新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

日本司法制度の怪 江戸の司法制度

2019-12-09 18:22:37 | 新日本意外史 古代から現代まで


以前、寺西判事補の分限裁判抗告審で最高裁は「自由の制約容認」の判断を示した。マスコミに大きく報道されたので、詳細は割愛するが、私が興味を持ったのは、裁判官、検察官、行政官出身の十人の判事が「裁判官の中立」を重視したのに対し、弁護士、学者など民間出身の五人の判事が反対意見を述べ、経歴によって見解が二つに割れた事である。

ここに日本の裁判所の、一般社会と断絶した閉鎖性が色濃く読みとれる。
日本の司法制度は敗戦後、アメリカによって近代民主主義制度で運営されるようになった筈だが、どうもこれはタテマエであるらしい。

ここで日本の司法の原点から考究してみる必要が在りそうである。
先ず江戸時代の司法制度について考察してみたい。
大名や旗本は町方とは全く無縁だったのに、それぞれが各与力に手当を出して、用心棒というか法律顧問のような恰好で置いていた。

与力の下の同心も同じで、今と同じ官僚の仕事ぶりで、上からの命令だけを聞き、その言いなりに働いていたのである。これが彼らのサイドビジネスで袖の下の手当を貰っていた。これが江戸での実体である。

地方ではどうかというと、代官に金を送り、御上御用の目明かしになり、投資した分の何十倍もを一般の町屋や農家から巻き上げていた。現代でも、信用組合や都市銀行が大手サラ金業者には、庶民から集めた金をどんどん融資している状態と相通じるものがある。

というのは政治献金を貰った議員が、ノンバンクには有利なサラ金法案を国会で通すのと全く同じ。今も江戸時代そのままなのが、二十世紀の日本の行政であり、警察制度であり、全然変わっていない。

日本史は、こうした江戸期の役人制度をすっかり秘密にしてしまって隠している。
何しろ江戸時代の裁判というのは、評定判決は全て”良と賤”の原則で行われており即ち差別と、<地獄の沙汰も金次第の>という如く、後は現実的裏取引だった。奉行所というのは、町民の為の公僕的存在などという思考は、敗戦後のアメリカナイズでしかない。


同心達が自分から動く時というのは、立ち退かぬ町家をいくらと請け負って、別件逮捕で大番屋へ送りこみ、拷問責めで自白させ犯罪人に仕立てあげてしまうだけの話。これが地方へ行くともっと極端だった。

「嘘っ八」とか「嘘の三八」と云う言葉が今も残っているように、家康入部の際、三河の八部と呼ばれた連中を伴って江戸の治安を任た。地方に残った八の連中は、代官が面倒がり厄介がる捕物の下請けをしていた。これが当時の実装である。

ヤクザというの、は田村栄太郎説では八九三が語源だがどうも違うようである。
戦国時代、足軽頭が「役座」といって、藁を二三枚敷き、起居していたその下の方から、足軽たちが「宝引き」といって藁を抜き合い、その長短で暇つぶしに博打をしていた。

抜きすぎれば薄くなり、取り替えねばならぬので賭け金の一割を筵の下に差し込んだのが語源であると、これは「毛利家史料」の<吉田籠城日記>からの解明である。


私見だが、現在のヤクザ(暴力団)に博打の権利を与える方が施政上は得策ではないかと思う。テキヤも博徒も一緒くたに暴力団として括っているが、祭りなどのタカマチでの商売はテキ屋の領分だし、博打は博徒の領分だったのである。

お上が彼らの利権を取り上げた結果、彼らはマフイア化してカタギの世界に入りこんで様々な悪事を働くのである。
企業や政治屋も彼らを利用した結果、現在のバブルの一因にもなっている。

一方でお上は、競輪、競馬、パチンコなどを合法としている。近頃ではサッカー籤までお上が仕切るという。要は「お上にテラ銭の入るものは合法。それ以外は非合法」という事なのだが、こんなたわけた話はない。


ヤクザの賭場でのテラ銭は一割だが、中央競馬など二割五分も盗っている。
お上のこうした”あこぎ”な政策は目に余る。やってることはヤクザ以下である。

従ってこの日本社会からヤクザが無くならないならば、彼らの元々の”正業”である博打の利権を返してやることである。その方が彼らが起こす犯罪は減少するだろう。

さて、江戸享保年間から徳川吉宗の指示で大岡忠世が、日本全国の街道を流して歩く遊芸人や旅回りの八の部族(海洋渡来民族)に「夷をもって夷を制す」と、古来よりの鉄則通り、彼らにその民族カラーの赤を象徴する朱鞘の公刀と取縄を渡し、五街道目付という権限を与えた。

