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【中原中也】全詩集からおすすめ詩と生い立ちまとめ|『山羊の歌』『在りし日の歌』『初期短歌/ 未刊詩篇』

2017年4月29日は、詩人中原中也の生誕110年の記念日でした。

私はおそらく世界で1番熱狂的な中原中也ファンだろうと自負しています。

なので、生誕記念日に合わせてぜひ読んで欲しい中也の詩と、波瀾万丈な彼の人生をまとめておくことにしました。

中也と言えば「サーカス」とか「汚れっちまった悲しみに……」とかが有名ですが、それ以外にも本当に素晴らしい詩がたくさんありますので、この機会に中也の詩にふれてもらえたら嬉しいなぁと思っています。

ちょっと長いので…(1万6千文字あります)、目次を活用して読んでみてくださいね。

目次

詩人・中原中也の生い立ち

これが私の故里(ふるさと)だ
さやかに風も吹いている
    心置なく泣かれよと
    年増婦(としま)の低い声もする

ああ おまえはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云う

中原中也「帰郷」より

中原中也は1907年(明治40年)4月29日、山口県山口町(現在の山口市湯田温泉)で中原医院の医師であった中原謙助・フク夫妻の長男として産まれました。

結婚7年目、父30歳でようやく授かった子供であり長男だったため、両親の喜びはひじょうに大きかったようです。

中也は生まれる前からもてはやされた子供だった

母フクさんの言葉通り、中也の誕生からなんと3日間にわたって盛大な誕生祝いが行なわれたそうです。

そして、弟の思郎さんが「(中也は)別格に育てられた」と語るほど、大切にされ溺愛されて育ちました。

軍医であった父の転任に伴い、幼い頃は広島や金沢などを行ったり来たりして過ごします。

中也が通っていた広島女学院付属幼稚園には、偶然にものちに恋人関係となる長谷川泰子さんも通っていたのですが、中也は死ぬまでそのことを知ることはありませんでした。

弟の死と初めての詩

吹く風を心の友と
口笛に心まぎらわし
私がげんげ田を歩いていた十五の春は
煙のように、野羊(やぎ)のように、パルプのように、

とんで行って、もう今頃は、
どこか遠い別の世界で花咲いているであろうか
耳を澄ますと
げんげの色のようにはじらいながら遠くに聞こえる

中原中也「(吹く風を心の友と)」より

大正4年1月、10歳で弟亜郎を病気で亡くしたことがきっかけで、生まれて初めて詩を作ります。

この詩は発見されていませんが、中也の「詩的履歴書」には、亡くなった亜郎を歌ったのが「そもそもの最初である。」と記されています。

亜郎は身体が弱く、中也と共に小学校に通うことができませんでした。

小学校へ向かう中也の背中に向かって「早う帰れ」と言い、帰ってくる時間を見計らっては裏門に立ち、「お兄ちゃん、早う帰れ」と言いながら待っていました。

可愛がっていた弟の死が、中也の詩心の源泉となります。

その後、母フクとともに『婦人画報』などに短歌の投稿を始め、選ばれて掲載されることも多くなりました。

筆とりて手習させし我母は今は我より拙しと云ふ

「婦人画報」大正9年2月号

冬去れよそしたら雲雀がなくだらう桜もさくだらう

冬去れよ梅が祈っているからにおまへがいては梅がこまるぞ

冬去れば梅のつぼみもほころびてうぐいすなきておもしろきかな

「防長新聞」

山口中学

大正9年4月に中原中也が入学した「山口中学(現在の山口高等学校)」は、成績優秀な生徒の集まるエリート校でした。

現在でも、山口高等学校は岸信介氏や佐藤栄作氏といった総理大臣経験者の出身校として有名で、政界、経済界、文学界など幅広い分野に多くの著名人を輩出しています。

最初こそ優秀な成績を収めて入学した中也でしたが、次第に成績は落ちていきました。

両親は中也を医者にすることは望んでいませんでしたが、それでも「小説家にでもなろうか」と言った中也の言葉は絶対に認めませんでした。

