新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

日本韓国の歴史認識の誤り 実証主義的歴史教育が必要

2019-09-14 09:34:19 | 新日本意外史 古代から現代まで

日本韓国の歴史認識の誤り
実証主義的歴史教育が必要


日本に、仏教をもって、この列島へ入ってきた外来者の群れが、既住していた日本原住民を屠って、
完全にここに彼らの勢力を築きあげたのは〈続日本紀〉によれば、天平時代が終ったあと、西暦七八一年となっている。
(この年は、日本年号では、天応辛酉(てんのうしんせい)とよばれ、元日に改元され、その翌年から延暦元年になってしまうような年であって、
この年に英邁な桓武帝が即位し遊ばされていられる)
 そして、この時点から、文武百般の諸様式一切が大陸風に変貌されてしまうのである。
そして以前は模糊としてあまり判らないが唯、この桓武帝以降は、比較的、種々と明瞭になり、〈人物叢書の平野邦雄著〉によれば、
この時の女御は、百済王媛の教法、百済の永継姫、尚侍(ないしのかみ)には藤原継縄の妻である百済王女明信。
武鏡の娘にあたる百済王女教仁、百済王教徳の女の貞香姫となっている。
さて、次の嵯峨帝の女御は、百済王俊哲の貴命姫。宮人女官の尚侍には百済王女慶命。仁明帝のときにも百済王永慶姫と、はてしなくこれが続いている。
つまり俗に系図などで「桓武平氏」などというのは、みなこの系統の後裔らしい。
〈続日本紀〉延暦十年(西暦七九一年)正月十八日の条には、
 「百済王悛哲は、通辞として坂上川村麿ら大軍を率い東海道の掃討に進軍」の記載がある。
 (坂上田村麿は、百済より来日し、時の参議になっていた坂上苅田原の伜で、今でいう二世にあたる)
 この結果が延暦三年に山背国の天険、長岡に移されていた都が、延暦十年七月には、いまの京都へ復帰
し、陶他坊、崇仁坊、安寧坊、停風坊、宣風坊、永昌坊、開健坊、延嘉坊、光徳坊、宣義坊、天寧坊、貴財坊の坊門通りによって形成される仏都の京都が出来上るのである。
そして日本史で言う奈良時代とは、後ろで藤原氏(中国系)が糸を引いていた百済(韓国)の傀儡政権だったのである。
だから当時日本人を見下し「百済人にあらざれば人にあらず」と原住民を差別し、尊大に強権をもつて日本を支配していた。
これがいまだに「下らない」「くだらない奴」「下らないことを言うな」と日本人はその謂われも知らず使っているのでも判るだろう。
当時日本は大陸や半島に比べれば「開発途上国」であり、様々な部族は、争い無く平和に暮らしていたが文化は低かったのである。
半島の三韓時代から(馬韓、弁韓、辰韓)日本は彼らの植民地となっていた。だから日本の古名では、三分割や二分割された呼称が多い。
豊前、豊後。筑前、筑後。羽前・羽後。陸前、陸中、陸後。越前、越中、越後。など日本中がこうである。
神功皇后の三韓征伐というのも、当時の日本が半島へ攻め込むほどの軍事力など有る筈はない。
これは「日本書紀」「古事記」に書かれているので、この二つを金科玉条としている現在の史観では仕方もない。
しかし、記紀というのは大陸勢力の藤原氏が編纂した、藤原氏に都合の良い史書なのである。
実際は唐が半島へ攻め込んで、百済を降伏させ、次に高句麗、新羅と降伏させたのを、隠しこんでいる。
当時の日本に半島へ攻め込むほどの強大な軍事力が在ったはずはない。
また、任那の日本府だとて、三韓の日本での勢力と権益を調整するための「半島三国権益調整所」だったと想われる。
百済王悛哲らによって討伐された我らの御先祖様の原住民たちも、その後、四世紀たつと、やがて、
 「われこそは、この国のミナモトの民である」と、各山地から、馬に跨り白旗をたてて、当時のアルジェの戦いを挑んだ。世にこれを文治革命という。
だから現在、韓国人は秀吉の朝鮮征伐で侵略されたと大騒ぎし、
伊藤博文によって日韓併合されたのだと、強い反発心をもっているともいうが、千三百年前にさかのぼれば、話は、まったくあべこべでなのである。
日本が併合し、膨大な金をかけて当時の朝鮮を近代化しなければ、ロシアか中国の属国になっていたのは間違いない。
日清戦争や、日露戦争も、日本の領土的野心を言うが、当時の大韓が清国を半島に引き入れたからである。
これが原因で北東アジア(清国、帝政ロシア)の地政学的バランスを壊したのである。
韓国は何時も負の部分だけを拡大認識し、「韓国こそが被害者」面をするのは公平ではない。プラス面に背を向ける韓国の姿勢は「貧しい史観」の一語に尽きる。
歴史は良い所も悪い部分の事実をも認め、公平に判断するべきだろう。
