★注意 批判的な内容が嫌いな方は決して読まないでください!
 
 現在のカトリック教会につきつけられている問題の一つに「女性司祭」がある。これまで何度も話題になったが、教皇フランシスコの時代になって再燃しているようにも感じる。カトリック信者の中には、女性への叙階は当然なされるべきことだと信じて疑わない人も多い。女性司祭の誕生が、教会がまっとうな組織であることのしるしと見ているかのようである。
 
 教会は旅する存在であり、時代の変化に対応するために、本質を曲げることなく適応していかなければならないのだが、女性司祭はいつの日か認められるべきものなのだろうか。
 個人的には、教皇ヨハネ・パウロ2世が使徒的書簡『オルディナーティオ・サチェルドターリス』(1994年)において、女性叙階の可能性を明確に否定したことを受け入れたいと思っている。
 
 それは、伝統的見解へ同意することであるが、そう判断した理由はいくつかある。その一つが、以下の小冊子に出合ったことだった。
 古い話ではあるが、その時の驚きを記した文章に加筆・修正してアップしたい。
 
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 1991年7月1日、エリザベート・ゴスマン著『教皇書簡を読んで「女性の尊厳と使命」とは』という小冊子がカトリック中央協議会から発行された。これは教皇ヨハネ・パウロ2世の使徒的書簡『女性の尊厳と使命』(1991年6月25日発行)に対する批判的な文書であり、女性叙階の問題を考える上で非常に参考になる資料だと思われるので、以下思いつくままに問題点を指摘してみよう。
 
 このゴスマン氏の小冊子は教皇書簡と同様「カトリック中央協議会」の発行となっている。そのため教皇書簡の副読本、あるいは解説書のように受け取られる可能性が高い。
 事実、「カトリック新聞」1994年9月25日号の「声」欄には、この2冊を読んだ信徒から「なぜ女性は司祭になれないのかと納得できない思いを抱いている」という感想が寄せられていた。
 この小冊子は教皇書簡への批判となっているので、このような反応が生じることは予測できただろう。ゴスマン氏の主張に、見事に教皇書簡が呑み込まれてしまっていた。
 
 教皇が出す公文書への批判的解説がカトリック中央協議会から出版されたのは、初めてのことだろう(多分それ以降もない)。それほど例外的な出版物なのに、この小冊子には著者のエリザベート・ゴスマン氏がどういう人物なのか、一切書かれていない。ただ、2頁に「1989年に、聖心会の修道女を対象になされた講演をまとめたものである」という記述があるだけである。おそらくシスターか神学の専門家なのだろうと推測するしかなかった。
 
 その後知りえたことでは、ゴスマン氏はフェミニスト神学者であり、カトリック信徒。『フェミニズムとキリスト教』(勁草書房、1984年)、『女性の視点によるキリスト教神学事典』(日本基督教団出版局、1998年)などの著作がある(注)。当時、半年ごとに日本とドイツを行き来して活動していたという。しかし、どういう経緯で彼女の主張が教会の「公費」で出されるようになったかは「あとがき」も何もないので分からない。
 
(注)「カトリック新聞」2019年6月2日号にゴスマン氏の訃報が載った。同年5月1日、帰天された。91歳。神学博士で聖心女子大学名誉教授だったとのこと信徒が訃報欄に掲載されることは大変珍しい。今道友信氏や稲垣良典氏でさえ訃報欄には掲載されなかったように記憶する。

 ■ゴスマン氏の主張と教会の教え
     
 ゴスマン氏の不満は、教皇が「保守的女性像」を持っているため「女性の司祭職について絶対的に反対している」(6頁)という点にある。そして、「ヨハネ・パウロ2世は、イエスが12人の男性を使徒にしたのは、女性を聖職から締め出すことを目的としていたというのです」(28~29頁)と教皇を批判する。
 