「大学を出てどこかに勤めること」

そうした両親からの期待は重圧となり、自由に遊んでいる同級生を見ては「なぜ自分は彼らにようにしてはだめなのか」という疑問を持ちはじめます。

15歳になると、友人2人と共著し「末黒野」という歌集を刊行。

「末黒野」は好評を得て、中也自身「少しは売れた」と書いていますが、文学にのめり込みすぎたせいで成績はどんどん低下、ついに山口中学を落第してしまいます。

両親の落胆は、それはもうひどいものでした。

父謙助は3日間往診に出られないほどのショックを受け、なんとか世間体を保つための方法を模索することになるのでした。

長谷川泰子との出会い

月は空にメダルのように、
街角に建物はオルガンのように、
遊び疲れた男どち唱(うた)いながらに帰ってゆく。  
――イカムネ・カラアがまがっている――

その脣(くちびる)は胠(ひら)ききって
その心は何か悲しい。
頭が暗い土塊(つちくれ)になって、
ただもうラアラア唱ってゆくのだ。

中原中也「都会の夏の夜」より

中原中也の詩と生活を振り返る上で、長谷川泰子さんの存在を避けて通ることはできません。

中也にとって長谷川泰子さんは、生涯をかけて愛したたった1人の恋人でした。

女優と中学生

中原中也と長谷川泰子さんの出会いは大正12年末の京都です。

その頃、泰子さんは京都の「表現座」で劇団員として芝居の稽古をしていました。その稽古場に、劇団員ではない小柄な中学生が出入りするようになります。16歳の頃の中也です。

中原中也は山口中学を落第した後、父の勧めで京都の立命館中学に編入。山口から単身京都に出てきていました。

大正十二年春、文学に耽りて落第す。京都立命館中学に転校す。生れて始めて両親を離れ、飛び立つ思いなり

中原中也「詩的履歴書」より

中也を「表現座」の稽古場に連れてきたのは大空詩人の永井叔(ながいよし)さんだったそうです。

永井さんが街角でバイオリンを弾いていると、中也が「おじさん面白いね」と言って近寄ってきたのです。

中也は常に出会いに飢えていて、人とのコミュニケーションで得られる刺激に執着していた人ですから、京都時代には誰彼となく声をかけては友達作りをしていたのでした。

永井さんは、京都の街角で出会った風変わりな中学生を長谷川泰子さんに引き合わせます。

泰子さんもまた、故郷広島から永井さんに連れられて(「拾われて」と言っても良いでしょう)京都に来ていたのです。

中也16歳、泰子さん19歳での出会いでした。

そこから、2人の運命の糸は激しくきつく絡まりあい、死ぬまで解けることはありませんでした。

ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けましょう。
波はヒタヒタ打つでしょう、
風も少しはあるでしょう。

沖に出たらば暗いでしょう、
櫂(かい)から滴垂(したた)る水の音(ね)は
昵懇(ちか)しいものに聞こえましょう、
――あなたの言葉の杜切(とぎ)れ間を。

月は聴き耳立てるでしょう、
すこしは降りても来るでしょう、
われら接唇(くちづけ)する時に
月は頭上にあるでしょう。

中原中也「湖上」より

京都での同棲生活

 「ぼくの部屋に来てもいいよ」

所属していた「表現座」が解散となり、行き場のなくなった長谷川泰子さんを心配した中也は「ぼくの部屋に来てもいいよ」と声をかけます。

その時2人はまだ恋人関係ではなかったわけですが、住む家もなくお金もなく途方に暮れていた泰子さんは、この3歳年下の中学生の申し出に甘えるより他に道はありませんでした。

北野の古い寺の隣にあったという中也の下宿は、新しく立派で、下宿人もたくさんいたと泰子さんは回想しています。

その下宿屋の2階の6畳で、2人の男女の奇妙な同棲生活がはじまります。

まだ肉体関係はなかったため、夜は部屋の端と端に布団を敷いて眠っていたのだそうです。

兄と妹のように

いかに泰子、いまこそは
しずかに一緒に、おりましょう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情け、みちてます。