徴用工も慰安婦も全くの捏造なのに、「日本悪者」論を世界中に喧伝している。
教育も子供の頃から正しい歴史を教えず「韓国被害者史観」を教えている。
征韓の役というのも、秀吉が、時の大陸系の帝や公卿共をを中国へ移すという計画だった。
言い換えれば、中国や朝鮮勢力を日本から一掃し、元のような原住民が統治する日本に戻そうとした行為なのである。
島流しにすれば済んだものを、そのため北京周辺五か所を占領し、
大陸系勢力の一掃を図ったのである。そのため秀吉は己の新御所として京の十町四方を取り壊し、聚楽第を建てている。
だから当時の李氏朝鮮が治めていた半島を占領する計画など無かったのが実態なのであり、侵略戦争などというものではない。
ただ通行するだけだったのが、朝鮮が明国を引き入れた為、明、朝鮮の連合軍と戦うことになったのである。
だから秀吉は、朝鮮の血を引く大名の小西行長を先鋒にし、加藤清正は今でいう「工兵隊」として朝鮮にわたっている。
小西の部隊などは、同族だから、故郷に錦を飾るようなもので、小西の軍から脱走し、現地で寝返って逆に日本軍に向かってきて、秀吉軍を大いに悩ませたもので、
これを日本史では「降倭」と言っている。
秀吉は渡海して総指揮を執る計画だったが、急死し、この壮大な作戦は幻と終ったのである。
日韓両国民は、もっと素直に過去の歴史を見直して、日本には北朝鮮(高麗)系も韓国(百済)も混血しあって住んでいて日本民族を形成しているのだという事を
理解するべきである。
「人間の群生形態が国家になってゆくのは、風土寒暖や民族の風習によって形成される」とモンテスキューが唱えているように、
日本独特の温暖と寒冷の国土から、素晴らしい文化を発展させて、第二次大戦後の廃墟の中から、世界一の経済大国にもなった。だから、
日本と韓国は同一系であることを認め、互いに親善を計るべきであろう。
最後に、日本の歴史教育の問題点を指摘したい。
だいたい日本の歴史家なるものは、「歴史学」そのものを知っているのだろうかと疑いたくなる。
 十八世紀に入ってヴォルテールが、それまでのスーパーマンや神人や英雄たちの古い話を‥‥歴史とする考えをすてるよう提説し、
「人間の群生形態が国家になってゆくのは、風土寒暖や民族の風習によって形成される」と唱えたモンテスキューによって、
「真実の歴史」こそ「歴史学」であると見直されてから、キゾーは階級制交替発展説。ヘーゲルは弁証法による歴史証明論。
 これがミシュレからトインビーに至る、郷土史学の徹底的解明による専門分野の集成となった、という今日の「歴史学」となり、
その実証的記述法としては、英国のスコットの歴史小説が、レシ(記録体)の元祖とされた。
だからして日本で発行される世界文学全集の類でも、ドキホーテしかり、赤と黒しかり、戦争と平和にしろ、小説が歴史そのものの観を呈し、
歴史を扱っていない文学書はないような有様で、オーギュスタンも、
「歴史、それは歴史小説家の書くもの。私共は彼らの記述に資す方法論を解明するのみ」とまでいっている。
しかし日本には、「時代小説作家」というのはいるが、歴史小説家があまりいない。
こうした現状の中で、日本の大学生には日本史の知識がまるでないといわれている。
特に、明治、大正期の近現代史になるとこの傾向が顕著だという。何故なら高校時代に、日本史を選択しなくても良いというカリキュラムだからである。
これに危機感を覚えた文科省は昨年二月、高校のカリキュラムを大幅に変更することにした。
まず、現行の選択科目で、近現代史を「日本史A」とし、近現代史を中心とした世界史Aと纒て新しく「歴史総合」という科目を誕生させ、
これを必修科目ととするというものである。遅すぎた感は否めないが、一歩前進と言えよう。
日本は戦前は皇国史観一本やりだった。敗戦後は唯物史観が定着してきた。
しかし、学校現場での歴史教育は、鎌倉幕府は何年に出来た、何年に種子島に鉄砲が伝来した、徳川幕府の三代将軍は誰々だった。と
「歴史を覚える」に主眼を置いて、「試験で吐き出す」記憶尊重が酷かった。
学問全般に言えることだが、前記したように歴史は考えることなのである。
「何故秀吉は朝鮮出兵をしたのか」
「何故徳川幕府は鎖国をしたのか」と、何故、何故、何故と考え、それぞれが史実をより深く理解する事なのである。
「吾れ疑い、吾れ考えるゆえに吾れ在り」の精神こそが大事で、これによって実証主義的な考え方が身に付き、歴史を正しく見ることが出来るようになるのである。





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