 しかし、ヨハネ・パウロ2世の教皇書簡には「締め出す」というネガティブな言葉は使われておらず、「司祭が『キリストにかわって(in persona Christi)』行う聖体の秘跡が、男性によって行われるときに、それが明瞭になります。この説明は、司祭の役務に女性を認めるかどうかの問題への回答として、教皇パウロ6世によって発布された宣言を確認するものです」(教皇書簡、103頁)とあるだけである。
 
 たんに歴代の教皇の見解を踏襲したことが、どうしてヨハネ・パウロ2世が「イエスが12人の男性を使徒にしたのは、女性を聖職から締め出すことを目的としていた」と主張したことになるのだろうか。「締め出すことを目的としていた」ということと、「12人の男性を使徒にした」こととは同じではない。
 
 「女性を聖職から締め出す」と批判をするなら、まず、ユダヤ教の宗教的感覚として女性が聖職につくことがあり得たこと(あり得たのに「締め出した」)、また、イエスも、含蓄的に女性司祭を認めていた(イエスが認めていたのに「締め出した」)ということを証明しなければならないだろう。

 ゴスマン氏は、ユダヤ教との関連については触れず、後半について、ラーナーの主張だとする、「司祭職はイエスの12人の聖職から直接派生しているのではなく、むしろ、教会のいろいろな地方の実際的な活動から発生した」(29頁)という仮説を根拠として、伝統的見解に反論している。「使徒」の任命の問題なのに「司祭職」に変わっている点が気になるが、いずれにせよ、これは原始教団がどのような状況であったかという歴史解釈の問題であり、実証することは困難だろう。
 
 イエス当時のユダヤ教は(現在も同様だが)、周辺諸国の他宗教と異なり、女性司祭を認めていなかった。この当時の文脈を考えれば、イエスが男性だけを使徒にしたことはむしろ自然のことであり、彼が女性司祭を考えていなかったことはその行動から読み取ることができると思われる。
 
 カトリック教会の伝統的理解としては、イエスが12弟子を男性にしたのも、御父がユダヤ人を通しての救いを計画されたことも、神の御子がユダヤ人男性になったことも、すべては全人類の救いのためのことなのである。当然、司祭が男性であることで、女性が救いから除外されてしまうということはない。「救いはユダヤ人から来る」(ヨハネ4:22)ことが、他の民族が締め出されることにはならないのと同じである。つまり救済史において神が意図する役割が存在するということなのである。

 イエスは旧約の伝統を受け継ぎ、女性を司祭にはしなかった。この旧約・新約の証言と、教会が歴史的を通じて女性を叙階して来なかったことに、神の意思を見ることができるのである。
 
 教会も歴史を旅する存在なので、教えを理解するに際して時代の制約を受けることはあるが、秘跡に関するかぎり、それが普遍なものであるゆえに、人間が勝手に変更することはできない。
 教皇が前出の使徒的書簡『オルディナーティオ・サチェルドターリス』で述べたように、「教会は女性を叙階する権限をもたない」のであり、これは「神法」(ius divinum ユス・ディヴィヌム)と考えられる。
 
 司祭が男性であることは、女性の機能を制限するためなのではなく、イエス・キリストとの類比からである。教会はそれを信者である男性と理解した。問題はそこに神の意思、聖霊の働きを見るか、見ないかである。
 
 ゴスマン氏は、「エディット・シュタインが……書いたように、もし仕事の性質が人間的であるとするならば、女性はどの職業でもつくことができます」(20頁)というが、司祭職は、いわゆる「職業」ではない。女性の職業能力や職業選択の話ではない。このあたりの誤解がそもそもの始まりなのだろう。
 
 ■無責任な聖書学の利用 【イエスのメシア意識】 
          
 19世紀から始まった自由主義神学の史的イエス研究は、「歴史上のイエスと、教会が宣教するキリスト(信仰のキリスト)との間に連続性はない」という極端な結論を出すまでに至った。
 この「史的イエス研究」では、福音書のイエス像は、それ自体がすでに初代教会のドグマの影響の下にあるので史実を描いていない、という前提に立つ。そしてそれゆえに、どこが史実のイエスの姿で、どこが後代の加筆かを聖書学者の分析によって見分けなければならない、という。