いかに泰子、いまこそは
暮るる籬(まがき)や群青の
空もしずかに流るころ。

いかに泰子、いまこそは
おまえの髪毛なよぶころ
花は香炉に打薫じ、

中原中也「時こそ今は……」より

中也より3つ年上の泰子さんでしたが、複雑な家庭環境で育ったせいか世間知らずで生活能力が低く、その上、潔癖性で神経質な女性でした。

ただ、中也と暮らしている時には精神の不調はそれほど重くなく、彼女は姉と言うより妹のような立場で中也の世話になっていたのです。

中也はもともと中原医院の長男として育ったため面倒見が良く、他人の世話を焼くことが苦にならない性格でした。

電球の取り替え方さえ知らなかった泰子さんを、中也は時に父親のような視線で、親身になって面倒をみていたのでした。

そのうち2人は関係を深めていくことになりますが、中也との性生活について、泰子さんは「気の滅入ることが多くありました」と語っています。

私はその頃まだ性に無頓着で、下宿においてやるよという親切心だけを信じて、そこへ行ったんですから、中原の求めるままに、身体をまかすのはつらく感じました。自分の生活があまりにみじめに思えて、気の滅入ることが多くありました。

長谷川泰子「中原中也との愛-ゆきてかへらぬ」より

泰子さんにとって中也は「同居人」であり、それ以上でもそれ以下でもなかったのです。

しかし中也にとって泰子さんは、当然のことながら「恋人」でしたし、自分の詩を読んで時には涙まで流してくれる「最良の読者」でもあったのです。

中也と泰子さんの気持ちには、そもそもの最初からズレがあったのかも知れません。

この頃、中也と泰子さんはお互いの恋愛観について語り合い、何度も衝突しています。

成程 / 共に発見することが楽しみなのか / さうか、それでは俺に恋は出来ない / お前を知る前既に / お前の発見することを発見しつくしていたから

中原中也『ノート1924』より

気が強い泰子さんのこと、3つ年下の中学生に訳知り顔でこんなことを言われたら、きっと腹が立つ日もあったに違いありません。

でも泰子さんには、中也のそばにいるより他に生きる道が無いのです。

腹立ち紛れに部屋を飛び出すこともあったようですが、結局行き場は無く、がまんをして帰っていたのでしょう。

縫物 / 秘密がどんなに織り込まれたかしら / 女は鋏を畳の上に出したまま / 出て行った

中原中也『ノート1924』より

その頃の中也は、古本屋で読んだ「ダダイスト新吉の詩」に影響され、ダダイズム風の詩を書いては泰子さんや友人達に批評してもらっていました。

ダダイズムと破滅的思想

ダダイズムとは、第一次世界大戦中のスイスで、ルーマニアの詩人トリスタン・ツァラらが中心となって始まった芸術運動のことです。

それまでの芸術形式や芸術的価値観を全て否定するという破壊的な芸術運動で、当時、ヨーロッパで多くの芸術家に影響を与えたと言われています。

日本には大正9年に雑誌でダダイズムが紹介され、それを読んで刺激を受けた高橋新吉が、22歳で詩集『ダダイズム新吉の詩』を刊行したのでした。

親の手紙が泡吹いた

恋は空みた肩揺った

俺は灰色のステツキを呑んだ

足 足

  足 足

   足 足

         足

高橋新吉「自滅」より

親からの期待に反発を覚え、すでにタバコや酒をのみ、放蕩していたという中也。破滅的な高橋新吉の詩が、中也の心を大きく揺さぶります。

「ダダさん」と呼ばれていた頃

当時の中也はダダイストを気取り、ビエロのようなダブダブで足首の絞ったズボンをはき、黒いマントを羽織り黒い帽子をかぶって京都の町を歩いていました。

この格好は、中原中也の写真としては最も有名な、詩集の表紙によく使われるモノクロ写真を撮った時にも同じ服装をしているのだそうです。

もっともこの写真は、中也の死後に修正され瞳が拡大されているために、本当の中也の顔では無くなっているように感じます。

