うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『わが半生』溥儀 その2――宮殿の異常な人びとと、そこにたかる人びと

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 溥儀は皇后と結婚し、また妃を迎えた。婚礼行事は清朝時代のように盛大におこなわれたため、国民からの反感を買った。各外国行使が出席し、また各地に散っていた清朝の遺臣たちが春の虫のようにやってきた。

 しかし、結婚して何が変わるわけでもなく、溥儀は幻滅を覚えた。

 かれは、本来なら皇帝の親政が始まるはずだと歎き、親政が行われなければならない、と考えた。

 

 

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 溥儀に仕える役人や父親は保守的で、一切の新しい試みを嫌がった。眼鏡の着用や電話の設置を反対され、溥儀は反発した。

 英国留学をしようとしたが、清室はどうしても溥儀を外に出そうとしなかった。かれはジョンストンの助けを借りて紫禁城を脱出しオランダ公使館に駆け込もうとしたが、宦官の内通によって脱走に失敗した。

 一方、ジョンストンは、著作では脱走計画には反対していた、と書いているという。

 

 

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 城内の治安は悪く、窃盗、暴行、殺傷がよく起きていた。

 宮廷の財宝は太監(宦官)たちによって収奪されていた。溥儀が宝物庫の目録を作ろうとしたところ、突如火事がおこり、そのどさくさにまぎれて役人たちが次々と財宝を盗み出した。

 最終的に溥儀は大多数の太監を追放することに成功した。

 

 

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 続いて溥儀は内務府の整理にとりかかった。

 内務府は横領がひどく、溥儀清室の出費は乾隆帝以来最大となっていた。溥儀は腹心を使って内務府の汚職・腐敗一掃にとりかかるがすぐに業務がストップし腹心に対する嫌がらせが起こったため失敗した。

 内務府の役人は非常に金持ちで工場を経営するなど活発だったが、一方で皇族たちは貧乏に苦しんでいた。

 とはいえ溥儀の行動も一貫性がなく、内務府の整理を命ずる一方で外国犬の育成や西洋料理用キッチン設置に巨額を投資し、また気まぐれに一般人に対し恩賜を与えた。

 

 

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 第2次奉直戦争に伴い張作霖が敵である呉佩孚の部下、馮玉祥と通じ呉を敗退させた。馮玉祥は北京に入城すると、国民軍が紫禁城を包囲し、清室に対し民国の優遇措置の廃止、溥儀らの城からの追い出しに同意を迫った。

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 溥儀と役人たちはいったん北府(醇親王一族の王府、北京市北部)へと避難した。

 間もなく馮玉祥が外国の支持を得られず、張作霖と段祺瑞が民国政府を継承することになり、溥儀らの特権は継続されることが決まった。

 一連の政変のなかで、日本軍と日本公使館が一貫して溥儀を支援したため、かれは日本人に対する親しみを覚えた。

 日本は溥儀に対する追放措置を非難し、保護を申し出た。段祺瑞は日本軍にとって都合の良い人物だった。

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 紫禁城を追われた溥儀には3つの選択肢があった。

 

・民国政府の支持を受け入れ平民となる

・優待条件を継続させ、引き続き皇帝として紫禁城に残る

・外国の力を借り、清朝復興を目指す

 

 イギリスかアメリカに留学したいという溥儀の希望もあったが、内務府や父、役人たちの意見が分かれ決断はスムーズにいかなかった。

 最終的に、溥儀は日本公使館によって保護された。

 

 

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 北京駐在の芳沢公使の保護を受けて溥儀一行は天津に移動し、日本総領事館の保護下に入った。一連の動きには日本外務省と軍特務機関が関与しており、天津総領事は吉田茂だった。

 

 

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 4章 天津にて

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 1924年 第一次国共合作

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 1925年 国民革命軍による北伐開始(対張作霖ら)

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 家臣たちは今後の清室の方針をめぐって抗争を続けていた。家臣たちは自分たちの行く末が心配であるにすぎず、溥儀から与えられた下賜品(直筆の書など)を売って、買収資金にするなどしていた。

 

 溥儀は日本の租界に避難しつつ、趨勢を見守った。

 

 ――「日本はただ利権をはかるのみであり、義によって復辟を援助することはありえない」と言った者さえいた。

 

 

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 溥儀は日本租界時代、張作霖やその部下張宗昌(ゴロツキから将軍になった人物、アヘン中毒)らと親しく交際し、清朝復興の機をうかがっていた。

 田中上奏文(日本の満蒙征服計画を暴露したとされる文書、のちに偽書と判明)は周囲に反日感情を呼び起こしたが、溥儀はこれをかえって復位の兆しとして希望を抱いた。

 

 1928年 蒋介石、馮玉祥らの合作(張作霖は既に爆殺)

 張作霖は日本のコントロールを外れようとしたため爆殺されたが、溥儀は、日本は自分に対しては利用価値を見出すだろう、として警戒しなかった。

 

 