 しかし結果的には、研究者ごとに異なった「史的イエス」像を描き出すことになってしまうため、その手法自体も疑問視されるようになった。今でも多くの研究者がこの方法によって聖書を読み解こうとしているが、教会の神学においては「史的イエス」と「信仰のキリスト」に連続性を認める立場が主流である。
 
 当然予想されるように、史的イエス研究によって得られたイエス像は、教会によって信じられているイエス像とは異なるものが出てくる場合がある。たとえば「史的イエスにはメシア意識があったか否か」という議論がなされ、一部の学者たちが「後の教会がイエスを勝手にキリストとして描いた」と結論することもある。「キリストとは俺のことかとイエス言い」などという川柳もこういった神学の影響だろう。

 カトリックでも、学問上イエスの人間としての認識のうちに何かの発展・発達を認めようとする立場もあるらしい。ただ、教派を問わず、正統的な立場の研究者は、イエスのメシア意識を疑ってはいない。
 
 いずれにせよ、ナザレのイエスの「意識」について心理学的に確認できる確かな資料は存在しないので、『ナザレのイエスの宣教日記』でも出土しないかぎり史料不足は否めず、客観的な結論を示すことはできないはずである。
 
 しかし、ゴスマン氏は女性の地位を高めようとするあまり、次のように主張する。
 「(教皇は)イエスが女性たちの病気を治すこと、彼女たちの信仰をほめることについて書きながら、……サマリアの女、シリア・フェニキアの女が、その質問をとおして、イエスに挑戦したこと、また、イエスのメシアとしての自己意識をはっきりさせたことを見落としています。現代の聖書神学は、……シリア・フェニキアの女を大切にします。彼女は異邦人ですが、イエスに娘の病気の治癒を願い、イエスのメシアとしての意識に影響を及ぼしたようです。つまり、イエスが自分のメシアとしての意識を広げたということは明らかです。……………この女性は、まったくの受け身ではなく、イエスにインスピレ-ションを与えているようです」(21~22頁)。
 
 つまり、イエスは自分がメシアであるという意識が完全ではなく、困った女性が「悪霊を追い出してくださいとお願いした」(マルコ7:26) のに、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」などと無慈悲なことを言っていた。しかし、女の「『子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです』という言葉をとおして、自分がユダヤ人だけのメシアではなく、異邦人のためにも来たことを意識して、女性の信仰をほめ、病気を治」(22頁)したのだという。
 
 自分がよくわかっていないことについて、相手から「インスピレ-ションを与えて」もらっておきながら、感謝するどころか「女よ、あなたの信仰は見あげたものである」(マタイ15:28)などと言うのが、この小冊子の史的イエス像である。聖書批判学によって救い主イエス・キリストは偽善者にまで落としめられてしまった。フェミニスト神学者が言う、聖書を読むときの「想像力」とはこういったことなのだろう。
 
 ちなみに教皇書簡はイエスのメシア意識についてはっきり宣言している。
 「いつでもキリストは、イザヤの預言にあるように「主の僕である」……ことを意識しておられました。それは、キリストの救世主としての使命の本質、すなわち世のあがない主であるというキリストの意識を含んでいるものです」(教皇書簡、15頁)。
 
 上記の例は、フェミニスト神学の考え方をテキストに読み込んだものと言えるだろう。

 フェミニスト神学者や進歩的な聖書学者が「聖書に教会のドグマを読み込んでいる」と伝統的な聖書解釈を批判することがあるが、フェミニスト神学へはそのような批判は向けられない。いずれにしても、フェミニスト神学がその思想を読み込むことが許されるのなら、教会もその教えを「読み込んで」もいいはずである。そもそも聖書読解に無前提はありえないので、多様な読み方が認められるべきなのだろう。

