新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

炎の女「北条政子」の考察と軽視されている日本史の疑問

2019-09-11 11:04:54 | 新日本意外史 古代から現代まで



炎の女「北条政子」の考察と軽視されている日本史の疑問

「一学期が終わっだのに三百四十七ページの日本歴史の教科書は四分の一も進んでいなかった。
ところが二学期が始まると、その第一時問めに先生は、受験準備のため教科書は早く終わらせようと、種子島に鉄砲が伝わった所から阿片戦争が日本へ影響を及ぼすまでの、
およそ三百年間を一時間で、あっという間にかたづけてしまった」
上は、朝日新新聞第五面の「声」の欄に、高校三年生のT泰君が投書していた記事の引用である。
 
いくら受験勉強が先行するとはいえ、日本歴史の学校教育は、三百年分が一時間の先生の棒読みだけで済ませてしまわれる程の価値しかないものだろうか。
といって反論するために引用したのではない。戦前の日本歴史は、恐れ多くも天皇さまの歴史として、まず歴代の天皇名の暗記から始まって、
有難くも忝ないものとして謹みかしこみ教育された。しかし戦後は、皇国史観とよぶ太いバックボーンがとれてしまったので、現場の歴史教師も、
当てがわれた文部省認定の歴史教科書についてゆく自身がもてないのか、それとも、もっともらしく教えても仕方がないと思うようにだったのか、
昔みたいに日本歴史に重きをおかず、それよりも生徒らの為には、他の勉強をさせてやった方がよかろうとの親心から、
三百年の頃史を一時問で教え詰めこんでしまうような、涙ぐましい無理をする。

 先生にすれば超人的なスピードアップで、感謝されるべきなのに新聞へ投書などされてはたまらない。
しかしこの状態は、何処の高校でも大同小異で、平均すれば一時間で百年分ぐらいを済ませるのが、現今日本歴史の学校教育でのあり方である。
しかし自国の歴史をこんなに冷淡に扱う国は他にはない。まことにこの点だけは万邦無比である。
「有事立法」どころか、あいまいな歴史では、もしもの時でも住民に愛国心など生まれてこない。もはや日本歴史教科書もここまできては、改めて検討して、
教える側にも納得のゆくような、自信のもてる内容に一変すべきではなかろうか。たにしろ、
 「化けの皮はいつかは剥げるが、真実はいつかは知られるものである」とか、「権力をもつ人に都合よく作られた歴史は、その時代が終わった時点で書き改められねばならぬ」
 「真実をとき明かしても何の代償もえられはしない。反って迫害をうけるだけである。しかし歴史学とは過去の実在を、なんらの制約をうけず、あばき出すことに意義がある」という。
 日本には歴史学博士なる称号はないが、ヨーロッパには存在し、彼らは前記のごとく歴史の解明につき主張している。
『パンセ』の中にも、はっきりと、「真実をとき明かすしか、歴史の意義はない」とまでのべている。つまり従来の学校で教える日本歴史と、
私の考究とではまるで違うけれど、パスカルの説くように、「常識とか史観というのは、他人の説や書いた物を先入観とするのではなく、自分自身の良識によって考究し判断するものである」
とすれば、意外であっても、それこそ真実なりと判って貰えよう。

北条政子の実像に迫る
北条氏は源氏ではない
 さて、学校歴史では北条政子(1157~1225)は、すっかりぼかされた儘である。
 つまり教科書ではでは、
 「幕府を創立した独裁者の頼朝死後、御家人の間で政治の主動権争いが起きた。政子の父北条時政が頼朝の跡目の源頼家を幽閉して、
その弟の実朝を将軍職にし、自らが政所の長官となり、その子義時が和田義盛を仆して侍所の長官となって北条九代のもとをつくった」
 と北条時政父子が頼朝の死後になって、勢力争いにまきこまれ、それに打ち勝って北条時代を作ったかのごとく教えている。
つまり現代のごとく男系社会であったような教え方である。
 (政子は夫頼朝の死後は仏門に入って尼となって回向を葬いつつ、その子頼家や実朝と実家の父時政や兄の義時との問に入って、悩み苫しみ続け哀れ平政子として死ぬまで苦労した)
 というのが現代におげる定説である。しかし、これでは北条氏たるものが源氏の家臣団の勢力争いにまきこまれていたものなら、和田義盛や梶原景時らと同じような存在になる。
 しかし詳しくは後で説明するが、政子が死ぬとき「平」の名のりをつけたごとく、北条氏は炎のホの字を頭につけているごとく拝火教徒であって、
「蘇民将来系子孫人也」の身分証明書の柳の棒ぎれを腰にぶら提げて戦場をかけめぐった源の武士団とは異質なのである。
 ありていにのべれば京の藤原氏と手をつないだ伊勢白子浦より上陸して政権を担っていた平氏に、冷遇されていた伊豆の平氏で北条一族が、
旧勢力を打倒するために野戦が得意な騎馬民族の末裔の源氏を利用して天下を平定すると、本性をさらけだして邪魔な源氏を次々と始末し、自分らが権力の座についただけの話である。