この、↓下側の大勢でうつっている写真は、「スルヤ」の第2回演奏発表会で撮られた写真(『別冊 太陽』より転載)です。

前列右端に座っているのが中也で、集合写真の時に1人だけ顔を背けていたり、1人だけ帽子を取っていたりして目立っていることが多いです。

ちなみに、左端が小林秀雄です。

まさか恋敵だからというわけでもないでしょうが、なぜか2人して顔を背けあっているように見えます。

京都では泰子さんと暮らしながら、友人達には「ダダさん」と呼ばれ一目置かれる存在になりますが、その激しい性格から敬遠されることもあったようです。

富永太郎との出会い

僕には僕の狂気がある
僕の狂気は蒼(あお)ざめて硬くなる
かの馬の静脈などを思わせる

僕にも僕の狂気がある
それは張子(はりこ)のように硬いがまた
張子のように破けはしない

中原中也「僕が知る」より

中也より6歳年上の詩人富永太郎は東京の高等学校で理科を学んでいましたが、人妻と不倫をして、それが事件となり退学。

その後、東京外国語学校でフランス語を学んだり、絵画研究所に通ったり、永住しようと上海に渡ったりしたものの、どれもうまくいかず、友人を頼って京都に来ていたのでした。

中也の通う立命館中学で非常勤講師として働いていた富倉徳次郎が富永太郎の友人だったため、そのつながりから中也と富永太郎は意気投合します。

富永太郎から小林秀雄を紹介され、そこから河上徹太郎、大岡昇平、諸井三郎、安原喜弘と、文学系の大学生達と交流を深めていきました。

彼は既に普通の大人がするより遥かに多くの人生を経験していた。教室の彼の席は多く冷えたままであり、彼はズタ袋のような上衣を着、異様な大黒頭巾を頂いて街をさまよった。多くは年上の青年達と交際した。彼は既にパイプをくゆらし、女を知った。

安原喜弘「中原中也からの手紙」より

ダダイズム風の詩について、深夜まで2人で語り合っていたこともあったようですが、中原中也と富永太郎の友情はそれほど強固なものではありませんでした。

それは、2人の詩的な方向性や考え方にズレがあったこともありますし、富永太郎の体調が思わしくなく、喀血したことの不安も大きく、遊び人の中也と楽しく交流している場合ではなかったということもあると思います。

それでも、「交友関係が一気に広がった」という意味で、中也にとって富永太郎の存在は大きかったのです。

出会いから1年あまりたった大正14年11月12日、富永太郎が病死。延命のためにつけられていた酸素吸入器を、自分の手ではずしたのです。

電報で富永の死を知った中也は、すぐに弔問に駆け付けました。

布団に仰向けに寝た富永太郎の遺体の写真を、中也は「詩人の死顔です」という言葉をつけて、母フクヘと送っています。

この時フクへ送った手紙は、そのままの形で「新潮文学アルバム中原中也」に掲載されています。

富永にはもつと、相(ママ)像を促す良心、実生活への愛があつてもよかつたと思ふ。だが、そんなことは余計なことであらう。彼の詩が、智慧といふ倦鳥を慰めて呉れるにはあまりにいみじいものがある。
そしてこれが、夭折した富永である。誰の目にも大人しい人として映つた。富永がいまさらのやうに憶ひ出される。

中原中也「夭折した富永」より

小林秀雄

大正14年に泰子さんとともに上京した中原中也は、富永太郎の紹介で小林秀雄と出会っていました。

東京で中也と暮らしていた長谷川泰子さんが、中也を裏切り小林秀雄のもとに走った事件はあまりにも有名です。

この事件が起こった時、中也は富永太郎の遺稿出版のために奔走したり、富永の実家に手紙を書いて送ったりして忙しくしていました。

まさか、自分の恋人と友人が、自分を欺く作戦を考えていたなんて知る由もなかったのでしょう。

私は中原に対して、別にやましいところがあったとは思っておりません。私にも将来のことをいろいろ考えなければならぬ時期だと思えたから、あれこれ思案するうちに、ひどく悩んでいたようでした。そんな私のことを心配し、小林はいたわってくれました。