 
 教会の聖書解釈は、2000年の信仰の流れに即して聖書を理解するのであって、解釈の原理が違うのだから、それを教会外の研究者が批判するのは筋違いだろう。教父や聖人たち、あるいは教会博士、教会会議によってなされてきた解釈には意味がある。それらを複眼的に理解するのが、教会の伝統的な聖書理解である。
 
 ゴスマン氏は「こうした現代新約聖書神学の……女性たちについての見方は、ヨハネ・パウロ2世のこの書簡には見られません」(22頁)と言うが、上記のフェミニスト神学の解釈は、その支持者たちにとって意味あるものであっても、教会で受け入れられるとは言い難い。また、教皇の地位にある人であれば、こういった解釈に慎重であるのは当然である。

 ■聖書学の成果? 【聖書の正典性】
  
 ゴスマン氏は、聖書の中にある「反フェミニスト的」な部分を批判しようと次のように議論を進める。──1テモテ書は「アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました」(2:13~14)と語る反フェミニスト的文書であるが、この書簡はパウロによって書かれたものでなく別な人物によって書かれたと聖書学では主張されているはずである。それなのに「教皇はこの問題について何も触れず、1テモテ書をパウロの書簡と命名」(18~19頁)しているという指摘である。
 
 この部分は文脈的に教皇批判につながってはいないが、読者に誤解を与える可能性がある。
 1テモテ書が正典として権威があるのは、それがパウロによって書かれたか否かによるのではない。著者の真性と正典性(権威)の問題は別である。だから教皇が1テモテ書の真の著者について言及していないことに過失があるわけではない。教皇を不勉強だと印象づけるためのレトリックなのだろう。

 カトリック的に言えば、1テモテ書がパウロによって書かれようが、弟子が書いたものであろうが、教会が正典と決めて教会で読まれてきた以上、権威があるのである。
 
 ゴスマン氏はシラ書25章24節について次のようにコメントしている。「プロテスタント教会はシラ書を聖書として認めていないのですが、そのほうがいいかもしれません」(18頁)。
 
 自分の主張の正当化のために正典を否定しようとするのは、教父や教会博士たちでさえ考えなかったことである。「かもしれない」とは言うものの、聖書の正典は信仰の基準であるので、行き過ぎた主張であることは否めない。
 
 ■初代教会における女性聖職者 
 
 ゴスマン氏は、著名な学者たちが教会史や新約のギリシャ語原典を研究した結果、初代教会では女性聖職者が認められていた可能性がある、と主張する。
 
 現代の聖書学は、プロテスタントを中心に、既成の教義を批判、再検討していく方向で展開していく傾向がある。キリスト教を批判的に継承しようという意図で研究がなされることもある。こういった現状の中で、ゴスマン氏が挙げるような初代教会に女性聖職者らしき人がいたと推測する研究は多数存在し、日本でも紹介されている。ゴスマン氏の主張に親和性のある説は多いと思われる。
 
 そのような状況なので、一信徒として専門的な議論に向き合うのは困難だが、それでも以下のような感想を持つことは許されるであろう。
 
 ゴスマン氏はロ-マ書16:1の「奉仕者」である「姉妹フェベ」は、実際には「聖職者」だったという(30~31頁)。それは「奉仕者」と訳された言葉(ディアコノス)は「1世紀の原始キリスト教においては、司祭の下に位置する助祭を意味しているのではなく、ただ聖職者を意味して」いたからであり、男性だと「執事」と訳されるが、「女性の場合はあいまいにされている」のだという。
 
 この「助祭を意味しているのではなく、ただ聖職者を意味していた」という主張は一般的な注解書や辞書では見られないものなので、そのまま信じるわけにはいかない。1991年以降に発行された聖書では、ロ-マ16:1はリベラルな岩波訳で「執事」(助祭)となっているが、それより新しい田川訳では「奉仕者」である。「聖職者」と訳す翻訳は今のところ存在しないようだ。
 
