新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

戦国時代女城主は沢山いた 上杉謙信も女城主

2019-06-19 09:16:54 | 新日本意外史 古代から現代まで
「上杉謙信」と謂われる画像。江戸時代、想像で描かれたもの。
謙信は死後の戒名である。
本名は「長尾於虎」大柄で醜女の女城主だった。仏教勢力の武田と戦い旗印に毘沙門天の「毘」を使っていた彼女が、数珠など持つはずがない。
無精髭など、泉下の彼女に礼を失する。
 
 
   現在NHKの大河ドラマ「女城主井伊直虎」を観て読者から、戦国時代の女城主についての質問があり、以下はそれへの回答である。 この井伊家は複雑な家系だが、有名な徳川家の重臣「井伊直政」を取り上げず、全く無名の、井伊直盛の娘「直虎」を主人公にして視聴者の受けを狙ったのだろう。今川氏との関係に視点を当てているが、全く面白くない。 現政府が「女性活躍社会の構築」を提唱しているため、時局柄高視聴率が取れると踏んだ作者の思惑が透けて見える。
       ◎女城主について。  
 
   <文禄二年。朝鮮征伐名護屋渡海乗船衆>の名簿には  「三万七千石、堀田が女房。女武者>と記載があります。  夫は堀田権兵衛といい、秀吉が近江長浜五万貫に出世した時、権兵衛も二百貫に出世する。   名古屋鉄道に堀田と言う駅があります。今は名護屋の繁華街ですが、秀吉の頃は掘割に囲まれた痩せ地でした。名護屋駅の裏が中村で秀吉の出生地とされているから、縁辺だったかも知れません。 彼は相当強く手柄も立てたが、今で謂うアル中で、酒毒が改まらない。呑まないと苦しがってのたうち廻る。
 
 だからやむなく酒を与える。もし呑ませなければ刃物をふるって暴れる。まるで狂人沙汰である。そこで女房は伊吹山の女神様に願をかけた。    生まれたばかりの赤子を背負って登山し三七、二十一日の願を掛けた。これを何年も必死に堀田の女房は行った。 秀吉が天下を取ると堀田も二万石になった。 それでも、北の方、奥方と呼ばれる身分になっても、女房はこれまで通りに夫が酒乱になると素足に草鞋を履き杖をついて登山する。
 
秀吉はこれを聞いてすっかり感心し「女房の分として一万七千石」を加増してくれた。しかし長年の深酒がたたって半身不随。往年の豪傑もとても朝鮮などへ  出陣出来ないから、そこで女房が夫の代理として遥か海の彼方へ出陣し、秀吉に奉公した。これは<伊吹山神霊記>というのに出ている話しです。 はっきり三万七千石の堀田の女房とは書いてないが<名護屋御陣渡海帖>に彼女の名があるので、渡海とよぶ海外出兵はこれしかないので、  間違いないと思います。「戦国女性のがむしゃらぶり」というのは、これでも一端は判ると思います。  
この時渡海した女大名に「一万石、池田セン女」の名があります。  池田勝入斎の一族か、それとは違うのかも知れませんが、留守部隊だった女城主まで入れると、未だこの時代は「男系相続制」に定まっていなかったから女性が家名を継いでいたものも多かったらしいです。「当代記」には信長の武田攻めに、高遠御前が槍をふるって群がる織田勢を防いだ話しや、その姪の祝女という女人の力戦ぶりも出ているし、また「駿州志」には、「飯尾豊前守連竜の妻が今川氏真の兵に織田方へ裏切りの疑いで屋敷を囲まれると  手に米の粉を血止めに付け、押し寄せる者を片端から薙ぎ倒して奮戦した」  という「小路合戦」の模様が詳しく出ています。
 
  こうした例証は数が多すぎてきりがないので、徳川四天王の一人、本多平八郎忠勝が書き残した物を1793年に子孫の忠顕(ただあき)が珍しがって木版刷りで頒布した物の中から関係部分を引用して紹介します。            
 
 本多平八郎文書  
 
「わしが若い頃には未だ戦国時代の名残があって、女ごが豪い様で男に一々下知をされた。言うことを聞かぬ者には罰として、食物を渡さぬから、男は言いなりになって槍や刀を持って出かけたものだ。勿論いざというときは、女子も己の顔はやさしく見えてはいかんと、眉を落とし、鍋墨で書き眉を大きく付け、口にかねを含んで鬼のように歯を染め、ワアッと敵陣へ攻め込んだものだ。 だからその名残で今でも武家の女房は眉をすり落とし、口にはお歯黒をつけとるがさて近頃は、男並に弱くなったのではあるまいかと思われる」  と、当時の女は相当に凄まじかったことがこれでも偲ばれます。  尚、前記したように有名な<上杉謙信>も女人であったと八切止夫氏は解明しております。 近頃はようやく、謙信女人説に関心が向き、歴史書にも「上杉謙信は女の説も在る」としぶしぶ書かれているものもあります。
 
さらに秀吉に対面するため、小田原に現れた伊達政宗とその以前の政宗は別人であったらしいと、遺骸発掘によっても明白になったと、 「武家意外史」に詳細です(三春から嫁に来た政宗の妻が政宗の身代わりで戦場を駆け回り、奥州に伊達政宗在り、とおおいに名を売ったとあります)  だから政宗は己の虚名を利用して、来るべき東西対決の時には自分が天下を取ろうとしたらしい。 その為には何と言っても火薬が必要だから、当時スペインのフェリッペ王が抑えていたチリーの新硝石を何とかして手に入れようと、支倉常長を派遣したが、失敗した。 そして、関が原合戦には間に合わなく、これが後の伊達騒動の遠因ともなるのです。

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