●● 聖書を読むとき、あなたのように教会の教えを前提にするのではなく、いったん徹底的に相対主義に立った上で、教義学的に何が正しいのか、キリスト教とは何なのかという観点から振り返る、というほうがいいのではないでしょうか。聖書学について学んでみると、そうするのが一番いいと思うようになりました。
 
■■ 教会の教えや伝統を認めない立場から聖書を読むことも当然ありえますし、無神論の立場や反キリスト教の立場からでさえも、聖書は読まれています。それはそれで一つの立場だと思います。
 ご提案の「いったん徹底的に相対主義に立った上で、教義学的に何が正しいのか、キリスト教とは何なのかという観点から振り返る」ということですが、学者さんはそうしているのかもしれませんが、一般の信徒にそんなことは必要でしょうか。
 
 現実問題として、語学力に恵まれ、辞書などの資料も十分にあるとしても、仕事を持ちながらそういった聖書の読み方が日々できるとは思えません。それに、新しく出てくる諸説に対応しているだけで一生が終わってしまうんじゃないかと思います。頭がよく時間のある人にはいいかも知れませんけど、私には無理ですね。
 
 丁寧に原語を確認しながら読むことはできますよ。専門家でなくとも、自分なりのささやかな発見もあるものです。そこまでしなくても、自分の信頼する研究者から学ぶかたちで、学問的な読み方の恩恵を受けることができると思います。
 
■■ なるほど。それも一つのあり方ですね。ただ、私にとって聖書は神の啓示です。イエスの死と復活から今日まで、神が信徒を聖霊によって導いていると信じるので、その視点を放棄してあえて相対主義に立ったり、真のキリスト教を見つけようとする必然性が、そもそもないのです。 
 また、「徹底的に相対主義に立てば」客観的な教えが立ち上がってくるとも思えません。一つの個人主義的な読み方が成立するだけで、「客観的な聖書の解釈」=「わたしの読み方」になってしまわないでしょうか。
 また、原語を大事にし、一言一句をゆるがせにしないで読むということは、相対主義をとらなくてもできると思います。
 
 お説教のような「ありがたや」式の聖書の読み方では、結局は伝統的・教会的解釈の域を出られなくなってしまうのではないかと思うのですが。
 
■■ 私はカトリックですので、聖書の読み方が「ありがたや」式の感話であっても、それが自分にとって意味あるものであれば、それこそありがたいです。
 むしろ、なぜ「伝統的・教会的解釈の域」を「出たい」のか分かりません。いつ枯れるか分からない最新の学説より、「伝統的・教会的解釈」のほうが信頼できると思っています。
 また、カトリック教会において、「こう解釈をしなければならない」と決められているドグマティック・テキストはそれほど多くなく(数か所~十数カ所?)、自由と言えば自由ですね。相対主義に立つ必要はありません。

 妄信ではなく、根拠のある聖書学から信仰を打ち立てたいのですよ。一度、自己を相対化し、教義という色メガネを外すことで、これまでとは違った新しいステージの信仰になると思います。信仰が破壊されゼロになると思われるかもしれませんが、そのゼロの地点はまったく新しいゼロとして豊かな地平を開いてくれるのです。
 
■■ 無前提で聖書を解釈して信仰の根拠を得ようということですか。それは新しいタイプのキリスト教なのでしょうね。
 もし、学問として聖書学に関わるのなら、教会の信仰と離れたところで学問的営みがなされて当然だと思いますので、専門家の世界にまで文句を言うつもりはありません。
 
 聖書学者の解説を読んで知的刺激を受けることは、私のような人間にもあります。しかし、それはあくまでも勉強であり、鍛錬であって、信仰を基礎づくるものでは(少なくとも私にとっては)ありませんでした。知的興奮と信仰とは違うので、やはり、教会の伝統、教義というものを基準にしないかぎり、カトリックの信仰とは別物になってしまうと思います。
 
 教義というのは確かに一定の立場からなされた解釈の結果であって、その意味では「色メガネ」かもしれませんが、だからこそ意味があるのです。個人の主観や思い込みを超えたものです。なぜなら、聖霊は信仰者の総体である教会を導いてきたからです。だから伝統的な聖書解釈には大きな意味があるのです。もし聖霊の働きなど信じないと言われるのでしたら、仕方ありませんが…。
 どちらにしても、信仰の歴史的展開を無視した「無歴史的キリスト教」は、本人の思想や願望の投影にすぎなくなってしまう危険性があります。

 しかし、聖書を解釈するに当たって、信仰内容をテキストに読み込むような読み方は、「学問と信仰を混同している」、あるいは「文献学と信仰上の敬虔さとが混在している」と批判されていますよ。そんな「護教的」な読み方は避けたいと思うのです。
 
■■ 「読み込む」と言っても、そう読めてしまうのなら仕方がないと思いますよ。むしろ「信仰的に読む」ことによって得られる結果を、あらかじめ拒否させるような誘導であれば、それこそ逆な意味で教条的ですよ。「護教的」というのも、そういう人たちの、いわば「殺し文句」なので気にする必要などないですね。護っている教えがキリストの真理なら、名誉なことじゃないですか。
 
 余談ですが、聖書学者の中には、教会の教義を意図的に否定しようとする人もいますよね。とても無前提とは言い難いです。またそれに喝采を叫ぶ人もいます。そういうのを見ると、いったい何のために聖書を読んでいるのかと思いますね。正直な感想として、とても聖霊に導かれているとは思えませんし、それが聖書を学問的に読んだ結果だというなら、彼らのように学びたいとは思えなくなります。
 
 結局のところ、聖書を読むこと、聖書について知ること、聖書を学ぶことは、「信仰とともに聖書を読む」という、信仰の営みだと私は思っています。

 そもそも人間がテキストを解釈する場合、「無前提」であることなどできません。イエスが旧約を読まれた時に、「無前提」ではなくユダヤ教の伝統の中で聖書を読んだのではないでしょうか(彼自身の新しさは別として)。ですので、信仰を前提にすることに気後れする必要もないですし、客観性を意識しすぎて不可知論に陥る必要もないと思うのです。
 
 私の知る範囲ですが、カトリックの聖書学者も同じだと思いました。ただ、彼らはできるだけ客観的な言葉で語ろうとしているだけで、信仰者として、われわれ信徒とは異なった信仰をもっているのではないようです(一部の例外を除き)。
 どちらにしろ、聖書を読むこということが、その人にとってどういう意味をもつかという問題につきるようですね。
 
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※某掲示板での記事を修正したものです。