 新約聖書に出てくる役職名は現行のそれより多く、新共同訳で言えば「預言者」「使徒」「教師」「長老」「伝道者」「牧者」「司る者」「教導者」「監督」「執事(助祭)」「分配者」などがあり、いわば過渡的な状況であった。それらが今日の助祭(執事)、司祭へと収斂していったのだろう。
 
 女性に対し「ディアコノス」が使われているのは、聖書ではこのロ-マ16:1の1か所のみだが、一般的な意味で「仕える者」(マルコ9:35。他にヨハネ2:5「召し使い」、マタイ22:13「側近の者」など)とも訳されている言葉である。それでもゴスマン氏は「聖職者を表す特別なことば」(30頁)だと断定するが、大事な点なのに根拠は示していない。
 
 また、ゴスマン氏は、「ローマ書の16章1節には、ギリシャ語でディアコノス・フェベという女の人について出てきます」(30頁)と書いている。この書き方ではギリシャ語の単語が修飾関係にあるように読める(執事フェベ、のように)。しかし、原文では「ディアコノン・テース・エクレシアース」(教会の奉仕者)となっていて、「ディアコノス・フェベ」(執事フェベ、奉仕者フェベ)とはなっていない(以下のサイトを参照)。そもそも主格をつなげて「ディアコノス・フェベ」と言うのだろうか(深追いはしないが)。
 
https://biblehub.com/text/romans/16-1.htm
 
 そして、ゴスマン氏は「ディアコノスということばは、男性の名前と一緒に出てくる場合、翻訳の場合もそうですが、ディーコン・フィリポスのように表現します。しかし、女性の場合はそれは隠されており、『ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベ』というような翻訳が多いのです」(31頁)と不満を表している。
 
 しかし、上記のサイトを参照すると、「紹介します、今、あなたへ、フォイベーン〔フェベ〕を、姉妹、あなたたちの、である、奉仕者、教会の、ケンクレアイにおける」という語順となっている。「ディアコノス・フェベ」という箇所はないのだから、何も隠されてはいない。通常の翻訳の方が正しいのではないだろうか。

 もしかしたら、ゴスマン氏の説明は不完全な日本語でなされていて、真意は「フェベ」の場合には「執事」と訳されないことだけを言いたかったのかもしれない。しかし、ギリシャ語でディアコノス・フェベ」と書いてしまっているのだから、上述のように理解されても仕方がないだろう。
 
 で囲んだ上の段落は、ゴスマン氏の文章上の不備が原因になっているのかもしれないが、読者を誤読させる可能性があるので、この指摘を掲載した。
 
 さらに言えるのは、初代教会をそのまま再現することが正しいキリスト教の在り方ではないということである。ペトロは妻帯していたが、のちの教会はそれを司祭の模範とはしていないし、預言者も形式的には消滅している。
 
 仮に、初代教会史や新約のギリシャ語原典の研究から女性助祭の存在が推測できたとしても、そのことによって現代に女性助祭が実現可能だということにはならない。歴史的に教会がどう判断してきたかということを尊重する立場を支持したいと思う。
 
 教会史において、一部の人が「聖書に帰れ」「イエスに帰れ」「初代教会に帰れ」といったフレーズを掲げながら自説を主張した結果、多くの場合、教会が分裂してしまったことも忘れてはならないだろう。
 
 ゴスマン氏の小冊子が出版された後、30年近く経っても教派を超えた定説は出てきていないようなので、学問上の仮説としてはあり得ても、教会の現場に「女性聖職者」を強要できるような段階ではないだろう。何よりも、上記のような主張の仕方では信頼を失うだけではないだろうか。

