占めとは怪しからん。ゆえにわしは成敗してくれる」と、父正則の代からの家老どもを呼んで、
頭を下げて言って聞かせ、父正則が小田原十万石時代に溜め込んだ金銀を、
「不公平のないように家中一同に配分し、みなが路頭に迷わぬよう致してやれ」家臣団が動揺せぬようにと手配し、こうして後顧の憂いを無くして登城し、遺産を横領された仇討ちに堀田正俊の胸を一突きにして仕止め、
自分も寄ってたかって斬り殺されている。
つまり殿様が危ない時には、家来は身命を賭しても守るが、その代わり殿も、
「家来が困らぬように責任を持つこと」といったのが、誠の武士道精神であった。
          
    

   「まわし」とは相撲の褌ではない

さて、こうした訳で三島の宿場は次々と散財する泊まりの遊び客で大繁盛し、また大混雑だった。
だから女郎衆も客から客へといそがしくマワシを取るとも言えないから客には「お化粧直しに一寸」といって
別の客のところへ行ったから、現代でも唄に残っているように「三島女郎衆は化粧が長い、化粧が長けりゃノーエ」の唄になって伝わっている。

余談になるが昭和三十年、四十年代のキャバレー華やかし頃も、大店となればホステスは在籍300人とか、500人以上もいて、
売れっ子ともなれば客の指名でホールを忙しく走り回っていた。
この時も彼女たちは別の客から指名が入ると「一寸おトイレに」と言って席を離れたもので、粋人の客は、遊び慣れているので、
マワシをとられているのが分かっても大様に構えていて、野暮は言わなかったものである。これを「粋な男の痩せ我慢」という。

 さて、幕末にフランス陸軍士官を招聘し、旗本の次男三男を野毛山で調練していた部隊を「ノーエ」の唄からとって
農衛隊と呼んでいた。甲陽鎮撫隊と名称を変えた新撰組の土方歳三が協力を乞いに行ったが拒まれた部隊のことである。
 「野毛の山からノーエ野毛の山から谷底見れば・・・・・・」という農衛隊の行進歌は明治大正昭和初期まで流行したものである。