歴史とドラマをめぐる冒険

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麒麟がくる・第二十四回「将軍の器」・感想

2020-09-21 | 戦争ドラマ
2回見ただけなので、武士の棟梁という一点のみをテーマにして短く。

予想通り「武士の棟梁」という言葉が重要ワードになってきました。「武士の誇りを忘れぬ男・明智光秀」、、この言葉を聞いた時、私は随分考えて、それでも理解不能でした。武士の誇りというのは江戸武士的(観念的)で、戦国時代の武将で「大河において」ですが、そういう観念にこだわった人物をあまり思いつきません。真田の誇りとか上杉の誇りなら分かります。明智の誇りでも分かる。でも武士の誇りを「戦国武将が口にする」というのは、長く大河を見ている私にとっては驚きです。実際例えばこの作品でも斎藤道三は武士の誇りなんて言葉は全く口にしていません。わが子高政は嘘つきだから醜いとは言っています。でもおそらく道三の方が嘘つきです(笑)

十兵衛だけが何故か(実はその理由はおぼろげに分かっていますが)、道三から「ほこり」のみを継承するのです。本来なら兵の駆け引きとか、政治のやり方とか、権謀術数を継承するのが普通でしょう。そういうのはまるで継承しない。そして道三を「誇りの人」にしてしまい、「誇り高く、誇り高く」と考える。番組のプロデューサーが「武士という桎梏にとらわれ」と言っています。桎梏は足かせです。十兵衛はまるで「武士の誇り主義者」として振る舞うしかなく、柔軟な発想も自然な発想も「できにくく」なっている。嘘すらつけない。いつも本当のことを言う。

この「武士の誇り」主義が、本能寺に繋がることは明確だと私は考えます。

まあ正直に書くと「なんか変な人になってきてしまったな」というのが感想です。誇りのために生き、誇りのために死す。「〇〇の誇り」発揚のプロパガンダ作品ならそれでもいいのですが、大河でそれをやってほしくはない、というところです。もっと柔軟で変幻自在で、活動的で、人間味があって、、例えば真田丸の真田昌幸(草刈正雄さん)なんかはそういう人物で、わたしにとってはああいう人が、大河の主人公としてはふさわしいように思います。「観念にとらわれすぎ」ということです。大河は時代を映します。これも時代の反映なのか?(どうにもこの設定はおかしい、そうなるとそのおかしい事自体に意味があるはずだ。そう考えた時、このブログの次に書いた「隠されたメッセージ」という考えが生じてきました)

といってこの作品を否定する気は全くありません。むしろ大好きです。同じ回を何度見直すかわからないほど見ています。十兵衛を愛するがゆえに、もっと十兵衛を気楽に自由に、というより痛快に活躍させてほしいのです。

本能寺は「武士の誇りをめぐっておきる」ことも明確になってきたと思います。「十兵衛の誇り」ではなく「武士の誇り」です。だから十兵衛が個人的に「頭を叩かれた」とかいうことではありません。信長がもっと根源的に武士の誇りを奪うような存在になっていく。単に将軍を追放するとかいうことだけでなく、もっと根源的に。具体的にどういう形をとるのか。それは上洛以後の信長の描き方を見ないと分かりません。皇帝のような存在になろうとするというのも考えられます。そして名誉ある武士が、単なる「皇帝の手先に過ぎなくなる」とか。まあこれはないかな。でも皇帝だと、天皇をしのぐことになりますから、これも問題となる。史実としては正親町とは協力関係ながら、金銭的には信長がパトロンです。だから金銭的には「既にしのいでいた」わけで、そこは問題じゃないのですが、ネット世界の今の思想傾向を見ると「問題にする人がいるだろう」ということです。もっとも十兵衛の朝廷・天皇に対する考えは、今の時点では分かりません。公家と対面したことないからです。

イロハ大夫のいう「武士なんていなくなればいい」という言葉、信長が言った「戦が嫌いという言葉」が伏線として機能していくのかなと思います。そして、まあこれはあっと驚く裏技なんで使わないでしょうが、光秀そのものが「武士の時代を終わらせようとする。武士のほこりを守るために。」という飛躍的展開も、1%ぐらいあり得るかなと思っています。

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