 当初、異質の北条と源氏が相互提携できたのは、白山の神信仰の源氏と同じように後には、「堂」とよばれるようになる拝火の北条氏は、
大陸渡来の仏教に弾圧され迫害されてきたゆえ、「打倒仏教」の共通目的があった為ではなかろうか。
北条氏が天下征羂のとき、新憲法として発布された〈貞永式日〉の第一条にも、「神社を修理し、祭祀を専らにすべき事」と仏寺を全ったく無視除外していることでも、はっきりとよく判る。
 だからいくら間違っても、政子が頭をまるめて寺へ行き、尼さんになる事などありえない。
つまりアマはアマでも当て字違いで、弾圧された寺側から、キリスト教でいう悪魔と同義謡の、「阿魔」とつけたのが神仏混合の法令を出し、
仏教を国教に替えた徳川綱吉の元禄時代から、寺こそすべての体制側なりと、媚びの思考で文字を変えたのだろう。
 
日蓮宗の「団扇太鼓」は騒音用
明治までは、「官僧」には、大陸系の血をひいていない者では頭をまるめて本物の坊主にはなれず、一般は、「私僧」といわれる法界坊、願人坊主、法印といったような存在であった。
そうでなければ本願寺派では説教師、高野山では非事吏とよばれ、御本堂へは上れずに旅廻りして布施集めする境遇の立場だった。
女も、伊豆伊東別所出身の政子では、いくら権勢があったとても官僧の尼になれる筈はなく、私僧の比丘尼にしかなれなかったのが当時の掟である。
仏教を禁じナムアミダの称名を唱えることさえ罰した北条政子である。比丘尼になりたさに、まさか殊勝たらしく仏門をたたく筈とてなかろう。
ここが神仏混合思考では誤られる。
 北条時代の仏教弾圧は厳しく、そのためナンマイダとは唱えられぬ人々のために、「ナンミョウホウレンゲキョウ」と別にお題目を唱える日蓮宗が生まれるのであるが、
門徒の中には、ついうっかりと御禁制のナンマイダを失言する者もある。それでお咎めをうけては危ないと、考えられたのが、もし言い誤っても打ち消せるようにとの考えが、
団扇太鼓だった。
 ドンドンドンツクと喧しく叩くのは、その騒音で役人の耳へは届かぬようとの智慧なのである。
 さて、学校歴史では、さも男系社会だったみたいな教え方だが、前述の〈貞永式目〉にも、「女人養子の事」が四ヵ条のしんがりに、びしっと法制化されてある。
つまり、「自分に子のない女人が養子をとって所領を譲渡するは(万代)不易の法たり」とある。
昔から拝火教徒は母系家族ゆえ、この定めは後世に到るも変えてはならぬと、法令は漢文であるが厳しく掟しているのである。
当時の憲法が明白にされているのだから、北条政子を隠してしまっているような学校歴史は、さも男系社会だったような嘘を教えている事になる。

 徳川時代になっては男子相続制と変わってしまったが、戦国時代から拝火教の織田信長や豊臣秀言の世までは女城主は珍しくなく、「伏見城普請工事表」にも、受持ち割当をうけた中に、
摂津池田せん一万八千石始めその他の名がみられる。池田輝政の娘で鉄砲隊を率いて岐阜城の織田信孝を攻め、緒戦の一斉射撃で脅やかして降参させた武功の女将も居た。
 