勿論幕府は手当の類は一切出さず、代わりに彼らに鉄火場の運営を黙認してその費用に充当させた。大岡越前は晩年は大目付になれたが、当時は江戸町奉行。彼は全国的に幕府体制を守るため、治安維持を実施する責任者で江戸町民の事など眼中にはなかったろう。

彼は徳川体制の徹底した司法行政官僚であり、テレビで映っているあんな人情味のある男ではない。
御上御用の側の賭場は公認だが、モグリの賭場の摘発は二足草鞋のヤクザに任せていた。これは幕府公認の売春地帯吉原の商売敵である、モグリの岡場所の摘発は、吉原溜の四郎兵衛輩下が岡場所の女を捕らえてきて、奴隷女郎にして働かせた、岡っ引き制度と全く同じである 当時の裁判や警察制度は、江戸の御上が全部するのではなく、各地の縄張りを決めあった親分達が下請けをしていたのである。

「人斬り長兵衛」と呼ばれた富士吉田を縄張りにしていた有名な親分が居た。

講談や浪花節では勇ましい男とされているが、実像は全然違う。日本人は現代もそうだが、当時も薬好きの国民だったらしく、漢方の煎じ薬より、生薬の人気が高かった。今謂う肺結核には生血、胸や腹の痛みに生の肝臓、梅毒には肛門の肉が効くとされていた時代で、極めて需要は多かった。
「そうか、生血が竹筒で三十、生肝臓が五で、菊肉が六も注文が溜まったか。なら六人ぐらい、誰かしょつぴいてきやがれ」と長兵衛親分が子分に言いつけて、片っ端から曳いてこさせると河原で即席裁判。

注文は早く届けねばならぬから、急ぎで適当に罪名を言い渡して裁くと即刻死罪処分とした。だから庶民に恨まれて「嘘っ八」とか「嘘の三八」の言葉も残っている。
生血でさえ竹筒一節で八百文から一貫の高値で、ど頭かち割った脳味噌は銀二百文になったというから、一人殺すのでも儲かった。

そして、前もって捕らえて牢に入れて置いては食わせねばならぬが、生薬の注文が纏まった処で、御用ッ、御用ッと召し捕ってきて、逆さ吊りにして血搾りすれば生きの良い新鮮な生薬が取れたからこれは合理的である。

始めから生薬にする為の捕縛だから、裁判と言っても言い渡しだけで、享保時代から明治初年までの警察や裁判のこれが実体だったのである。この裏付けは富士吉田の浅間講の信者が求めた、売渡し値段表として残されている。
こうした制度は何も静岡に限らず、日本全国みな同じで各地に「人斬り」の親分がいて怖れられていたらしい。

このため明治維新後、新政府が落ち着きだすと「公議所提出議案」として公議所書記の大岡玄蔵が提出したものに次のように書いて有る。

「そもそも生殺の権は国家の大権にて公卿諸侯と雖も、あえて専にするを得ざるは人命の尊きをもってなり。しかるにいわゆるエタ団頭は賤辱の身なるに逆にこの大権を握り、その団衆何千何万の人命を公裁をへずして、殺戮を専らになす(中略)朝廷の大権、人命の軽視をなす団頭の専断の権を取り上げ、死生予奪は政府の裁断を仰ぐべきよう御仁意の処置を願上げ候」

これはつまり、江戸時代その儘で各地の親分が司法権や裁判権を行使し、未だ片っ端から人斬りしているのは明治の聖代にそぐわないから、形通りとまでもゆかなくても日本の断罪方法を変えようとの建言なのである。さらに大江卓造が明治四年正月、時の民部大輔大木喬任へ差し出したものでは、

「聴訟断獄その他の国役租税などの訴訟は、各地方官の権限をもって官に取り上げて日本の裁判を改めるべし(中略)これまで権を振り回していた彼らに対しては、身体の壮健な者は、消防夫やポリースなどに編成し適宜の給金を与うべし」
となっている。

なにしろこの明治四年当時でもガエンと呼ばれていた、いろは四十八組の町火消しは、八と呼ばれる民族の限定職だった。
江戸や京阪の司法の第一線は騎馬民族系だが、地方では親方とか親分と呼ばれた八の民族だったのである。

彼ら八の民は抜刀禁止令が無視され、自前の刀を抜く輩が多くなり、従来の十手や樫の棒では剣呑でとてもやってゆけないと、文久二年までには十手取縄を返上して転業した。
だからこの後を半可打ちと素人扱いだった清水次郎長らが、「逃亡盗賊捕縛方」といった官名を新政府から命じられて「御用」「御用」とやっていた時代ゆえ、慣れた彼らにその儘で踏襲させ、手当代わりの従来の賭場開帳は禁じ