長谷川泰子「中原中也との愛ーゆきてかへらぬ」より

富永太郎が亡くなったのと同じ月、大正14年11月の下旬に泰子さんは中也の下宿から出ていくことを決意します。

小林秀雄に恋い焦がれていたのではなく、中原中也との生活を清算したいというのが動機でした。

私は小林さんとこへ行くわ

そう言って荷物をまとめる泰子さんに、中也はただ一言「ふーん」と言いました。

ちょっと遊びに行くくらいのものだろうと、勘違いしていたのではないかと泰子さんは語っています。

私は恰度、その女に退屈していた時ではあつたし、といふよりもその女は男に何の夢想も仕事もさせないたちの女なので、大変困惑していた時なので、私は女が去つて行くのを内心喜びともしたのだつたが、いよいよ去ると決つた日以来、もう猛烈に悲しくなつた。

中原中也「我が生活」より

中也にとって泰子さんは世間知らずの手の焼ける女房に違いなかったのですが、それだけに、可愛くて仕方が無い娘のような存在でもあったのでしょう。

結局その日、泰子さんが持ちきれない荷物を小林秀雄の下宿まで届けた中也は、小林の「ちょっと上がれよ」の言葉に従い、2人の新しい愛の巣に足を踏み入れます。

小林秀雄に向かって皮肉を言う中也に、「そんなことは言うな」と目配せしてくる泰子さん。

まるでまだ自分の女であるかのように振る舞う泰子さんをみて、「それではどうして私を棄てる必要があつたのだ。」と怒りをつのらせる中也。

泰子さんは「中也は実感が湧かなかったのではないか」と分析していますが、実際には、中也が大きなショックを受けて狼狽えていることが分かります。

俺は、棄てられたのだ! 郊外の道が、シットリ夜露に湿っていた。郊外電車の轍の音が、暗い遠くの森の方でしていた。私は身震いした。

中原中也「我が生活」より

東大文学部フランス語学科の学生だった小林秀雄は、昼間は学校に出掛けていました。

中也は、小林のいない時間を見計らって泰子さんをたずねてくることがよくあったそうです。

そして、泰子さんを殴ってケガをさせることもありました。

泰子さんによると、同棲している間は暴力をふるったことなど無かったそうですから、やはり「自分のもの」だと思っていた女が突然離れていったことに悔しさを感じていたのでしょう。

小林と泰子の同棲生活も破綻することに

小林との同棲を始めた泰子さんは、その奔放で無邪気な性格から他の男と遊び歩くことも多かったそうです。

そんな泰子さんについて中也はどう思っていたのか。当時の心境は未発表の詩となって残っています。

降りくる悲しみを少しもうけとめないで、
安易で架空な有頂天を幸福と感じなし
自分を売る店を探して走り廻るとは、
なんと悲しく悲しいことだ……

中原中也「寒い夜の自画像2(未発表)」より

中也を裏切って始まった小林秀雄と長谷川泰子さんの同棲生活でしたが、泰子さんが精神に不調をきたしたことで生活が破綻し、小林は逃げるように大阪へと転居してしまいます。

1人残された泰子さんは錯乱状態で小林を捜し回り、小林の親族や中也を含めた文学仲間まで巻き込んだ騒動となりますが、小林が泰子さんの許に帰ってくることはありませんでした。

大阪に逃げた小林は、妹富士子さんに宛てた長い手紙の中で、泰子さんとの同棲生活について「僕は殆ど人間には考えられない虐待を受け」たと書き、「今思えば悪夢のようだ」と告白しています。

親友の女を取り上げておきながら自分から去って行くなんて小林秀雄はひどい男だと、感じる人も多いと思います。

しかし、小林にとって泰子さんとの同棲生活は誤算の連続、後悔の連続だったでしょう。

この時の2人の切迫した同棲生活は、そばにいる友人知人をも困惑させていました。

河上徹太郎の証言を引用します。

その頃彼は大学生だったが、或る女性と同棲していた。彼女は、丁度子供が電話ごっこをして遊ぶやうに、自分の意識の紐の片端を小林に持たせて、それをうっかり彼が手離すと錯乱するといふ面倒な心理的な病気を持っていた。

(略)