(もうセンしやはる)などと関西では「先に」という意味に、せんは今用いられているが、九州へゆくと同義語で、やはり現代でも始まりを、「はな」ともいう。
これも九州の大名で、立花道雪の娘のげんが鉄砲隊を率いて、いつも大友軍の先頭にたって鉄砲を撃ちかけ、
相手をおじけづかせていたので、「はなは立花チヤイ(ポルトガル謡の硝煙の意味)の匂い(かおり)」と呼ばれたのは、「大友軍記」にもある。
が今では、チャッキリ節の歌詞に盗用さかてしまい、「花はタチバナ、茶の香り」とされてしまっている。なにしろ橘の花は匂いも強くはなく、
静岡にはあまりない樹で、樟と同じで四国や小豆島には橘の林がある。これは明らかにこじつけである。
 つまり北条時代より後世の戦国期でも、拝火教徒は女上位であって、将軍といえば、「女将」が多く、オカミと崇拝されていた程ゆえ、
源平時代の北条政子も学校歴史で教えるような存在ではなかったことを、従来の誤った史観はこの際あっさり棄てて欲しいものである。
政子が寺を修理したとか、寺へ寄進したといった『吾妻鏡』や『増鏡』の今みる記述は、後世の作りごとと認めねばならぬようである。
 と言うのは、九六八年から一二五九年までの編年体史書の『百徠抄』にしても、活字本になったのは明治以降である。
それまでは手写しで次々と伝おってきたゆえ、その間には、「女は三界に家なし」の男尊女卑の儒教時代が数百年も続いていたのである。
たにしろゼロツクスもコピーのない時代ゆえ、写字生が世相に迎合して勝手に筆耕しているから、
『明月記』や『玉葉』の類も初期のものと江戸期の『群書類従』収録のものとでは全然違ってきている。
北条氏の憲法<貞永式目>の考察
 わかりやすく書けば、根木史料とされている所の前記の各書には、源頼朝のことをどれも、「介毆」「佐毆」といった称号で書いている。
介とか佐というのは、今でいうなら政務次官の呼称なのである。頼朝が明白に長官になったのは、文治二年三月に、義経召擂りのため、日本各地のへ、
逮捕命令をだした時の総迫捕使、今の警察庁長官になった時の一回きりで、国内の政務一切に関しては生涯、次官にしかなっていない。
 当時の言葉で長官というのは、「長殿」とか中国の唐からとったトウの字をあてる「頭殿」を使うのだがそうした固有名詞は何処にも出てこない。
歴史屋さんも、これまで誰もこの奇怪さに気づいていないのか、てんで問題にもしない。
いくら十一世紀の中世期の世の中とはいえ、長官抜きで次官のスケ殿だけということはあり得ない。
だから納得できぬゆえ、機会あるたびに「頼朝が次官だったのなら、誰が政務長官の首相だったのか」と
専門歴史学者なる人たちに尋ねてみても、残念ながら誰も答えられずであった.
なにしろ明治まで手写しで伝わってきた各書に、前述のごとく頼朝は補佐官として出てくるが、長官が誰だったかはまったく今では不明、
削除されて出ていたいから仕方もなかろう。
 また前にふれた<貞永式目>といった北条家発布の憲法にも、北条時政が定めたとか、北条政子が決めたとはせずに、
さも源頼朝を意味するごとき(右大将家の御時以来)といった字句が挿入されているのである。
 後世になると織田信長のことを「右府」とか「右大臣」とよぶが、平姓で御所を敵視していた信長は、天正五年十一月には一条内基に代って、
請われるまま右大臣になってはいるが僅か半年たらずで、翌天正六年四月初めにはやめている。
そしてそれ以降は無位無竹のままで御所には臣従していない。
『近世国民日本史』などには、織田信長は勤王だった、織田信長が従五位下の官を貰うために貢銭したのを、御所へ尽した事蹟とわざわざ一章を設けて説明しているのは、
任官していた事のあるのは御所へ臣従していた証拠とする当時の皇国史観の影響である。
 
右大将というのは右大臣に比べれば遥かに低い官位である。だから信長のごとく半年もたたずに退任してしまっているかどうか、さだかではないが、
頼朝は京の御所へ行き侍所へ詰めて奉公していた訳でもない。だからはたして、何年から何年まで右大将だったかも判らぬのが実態なのである。
 が北条家の<貞永式目〉では、さも頼朝の遺命のごとく、右大将家の御時以来と前述のように取りつくろっている。
つまり現代の歴史家が北条と源氏は相反する異民族だったのに、同一視してしまうのも、このからくりによるものであろう。
 北条政子の優れた策謀に、現代でもまったく振り回されっ放しというところだろう。
 たにしろ今も昔も平然と取りつくろって、さも本当みたいに恰好をつけてしまえるのは、政子のような女人の特殊才能ゆえ仕方もあるまい。






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