適当な給料を払い、裁判を含む司法権をこの際オカミに取り上げて、直轄にするべきであるという、これは建議なのである。
「千金の子は盗賊に死せず」と呼ばれる中国の格言通りに、とき放しにした前牢囚を使ったり、徳川時代には被差別の四の民のを、死なせても構わぬ輩として六尺棒を持たせていた。

だから不浄役人とか、不浄な縄目に掛かるものかとも云われていたのを、欧米並の警察国家にするためには、賤を使ったり、下請けさせていたのを止め、司法権を良の側へ取り戻す必要があったのである。

さて、こうして薩摩閥が新しく羅卒制度を設け、幹部にはずらりと薩摩人を揃えた。そして部下には賊軍となった東北諸藩の失業武士をかり集めて揃えたから、これて゜すっかり組織構成が一変してしまった。
さらに裁判の方も、「弾正」「弾正弼」として従五位下か六位の官位だった賤役判官も、新政府の期待を担うようになって、明治の裁判は政府護持が使命となってしまい、雲井龍雄までもが反政府分子として判決は死罪。
これは八ッの時代から、捕らえられたら生薬にするために死罪と決まっていたゆえ、その伝統に慣れた、習わしだったせいか。
現代でも裁判前で何ら判決が出ていないのに、何か事件の容疑者が逮捕されると、逮捕即もう犯人扱いで有罪と決めてしまう風潮がある。
「松本サリン事件」の第一通報者で当初、容疑者扱いされた河野 義行さんは次のように語っている。
「事件が起きて容疑者が逮捕される。するとマスコミは事件が片づいたという報道をします。市民もそう思う。いつの間にか容疑者が犯人になってしまう」しかし、現行法はそうなっていない。逮捕された人はあくまで容疑者にすぎず、逮捕しても、不起訴もあるし、起訴されても裁判で無罪もある。だが初期の新聞報道はほとんどが推定有罪の方向で動いていた。マスコミの悪い体質である。

また、河野さんの弁護士は売名だ、金目当てだと批判されながらも、見事にその役目を果たしたが、『被疑者不詳で殺人罪』こんな捜査令状を出す裁判所が許せないと語る。
こうした冤罪が起こる一つの原因は、警察の初動ミス、つまり思いこみで無理矢理自白を取ろうとする姿勢にある。
こうした『自白至上主義』は旧ソ連などでもこの傾向は激しく見られた。まず怪しいと睨んだ容疑者を逮捕する。

次に様々なテクニック(拷問もある)を駆使して自白させる。それから容疑者の犯行を裏付ける証拠を本腰を入れて捜す。
西側とはまるで手順が逆なのである。日本とて、別件逮捕で代用監獄で長期拘留し、自白調書をとる例も多く、似たような
ものである。
西側諸国では先ず証拠を集めてから、それを元に容疑者からの自白を引き出す。
容疑者が罪状否認の場合は、その証拠によって犯行を立証する。これが証拠主義という一般的な民主国家での手法である。

しかし日本では”タテマエ”ではそうなっているが、こんなに冤罪事件の多い現状では果たして近代的民主的な法治国家と言えるだろうか。
此処から第二部に入る。

前項では、日本の司法制度は”良と賤”の争いで、裁判は当初から決まっていたと書いた。ここでは律令制度の昔からいかに変わっていないかを再度考究する。

なにしろ日本の裁判の始源と言えば、煮えたぎる熱湯に手を入れさせ、堪えられた方が正しいとしたのである。まるで「我慢比べ」のようだが、これが正式のお裁きとして六世紀までの理非の判定法方だったのである。

  人間の平均体温は三十六度。入浴でも四十六度では熱くて足も入れられぬ。これが熱湯だったらいかに無神経で手の皮が厚い者でも大火傷は間違いない。これを称して「くがたち」と謂い、「探湯」と書く。
だが”法”では「正しい者は大丈夫だが不正な者は爛れる」と定まっていた。全く常識では考えられぬ不条理極まるものである。

  日本では漢字は皆当て字だから、「八切姓の法則」によると、日本列島に原住民土着民として住み着いて居た民族は、オ横列とア横列で、これら先住民を「賤」としていたとなっている。彼らを征服した鉄武器を持った大陸からの連中はウクスツヌフの姓氏を名乗っていたとも考察している。であれば、この「くがたち」とは一目瞭然である。

  つまり「クがたち」とは、裁きをする前から「良」とされた方が「たち」立証できると前もって判決は定まっていたという事が判る。
先ず賤の方を先に熱湯の中に手を入れさせ、大火傷ををさせて「一件落着」。良の人間はこれで熱湯に手を入れる必要はなく、判決は無罪。裁判の原点がこうであったと判れば、今も大宝律令の儘で良賤の判別制と理解できる。