 ■批判の手法 【黙想から魔女狩りへ】

 信じがたい文があるので引用してみたい。
 「〔教皇書簡の〕前書き〔序文〕によると、女性の尊厳と使命ということは、常にキリスト教の黙想の対象であると書いてあります。この文章を読むとき、欧米の著者たちは驚いてしまうのです。なぜかというと、15年ほど前から、魔女の火あぶりについての研究の結果が一般に知られて、教会の責任も明らかになっているからです。………その理論も2人のドミニコ会士によって書かれているのです。………キリスト教の真の精神に反するこの本の結果、少なくとも100万人が殺されました。こうした恥ずかしい歴史的事実を全然考慮に入れず、教皇は、女性の尊厳が常にキリスト教の黙想の対象であると書いたので、批判的精神のある女性だけでなく大勢の人々が驚いたのです」(9~10頁)。
 
 コメントするにも困ってしまう主張だが、教皇書簡(の「序文」)には「女性の尊厳が常にキリスト教の黙想の対象である」という一文はない。「黙想」という言葉もない。それが翻訳の問題で教皇書簡の原文にその一文があったとしても、議論の流れとしてここで「魔女狩り」を持ち出すとは飛躍のし過ぎである。

 著者は、教皇が「キリスト教では過去一度たりとも女性の尊厳を踏みにじった事実はない」というような主張をしたときにこそ上記のような批判をすべきだろう。
 ちなみに、魔女狩りの犠牲者は、「少なくとも100万人」どころか、「15世紀前半から18世紀後半にかけて約4万人」(黒川正剛『魔女狩り』講談社、5頁、2014年)というのが事実のようである。
 
 ■批判のための批判

 ゴスマン氏はほかにも教皇に対する不満を述べているので、いくつか挙げてみたい。
 教皇は、①創世記1章、2章を解説する際に「緑の党などの運動家たちによる批判を全然受け入れ」ていない(12頁)、②「ラテン・アメリカ、フィリピンなどの基礎共同体にみられる新しい人間関係を認めていない」(13~14頁)、③「男性の父性愛の重要性についてあまり述べていない」、「お産のときに側にいて妻と一緒に苦しむ」夫のことを知らないようだ(24~25頁)、④「第三世界の子を育てている多くの夫婦」について何も書いていない(26頁)、などなど。
 
 なぜ、女性に関する教書で、これらの問題に触れなければならないのか全く理解できないが、ゴスマン氏は「教皇の考えかたは、狭すぎる」し、キリスト教の根本的真理についての認識が足りない(13頁)と批判を強める。ある神学教授の言葉を引用して「教皇は男性を差別している」(25頁)とも言う。
 ゴスマン氏は“書いていないものは、認めていないはずだ”という発想で教皇に対する批判を繰り返しているが、これでは揚げ足とりと言われても仕方ないだろう。
 
 さらに、教皇書簡の第8章(「もっとも大いなるものは愛である」)を「愛の秩序を守るのは、女性の使命」と一方的な要約し、「男性も愛の秩序を守ること、人間のパーソナリティを尊重することなどを自分の使命としないならば、わたしたちの世界の将来はどうなるのでしょうか」(25頁)と嘆く。しかし教皇が“愛の秩序を守るのは、女性だけの使命で男性は無関係である”と主張したわけではないのだから、これはゴスマン氏の誤読でしかないだろう。
 
 万事このような調子なので、書いてあることまで書いていないとされてしまうこともある。
 ゴスマン氏はイザヤ書42章14節と申命記32章18節の2か所を引用した後、「しかし、教皇はこうした聖書の箇所を引用せずに、男女が神の似姿として創造されたということと、神の男性的・女性的シンボルとの間に関係があるということを、ただ、認めているのです」(15~16頁)と言う。
 
 しかし、教皇書簡では、イザヤ書49章14~15節、66章13節、詩編131編2~3節が引用され、イザヤ書42章14節、46章3~4節、ホセア11章1~4節、エレミヤ3章4~19節を参照箇所として挙げている(教皇書簡、28頁)。申命記は取り上げていなくても旧約のおもだった箇所を扱っているのだから「こうした聖書の箇所を引用せずに……ただ、認めている」とは言えないだろう。
 