この、極度に無機的な感受性の夢を食って生きる獏のやうな存在であった彼女に、小林は如何に貴重な精神的糧を与へられ、如何に貴重な時間と精力を徒費したか…

河上徹太郎「私の詩の真実」より

小林に去られ1人になった泰子さんに、中也は復縁を迫りたかったに違いありません。

しかし直接言葉に出すことはありませんでした。

言葉に表す変わりに、泰子さんへの求愛のつもりで愛の詩を書いていました。

女よ、美しいものよ、私の許にやっておいでよ。
笑いでもせよ、嘆きでも、愛らしいものよ。
妙に大人ぶるかと思うと、すぐまた子供になってしまう
女よ、そのくだらない可愛いい夢のままに、
私の許にやっておいで。嘆きでも、笑いでもせよ。

中原中也「女よ」より

泰子さんの行く所行く所にあらわれては、何かと世話を焼いて保護者のように振る舞っていた中也。

また、生活が困窮していく泰子さんに「俺から離れるからこんなことになるんだ」と説教をしたり、手をあげたりすることも多かったようですが、それでも「帰ってこい」とは言わなかったようです。

中也はここまで泰子さんを責めながら、小林秀雄に対しては皮肉や恨み節は言ったとしても、直接抗議をしませんでした。

そこには、文壇の中で存在感を高めていく小林と、積極的に仲違いをするのはよそうという気持ちがあったのか、それとも男としての意地があったのか。

心の中では腑に落ちない悔しさを抱えていたことが、未発表の散文から伝わってくるのです。

俺がめつけたあの女をよ、 / てめえにや分ンねえ、あの女をよう。 // 免倒(ママ)くせえから呉れてやろつと呉れてやつたら、/ ぢきに野郎、棄てちやひやがつた /

(略)

羽振りがよいのは、まあまあ結構。/ さう思つてみているてえと、/ 野郎ちょくちょく俺を誉めやがる / ところで、さういう野郎に限って、/ とかくは、おけらのようつくもんで、 / おけらと一緒に、時々野郎奴  /  無礼千万を、はたらきやがる。

中原中也「雨が降るぞえー病棟挽歌」より(中也自身が抹消した部分)

詩人として生活

長谷川泰子さんと別れたのが18歳。翌1926年(大正15年)には日大予科文科に入学するものの、親族に無断で退学。その後、アテネ・フランセに通い始めます。

親族への体裁はなんとか保ちながら、しかし上京生活の綻びは隠しきれません。ただ、中也自身に焦りはそれほどなかったようです。

20歳の春に河上徹太郎と出会い、そのつてで音楽団体「スルヤ」と交流を持って、作曲家諸井三郎や今日出海と知り合います。

その後の「スルヤ」発表演奏会では、諸井三郎の作曲で「朝の歌」「臨終」が歌われています。

天井に 朱きいろいで
  戸の隙を 洩れ入る光、
鄙(ひな)びたる 軍楽の憶(おも)い
  手にてなす なにごともなし。

小鳥らの うたはきこえず
  空は今日 はなだ色らし、
倦(う)んじてし 人のこころを
  諫めする なにものもなし。

樹脂の香に 朝は悩まし
  うしないし さまざまのゆめ、
森竝(もりなみ)は 風に鳴るかな

ひろごりて たいらかの空、
  土手づたい きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。

中原中也「朝の歌」

10月には「ダダイスト新吉の詩」の高橋新吉をたずねたり、その翌年には関口隆克、大岡昇平と知り合ったり、相変わらず「友人作り・仲間探し」については労を惜しまない中也でした。

父の死

1928年(昭和3年)の6月、中也21歳の時に父謙助が病死します。

長男として、本来ならばすぐにでも駆け付けて当然ですが、母フクの忠告により、中也は喪主であるにもかかわらず帰郷しませんでした。

中也の「詩人然」とした外見、特に長髪であることを、母フクが心配したことが理由でした。

謙助の死の以前からフクは世間体を気にして、帰省の時も夜間にするよう中也に指示していたのです。

中也は友人達に父のことを「外科医として天才的技術を持っていた」と話していたそうです。尊敬する父親の死と、帰郷がかなわなかった事実について、中也はどう受け止めたのでしょうか。