  だからテレビの遠山の金さんや大岡越前みたいな、娯楽的な考えは間違いで、あれらは全くの虚像なのである。

  さて、「日本は法治国家である」と恰好は良いが法治国とは警察国家であるから怖い。「出る所へ出て、黒白を争う」と言うが、一般庶民なら思い上がりも甚だしい。
  先ず逮捕されると裁判前でも、新聞報道は犯人として敬称抜きなのは、警察発表が既に外国でいう裁決のようなものだからである。(最近では何々容疑者とはなっているが)そして発表通りに帰納されてゆくように取調べがなされる。
  「してもいない事を何故に認めて自白などするのか?」と、誰もが疑問視する。だが、自白させるのが仕事の人々にとっては、監禁してしまったからには掌中にある。たいていは脅し役と、慰め役の二人組で交互に苛めたり優しくする。
 こうした「落としのテクニック」に明け暮れ責められては、前科数犯の猛者でもない限り未体験の者は参ってしまい、根負けして言いなりになる。厄介なのは別件逮捕。当人にとっては身に覚えのない事だから、調べて貰えば判る事だと胸を張って連行され、四十八時間以内に簡単に取調べられ、否認すると判事から十日間の拘留処分。
  何しろ知らぬ事だから認められぬと自白しなければ、追っかけ判事から拘留延期また十日。いきなり捕まって籠へ押し込まれると、鳥だって三日と持たない。
 まして人間が独房の鉄檻の中へ放り込まれて「接見禁止」にされ、会話の相手もなく煙草も吸えずでは参ってしまう。いくら辛抱強い人間でも、喋れる相手は調書を取る側の者だけでは閉口させられる。

  「代用監獄」と留置所を称するが、 別件で連れ込まれたも先方さまの用意した筋書き通りで、やってもいない事でも指図されて犯人に仕立てられる。日本人は義務教育でみな読み書きは出来るが、此処では絶対に当人に文字は書かせない。親切に代筆して読んでくれて聞かせ、最後に署名捺印だけを当人にさせる。

  これなら後で書き直しや書き加えも、当人の筆跡ではないから、如何様にでも訂正出来る。それに我慢とか忍耐には誰でも限界があって、五日ぐらいは保つが、それを過ぎると悄然となり、意気消沈して茫然自失状態になる。

  保釈を取り付けるにしても犯行を認めなくては駄目だと言われ、やってもいない事でも書かれるのに言われる儘に黙認する。

  「裁判になったら法廷で否認すればいい」とは素人考えで、自白調書の重みが判決になる。
夫殺しとして一度自白した為に、後に否定しても実刑判決の事件があった。出所後に再審の申し立てをして、証人とされた当時の少年店員二人が「実はデッチあげでした」と立証しても認められず、死後ようやく再審となった徳島のラジオ商殺し事件のように、初めに言いなりではもう終わりである。「疑わしきは罰せず」という法律用語があるが、容疑=犯罪としてしまうのがプロの腕前なのである。

  「身柄送検」といって検察庁へ鉄格子のバスで連れて行かれると、いと親切そうな口振りで「はっきり犯行を認め、御慈悲を願うんだぞ」と、検事の心証をよくするように看守が言う。

  さて、取り調べ検事は法廷には姿を見せぬ。一人二役ではなく、二人一役である。
「心証を良くする」とは、起訴にするよう認める事だが、その怨みつらみを法廷で述べようとしても、既に相手が換っているので「しまった」と思っても後の祭り。もう有罪のベルトコンベアに乗ってしまったのである。

  人命を奪われる死刑囚でも再審の途が緩やかになると、次々無罪になるのだから殺人罪以下となれば、推して知るべしである。
今でも「オカミ」と自称する側が良であって、腰縄をうたれて来るのが賤ゆえ仕方がない。全くこの国は途方もないことをやってくれているのである。とはいえ「良」を自認する側どうしの場合は又違うようである。

  明治時代に「シーメンス事件」と呼ぶ大疑獄事件があった。これは学校でも必ず教える。当時の三百万というから今なら三十億円にもなろう巨額の金が、海外の造船会社から、海軍大臣山本権兵衛へのピーナツになったのが露見。

が、当時の検事総長平沼は不問にした。
よって大正十二年九月、山本権兵衛が総理大臣となって組閣した時は、平沼は法務大臣となる。昭和十一年三月からは平沼は枢密院議長。そして三年後には近衛文麿と入れ代わり総理大臣。だから当時「情けは人の為ならず」とか「臭いものには蓋」と言われたものだが、犯罪メーカーのような立ち場でも、正義の味方を気取ったり、肝心な処では要領よく取引をするらしい。

現在、司法の世界で有名になっている本がある。
元裁判官で最高裁中枢の暗部を告発した「瀬木比呂志」氏の
 
「絶望の裁判所」が講談社から出ている。
興味のある人は一読を。

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