 ゴスマン氏は、教皇が取り上げていない、扱っていない、知らないのではないかと批判を繰り返すが、教皇書簡は学術論文でも辞典の項目記事でもなく、教会を教導する一般的な文書であるをことを忘れてしまっている。教皇書簡には価値がないと印象付けようとしているように感じられるが、彼女の過剰な反動だけが際立ってしまっているようだ。
 
 ■この小冊子の目的は何か
 
 ゴスマン氏は、教皇書簡が多くの人々に歓迎されていないことを強調しようとして「たくさんの女性」「大勢の人々」「多くの人々」「大勢の信者たち」「若い男性の世代」「多くの男性」から支持されていないと言う。

 問題は、それほど不評な教皇書簡をさらに批判する小冊子がなぜ「カトリック中央協議会」から出版されたのか、という点である。冒頭でもふれたが、サブ教材だと誤解される可能性は否定できない。
 いったい誰の企画なのか、どのような意図で出版されたのか、どういう読者層を念頭に置いているのか等、中央協議会に問い合わせたがいっさい答えていただけなかった(当時のこと。担当者はシスターのようだった。非礼がないように質問したが、上記の質問には「それは、ちょっと…」と、沈黙のままだった。十秒以上も黙ったままなので諦めるしかなかった)。

 私見では、当時の日本の教会に反バチカンのムーブメントが存在していて、女性司祭の誕生の可能性を否定するヨハネ・パウロ2世の使徒的書簡の影響力を弱めたかったからだと思う。
 当時、日本の教会では、バチカンに忠実な立場に対し、古くさいトリエンティスト、反動的信心主義者などという批判がなされていた。その中でのこの冊子の出版であった。
 
 こういった教皇批判のプロパガンダ文書が責任の所在も明らかにされないまま出版されたことは日本の教会にとって不幸な出来事であった。それによって、意義あるフェミニスト神学にも疑いの目が向けられてしまったかもしれない。
 このシニカルな小冊子『教皇書簡を読んで』によって、信仰上の正しい知識が得られるとも思えないし、健全な霊性を育んだり、教会の改革ができるとも思えないのである。

 ■この文書から学べること
 
 しかし、この小冊子によって、以下のことを学ぶことができた。
 
(1)「現代の聖書学」「現代の神学」という言い回しで、私たちが信じている教会の信仰に対し、不当な異議申し立てがなされることがある、ということ。
 聖書学は、聖書観、解釈の方法論によって、まったく違う結果が出るのだから、「原典からの最新の研究」だと主張されても鵜呑みにする必要はないこと。情報に惑わされないこと。
 当然、教会批判を使命とする野心的な専門家も多いので、その意味で伝統的見解への批判は継続されていることも知らなければならない。
 
(2)私たち信徒も(1)のような主張に対し、それを見破る、あるいは拒絶することのできる程度の教義上の基礎知識を身に着ける必要があるということ。「これこそ新しい研究」などと言われても簡単に信じ込んではいけない。

(3)一時期カトリック系のメディアで言われていた「教会の信徒育成は知識偏重となっている」という言葉には同意してはいけない。残念ながら、F会のH神父の例を見ても分かるように、力のある人物が教会の教えに反することを言っても、神学や聖書学の専門家はそれを指摘しないし、教導職も動かない(動く=問題発言にコメントする+処罰する)。厳しく対処できない諸事情も分からなくもないが、いわば無法地帯になるため、一部の賛同者が許容範囲の解釈として小教区などで拡散し、混乱を来たす可能性もある。したがって、信徒は聖なる教えを心のうちに保持したければ、自分で正規の教えを学ぶ必要がある。
 
