歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

「麒麟がくる」は果たして相互補完をしているか。

2020-10-01 | 麒麟がくる
かなり散らかった文章ですが、あえて残します。

室町将軍などを研究している方が、というか関西系の方かな、まあともかくよく出す言葉が「相互補完」です。

「大名あっての将軍」「将軍あっての大名」とかそんな感じです。室町将軍が本当に無力なら、なぜ長く続いたのか。それは相互補完していたからだ、という感じになっていきます。

どうなんでしょうね。本当にそうでしょうか。どうもそうは思えない。少なくとも私はそんな風には考えない。もっとも「私の意見」なんて私すら「どうでもいい」と思うので、ここで学者さんに助けてもらいます。最近よく読む黒嶋敏さん「天下人と二人の将軍」。

12ページ
「信長と義昭が協調関係にあったとする場合、なぜその関係は崩れてしまったのだろうか。信長が義昭と連携し、室町幕府という体制に理解を示していたという前提にたつとするならば、それを崩壊に導いた原因は、一人義昭のみに帰することになってしまうだろう。
しかし、史料をめくっていくと、幕府崩壊の理由はそんな単純な話でもないようだ。もっと根の深い構造的な問題が、義昭の幕府には内在していたと考えられるのである。」

しごく当然の指摘です。信長が幕府というものにずっと理解を示していたなら、義昭追放という「結果」は、「一方的に義昭の方に問題があった」ことになる。

その「結果」を認めたくない論者は、ここからは私の意見ですが「何とか義昭の子を将軍にしようとしていたのだ」という論法を立てるわけですが、苦しいというか、無茶苦茶な話です。追放したのだから「追放する、そして京都においては幕府を認めない」という気持ちは存在する、これは間違いない。しかし「本当は幕府を存続させたいのだけど、泣く泣く追放した」という意識が存在するかどうかは分からない、論者の考えようでどうにでもできる問題です。

黒嶋さんの引用の「協調関係」というのが「相互補完」で、そのものずばり「相互補完」と書いていないのは、「無用な軋轢を避ける」ためかなと私は思っています。

黒嶋さんの論をここで紹介すべきなんでしょうが、まだ考えていることがあるので、それは宿題とさせてください。

さて、話は「麒麟がくる」に戻ります。

信長は義輝に会いにいきます。そして仲介を頼むと「官位をあげる。相伴衆にする」と言われ、首をひねり、断ります。官位は将軍を通してもらうものです。もらえば天皇や将軍の「お墨付き」がもらえます。いわゆる「正統性」です。しかし信長は断るというか、どうでもいいという態度を見せます。将軍がくれる権威付けなど現実の前では無効だという態度です。それを十兵衛に確かめます。十兵衛もまた無効だと判断します。

「将軍あっての大名」という関係はここにはありません。相互補完は成立していないと考えてよいでしょう。ドラマの話ですから史実とは関係ありません。しかしこれだって強引に「幕府に会いに行ったのは信長がその権威を認めているからだ、、、とドラマで描きたいのだ」ということもできます。この強引な論理を、認めたら、なんでもあり、となります。どんな場合でも相互補完が成立する。殺しあっていても「愛と憎しみは裏表だ」とすれば「相互補完で殺しあう」ことになります。

一方義龍は官位をもらっています。相互補完の中に入っていきます。しかし結局、義龍の子の代で、斎藤氏は美濃衆に見捨てられ、美濃は信長のものとなります。

やはりドラマ内においては相互補完は成立していません。

私が黒嶋さんの論は素晴らしいと思うのは、自分の頭で考えている感じを強く受けるからです。それに比して相互補完という言葉が好きな学者は、初めからその結論を持っているわけです。一種の思考停止です。だから「つまらない文章」になるのです。

つまり結論としては「相互補完と書いて、それで良しとしている学者」が好みじゃないという個人的感情を書いたのだということになります。私がそう感じる。ただそれだけです。史料を読むことにかけては秀でているし、私などできない行為です。しかしそれを歴史論として構築していく段階で、相互補完論という「大きな、仲間が沢山いる物語」に頼ってしまう。だから「お仲間たち」の文章は、私には金太郎飴のように、どれもこれも同じに見えるのです。私には。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