わが生は、下手な植木師らに
あまりに夙(はや)く、手を入れられた悲しさよ!
由来わが血の大方は
頭にのぼり、煮え返り、滾(たぎ)り泡だつ。

おちつきがなく、あせり心地に、
つねに外界に索(もと)めんとする。
その行いは愚かで、
その考えは分ち難い。

中原中也「つみびとの歌」より

「白痴群」創刊

1929年(昭和4年)、22歳で同人雑誌「白痴群」を創刊。中也は「白痴群」で精力的に詩を発表しています。

「白痴群」は翌年4月までの1年間、第6号までを出して廃刊になります。中也が他の同人達ともめたことや、作品が集まらなくなったことが廃刊の原因でした。

5月には泰子さんと一緒に京都旅行。京大に入学した大岡昇平や安原喜弘をたずねています。

京都の宿泊先では、中也と同宿で眠ることを泰子さんが頑に断ったそう。

まだこの時点で泰子さんの心は小林秀雄を追いかけており、拒まれた中也は、行き場の無い気持ちを詩にしています。

私の聖母(サンタ・マリヤ)!
  とにかく私は血を吐いた! ……
おまえが情けをうけてくれないので、
  とにかく私はまいってしまった……

それというのも私が素直でなかったからでもあるが、
  それというのも私に意気地がなかったからでもあるが、
私がおまえを愛することがごく自然だったので、
  おまえもわたしを愛していたのだが……

中原中也「盲目の秋」より

中也はその後も「スルヤ」に泰子さんを連れて行ったり、同人誌「白痴群」に泰子さんの書いた詩を掲載したり、何かにつけ泰子さんと関わりたがっていることが窺えます。

この年の秋頃からは彫刻家高田博厚と親交を持ち、首のブロンズ像が制作されていますが、中也は高田さんのアトリエでも泰子さんとつかみ合いのケンカをしていたということです。

「取っ組み合うのは勝手だが、彫刻台をぶっこわすなよ!」と、高田博厚さんはヒヤヒヤしながら2人に注意していたのです。

酔うと暴れ、初対面の相手にでも殴りかかり、誰彼構わず説教をする中也。友人達は中也を煙たがり、次第に離れていきます。

泰子の出産

こい人よ、おまえがやさしくしてくれるのに、
私は強情だ。ゆうべもおまえと別れてのち、
酒をのみ、弱い人に毒づいた。今朝
目が覚めて、おまえのやさしさを思い出しながら
私は私のけがらわしさを歎(なげ)いている。

(略)

私はおまえのことを思っているよ。
いとおしい、なごやかに澄んだ気持の中に、
昼も夜も浸っているよ、
まるで自分を罪人ででもあるように感じて。

私はおまえを愛しているよ、精一杯だよ。
いろんなことが考えられもするが、考えられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に尽そうと思うよ。

またそうすることのほかには、私にはもはや
希望も目的も見出せないのだから
そうすることは、私に幸福なんだ。

中原中也「無題」より

昭和5年中也23歳の時、長谷川泰子さんがバーで知り合った劇作家山川幸世の子供を出産します。

泰子さんと山川は行きつけのバーでたまに会う程度の間柄でしたが、ある日「終電がなくなったから泊めてくれ」と言われ、応じてしまったのです。

まだ小林秀雄に未練をつのらせていた泰子さんでしたが、当時は中絶すると「堕胎罪」になるため、生むよりほか手段がありませんでした。

山川は泰子さんの妊娠を知ると遠ざかるようになりました。中也は、そんな山川を捜し出しては説教をしていました。

泰子さんが男の子を出産した時、喜んで世話を焼いたのは中也でした。

中也は泰子さんの子供に「茂樹」と名前をつけます。

泰子さんが女優としての職探しで撮影所に行く時には、中也が茂樹を預かって面倒をみることも度々あったようです。

赤ん坊は、段々物覚えしているようです。次第に可愛くなりますが、愛というよりもっと憐情といった風のものらしく淋しい気がします。ーそれで尚更可愛くなります。

安原喜弘「中原中也からの手紙」より

茂樹への愛情

普通なら、いくら好きな女が産んだ子供といえども、我が子のように愛情を注ぐことは難しいと思います。

しかし中也は泰子さんの子供に対して、まるで我が子というより孫のような感じで、一生懸命気遣っていたことが、泰子さんへ送っていた手紙やハガキを読むと伝わってくるのです。

