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前十字靭帯再建のリハビリと、日々のこと

ファイト・クラブで描かれている暴力のメタファー

90年代を代表するカルト映画のひとつである『ファイト・クラブ』。10代の頃、レンタルビデオ店でおすすめされていたのを手に取ったものの、パッケージ裏面の紹介文の、とても暴力的な内容にそっと棚に戻したのを今でも覚えている。

あれから20年弱たってようやく観られた。リアルな暴力シーンは反射的に痛々しくて、直視するのを拒みたい衝動に襲われます。反対にこの暴力が暗喩するものが痛いほどに理解できる自分もいる。理解したくないけど、理解できる。吐きそうなほど嫌悪するのに、共感する。そんな相反する感情が共存する作品でした。

 

ストーリー

不眠症の主人公が出張から帰ると、マンションの自室で爆発事故が起き、住む場所も持っていた物すべて失っていた。ふと飛行機でたまたま隣の席にいたタイラーを頼り、なりゆきでそのままタイラーと一緒に廃墟に住みはじめる。タイラーとの殴り合いを行う中で充足感を覚えていき、2人は男同士で殴り合う秘密組織ファイトクラブを作る。どんどん大きくなっていくファイトクラブ。タイラーを中心とした組織の行動はいつしかエスカレートしてゆく。

 

物語のキーである暴力。それだけをクローズアップすればただのヴァイオレンス映画でしかない。2時間半も延々と続く単純な殴り合いなんて退屈以外の何者でもないでしょう。しかしこの映画の中ではしっかりと、なぜその暴力衝動が起きたのかが提示されている。

 

語り部でもある主人公は、若いながらも高層マンションに住むホワイトカラーの勝ち組。日々の空虚を家具を揃えたり、ブランドの洋服を買うことで埋めているが、申告な不眠症は治らない。対してブラッド・ピット演じるタイラーは、廃墟に住み、自由奔放かつ、何も持たない生活をしており、行動すべてが堂々としている。主人公とは正反対の性格にいつしか憧れを抱いていく。

 

特に一番影響を与えたのが、タイラーが生きている実感を常に感じながら生きていること、そしてその方法をシンプル、かつ分かりやすい方法で提示している点である。

それが殴り合いという形の暴力であり、互いに与え合う時に得た痛みなのである。

 

単に相手をタコ殴りにするのでもなく、相手に勝ち自分の力を誇張するのでもない。

対峙する2人がお互いに殴り、痛みを得ることで、生きているという充足感を得る。

この時得た喜びは麻薬のように素晴らしいものである。それを裏付けるように2人で初めた殴り合いは、いつしか多くの共感者を得てファイトクラブに組織されていく。

 

参加しているメンバーも決して社会に大きく取りこぼされた人間ではない。レストランを筆頭に昼間は普通にに働いている。余暇として楽しむ麻薬としてファイトクラブが存在しているのである。

普段は歯車として生きる彼らは、日々の暮らしのなかで様々なストレスを受け、理想とする自分自身とのギャップを広げている。そのストレスを開放し、自分が自分であることを確認するために夜な夜なファイトクラブに集結する。体中に痣を作って、怪我をして、そしてようやく自分が満たされる。

 

つまり、暴力こそが麻薬であり、さらにそれが暗喩しているものこそ、うまく言い表わせないけれど、誰もが様々な形で持っている承認要求のようなものではないかと思う。

 

こうなりたい、こうみられたい、こんな風に生きたい、本当はそうじゃないのに。

そんな自分だけしか理解出来ない日頃感じている空虚を少しの間だけでもいいから埋めたい。そして理想に近づきたい。そのためだけに狂ったかのように殴りあう。

暴力が示すメタファーを考えれば考える程、ファイトクラブの中毒性が理解できていく。

中毒性があるから、もっと欲しくなる。結果としてエスカレートしていく行動と、どんどん兵隊の様になっていくメンバー。そして主人公が口に銃を突きつけられている冒頭のシーン(=ラストシーン)につながっていく。

すごい、分かりやすい。

 

暴力はもちろん衝撃といわれる物語の結末も含めても『ファイト・クラブ』は90年代最大のカルト映画であると思う。