第2講話 

 〇神の愛の計画

 ローマ1:7「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」。

 これはすべての信者に当てはまる言葉。神に愛される人には心の平和がある。

 その平和は神からのもの。すべての良いものは神からくる(カトリックの公理とも言える。創世記1:31参照)。


 現実の世界には苦しみが多い。しかし、深い喜びは、苦しみから始まる(十字架→復活のように)。

 信仰の光で自分を省みることは不可欠なこと。

 イザヤ43:8の「目があっても、見えぬ民……耳があっても聞こえぬ民」は、現在の私たちのことも語っている。しかし、神は私たちを贖われた。「恐れるな、わたしはあなたを贖う」(同1:1)と神は言われる。

 贖われた私たちは、「だれが、キリストの愛から……引き離すことができましょう。」(ローマ8:35)と書いてあるとおり、キリストとつながっているはず。

 そう感じないのであれば、回心が必要となる。

 ルカ福音書の放蕩息子の話(15章)は福音の原点と言える。〔実際に読む〕

 さらに、エフェソの信徒への手紙5:1~11は重要。〔実際に読む〕


 「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」(エフェソ5:1-2)。

 神が最初に私たちを愛した。キリストが先に私たちを愛して償いを捧げている。
 愛されていると知ることが先。神の本性は愛。愛は与えること。

 私たちは、その愛を受ける、いただく。そして、愛によって歩む。

 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(一ヨハネ4:10)

 「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」(エフェソ5:8)

 ヨハネ福音書の「サマリアの女」は名もない罪人だった。しかし、キリストに出会い、村の人々に証言し、「光の子」となった。光の子は「愛によって歩む」(エフェソ5:2)。

 大きなことは望まなくていいが、愛によって歩むことが大事。小さな信者は教会の宝。

 神から愛され、贖われていることを知り、人は愛するようになる。キリストに出会うことによって新たに生きることができる。

 

 神は愛ゆえに人間を愛し、その罪を贖い、赦しを与える。

 

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 余談:
 愛の神というと、旧約の神は残酷だという反論があるかもしれない。

 旧約の時代は、神はご自分のイメージをその民に任せた。彼らは、古代人として表現した。旧約聖書には表現上、時代的なものがある。(異教徒の殺戮などがあった)野蛮な時代であった。

 しかし、現代は社会のシステムや人間の思惟が野蛮になっている。神中心の価値が転倒してしまっている。多くの善意の人が、出エジプト前のイスラエル人のように神を呼び求めている。神がその叫びに応答してくれる時も遠くないかもしれない。