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 白系ロシア人セミョーノフについて。

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 ――セミョーノフは帝政ロシアの将軍だったが、ソ連赤軍によって撃破されたのち、残った部隊をひきいて中国内の満蒙国境地帯にのがれ、うちこわし・略奪・強姦・放火・殺人、あらゆる悪のかぎりをつくした。……その間……中国の軍閥や外交人政客に働きかけてパトロンをさがしたが、結局銘柄が悪いので、純粋のゆすりたかりになってしまった。

 

 1920年代前後にかれの部下・同盟として戦争を行っていたのがウンゲルン・シュテルンベルクである。

 

 溥儀は、前述の輩のような張宗昌や、セミョーノフにたぶらかされて巨額の援助を行った。

 

 ――セミョーノフが結局どのくらいの金を持っていったか、私にはもう計算しようがない。覚えているのは、「9.18」事変(満州事変)の2,3か月前になっても、八百元取っていったということだけである。

 

 セミョーノフ、張宗昌の両者とも日本軍の支援を受けていた。日本軍はシベリア出兵時代からセミョーノフに軍事援助をおこなっていた。

 

 溥儀の周囲には怪しい山師が多数集まり、かれは深く考えずに金を出した。

 「伏龍鳳雛」に匹敵するといわれたある男は、軍を動かすためと称し溥儀から金品をたかっていたが、借金がかさみ、東北各地でゆすりをしている中で敵に射殺された。

 

 

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 溥儀は日本軍とさらに親密になり、司令部の参謀から内戦に関する講義を受けるようになった。日本軍は、中国を平定するには皇帝の権威が必要だと力説した。

 溥儀に取り入ったのは、天津の駐屯軍、日本公使館、天津の日本総領事館、「軍人とも民間人ともつかぬ日本の大陸浪人」だった。

 領事館=外務省と陸軍は、溥儀の取り扱いに関して対立していた。日本軍は黒龍会を使い、溥儀や配下の中国人に取り入り、租界から旅順へ溥儀を連れ出そうとしていた。日本軍は三野公館という屋敷を使い、女、金、アヘンで臣下を買収した。

 

 黒龍会の前身は玄洋社であり、平岡浩太郎が設立した。黒幕の頭山満の指示の下、中国各地に偽装施設を作り、中国人を取り込んでいった。

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 家臣の1人、鄭孝胥(てい こうしょ)は日本に渡り、溥儀の代理人として軍人、黒龍会員、吉田茂有田八郎らと交流を持った。

 鄭は日本を清朝復興の足がかりにしようとしつつ、諸外国による中国の「共同管理」論を持ち続けたため、満州国設立後程なくして排除された。

 

 ――これはまるで強盗の手引きをする召使が、主人の家の表門を開き、一団の強盗を引き入れて、その強盗の大番頭をつとめながら、まだ物足りず、どうしてもあらゆる強盗団に招待状を出して広く招かねばならないとするようなものだった。これがすでに門を入っている強盗を怒らせたのは当然だった。かれは一蹴りで蹴飛ばされてしまったのである。

 

 

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 租界での生活と、妃の文繍の離婚について。

 

 

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 5章 東北潜入

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 1929年には、溥儀が頼みにしていた東北の軍閥たちは易幟を宣言し国民党に加勢し(1928年)、溥儀の下には鄭孝胥や羅振玉といった忠臣だけが残った。

 溥傑は学習院に留学していたが、帰り際に陸軍の吉岡安直(後、溥儀の御用掛)から事変についてほのめかされた。

 

 1931年9月18日の満州事変に伴い、溥儀らは復位に向けて本格的に動き出した。

 ジョンストンから連絡があり、英国はこの時点では日本を支持していることがわかる。

 

板垣征四郎

・高山公通(きみみち)

内田康哉満鉄総裁

・香椎浩平

・南次郎

 

 

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 軍部と外務省の意見対立について。

 

 

 3

 溥儀は、土肥原の説得を受けて、瀋陽に向かうことに決めた。土肥原賢二は中国での謀略・工作を専門にしてきた人物だった。

 本書によれば、土肥原の中国語は大したことがなく、通訳を連れていたという。

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 天津租界から、夜、日本の偽装輸送艦に乗って港を脱出し、瀋陽に向かった。溥儀は、日本軍の御膳立てで自分が清朝皇帝として復位すること、東北では、多くの民衆が自分を出迎えてくれることを期待していた。しかし、港にいたのは少数の日本人だけだった。

 実際は秘密裡に連れてこられたことが判明した。

 瀋陽では、日本側の工作担当者である甘粕正彦(元憲兵大尉、後中国で工作)や大陸浪人上角利一らが溥儀らを出迎えた。

 

 

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 瀋陽において、また護送された後の旅順において、溥儀は軟禁状態に置かれた。かれは、日本側が溥儀の復位を宣言せず、検討を続けていることに疑念を抱いていた。

 このとき日本は、満州をどうするか、政府、軍内部でもめていた。溥儀は、いまだに国体の問題が解決していないという板垣の言葉に不信感を持った。

 一方、家臣の羅津玉と鄭孝胥とは、お互いに自分の権力を強めようと、我先にと日本軍に取り入っていた。その様子を溥儀はただ観察した。

 

 

 [つづく]