(4)思想的に偏った人には、理性や知的誠実さを犠牲にしても、大衆を言いくるめようとする傾向があること。こういう場合、聖霊の働きとは到底思えないので要注意。このタイプの人は、独裁者的な発想を持ち、一般人が無教養であることを好むので、(3)にあるように、公的な信仰内容を学び直すことは急務であると思われる。
 
(5)上記の(4)のような人たちによって私たち信徒が見下されていたために、このような文書が出版されたということを現実の問題として考えなければならない。今日では、文書によってではなくても、SNSを使ったりして同様の刷り込みがなされないとも限らないのでさらに注意が必要である。
 
(6)少なくとも当時、教会の指導層には、この文書に賛同する人がいたということ。そして、もしかしたら今もいるかもしれないということ。また、この小冊子で教育され同調している人たちもいるかもしれないということ。この冊子は2018年頃にはまだ在庫があったのだが、問題にされないまま販売され続けていたという事実は、そういった賛同者の存在がうかがわせる。
 
 
 「女性司祭」について論じる本当に緻密で誠実な議論があるのであれば、それは信頼できる専門家たちが検討してくれるであろう。そのことに期待したい。しかし、この小冊子のようなものが教会の現場に提供されることだけは二度とないように祈りたい。
 
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[付記]
 *上記の文の元となったのは、1994年頃に仲間内のミニコミ誌に投稿した記事でした。しかし、手違いで締め切りに間に合わず、掲載されませんでした。その後、修正して再投稿しようとしましたが、FDに眠ったままでした。
 その元記事に大きく加筆したものが今回の記事です。自分のものとはいえ年月も経っているので作業は困難でしたが、補足しつつ、現在化を試みました。
 
 ゴスマン氏の小冊子は30年近く前に出版されたもので、最近品切れになったようですが、女性司祭の問題は再燃しつつあります。また、この小冊子を積極的に受け容れた人々も存在しました。ですので、古いものだから影響が完全になくなったとは言えません(20代、30代の時にこの小冊子を読んで刷り込まれてしまった人は、現在50代、60代ということになります)。また、このような文書が出されたという事実は、教会の教導(教会行政)の問題を考える上で忘れてはならないことだと思います。
 
 この小冊子を読んだときは本当に驚きました。「まさか」という思いで、動揺しつつゴスマン氏の主張を読んだことを覚えています。このような不正確な文書によって、われわれ信徒がバチカンとは別の方向に誘導されているように感じ、大変不快でした。何よりも信頼すべき教会の中枢からこのような文書が出されたことに驚かざるをえませんでした。また、この強引なやり方の背後に、バチカンと対立する「権威主義者たち」(日本の教会を自分の思うようにしたい人たち)が存在するのではないかと思われ、日本の教会の未来に不安を感じたものです。
 
 今回のブログへの掲載にあたって以下の点を特に強調したいと思います。①この記事は現在のカトリック中央協議会や現在の司教団を批判するためのものではありません。人員も大きく入れ替わっていることでしょう。②記事の趣旨は、ゴスマン氏のレトリックの杜撰さや事実誤認の問題、また、教義上の不正確さを指摘するためです。③この小冊子では、おもに「女性司祭」に関する問題を扱っていますが、その議論がなされたこと自体に不満をもっているのではありません。
 
 ゴスマン氏を仮名にすることも考えましたが、究極的には信徒の献金によって運営されているカトリック中央協議会の出版物でこのような主張をされているので、信徒の公益のためにも実名のほうがいいと判断しました。また、記事タイトルの「シニカルな」という言葉は、カトリック中央協議会出版部自身の表現を借用しました(品切れによってHPから削除されたかは未確認)。
 
 教皇ヨハネ・パウロ2世は2014年4月27日に聖人となりました。ということは、当然のことですが、この教皇書簡もカトリックの正統の教えであることが確認されたことになります。ゴスマン氏から「キリスト教の根本的真理についての認識が足りない」とまで評されたヨハネ・パウロ2世の名誉挽回?となりました。