差出がましいことながら、茂樹の種痘(ホーソー)はすみましたか。

まだなら早く医者に連れて行きなさい。

ホーソーを患うと顔がキタナクなるのみならず、智育体育共に大変遅れることになるのです。

昭和7年2月19日に泰子さんに送ったハガキより

 茂樹の耳のうしろのキヅには『アエンカオレーフ油』を直ぐに買ってつけておやりなさい。

5銭も買へば沢山でせう。

お湯に這入った時、キヅを洗わないよう。

昭和7年2月29日に泰子さんに送ったハガキより

茂樹さんは平成7年10月に亡くなりました。

中也のことを「俺の親父」と呼んでいた茂樹さん。最後まで、「中原中也」を自分の父だと信じて疑わなかったように見えたそうです。

最後まで「俺は中也の子」と信じるかのように。
飲むと「俺の親父はよ」となんの疑いもないように
「中也」が父であると些かも疑いのないように口走った。

長谷川泰子-我が恩師の母 – wugongおもいつくまま – Yahoo!ブログ

 詩生活と結婚

あれはとおいい処(ところ)にあるのだけれど
おれは此処で待っていなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く
葱の根のように仄(ほの)かに淡い

決して急いではならない
此処で十分待っていなければならない
処女(むすめ)の眼のように遥かを見遣(みや)ってはならない
たしかに此処で待っていればよい

中原中也「言葉なき歌」より

昭和6年4月、日大に在籍したまま東京外国語学校フランス語科に入学します。

当時、中也は外務書記生としてのフランス行きを画策しており、この東京外国語学校への入学もその一環であったと考えられます。

東京外国語学校には2年通い、昭和8年の3月に卒業をしますが、結局外務書記生にはなれず、フランス行きの夢は叶いませんでした。

この年、中也は小林秀雄の推薦もあり、「文学界」「四季」など、次々と創刊される文芸誌に詩が掲載されるようになりました。坂口安吾、牧野真一の紹介で同人雑誌「紀元」の創刊にも関わっています。

「白痴群」廃刊の後、発表の場を失っていた中也の詩が、少しずつではありますが世間に認知されていきます。

12月、中也26歳で遠縁の上野孝子と結婚。

それまでにもさまざまな女性に結婚を申し込んでは断られていましたが、ようやくこれで、中也が念願していた「家庭」を持つことになったのです。

孝子さんは控えめで夫を立てる良い妻でした。中也は孝子さんの前では暴れるわけにもいかず、頭の上がらない様子だったようです。

ただ、孝子さんのいない場所では相変わらずの気性の荒さだったと友人が証言しています。

結婚の翌年には長男文也が誕生。子供をモチーフにした詩が多くなります。

ゆめに、うつつに、まぼろしに……
見ゆるは、何ぞ、いつもいつも
心に纏(まと)いて離れざるは、
いかなる愛、いかなる夢ぞ、

思い出でては懐かしく
心に沁みて懐かしく
磯辺の雨や風や嵐が
にくらしゅうなる心は何ぞ

雨に、風に、嵐にあてず、
育てばや、めぐしき吾子よ、
育てばや、めぐしき吾子よ、
育てばや、ああいかにせん

中原中也「吾子よ吾子」より

公私ともに充実した日々を送り、詩人としての評価も高まっていきますが、なぜか中也の疎外感は深まり精神は不安定になっていきます。

『山羊の歌』出版

昭和9年12月10日、中也27歳で念願だった『山羊の歌』出版にようやく漕ぎ着けます。

『山羊の歌』出版に際しては、昭和7年から友人知人あてに一口4円の予約募集、実際の所は「寄付金集め」を始めましたが、お金を出してくれる人は十数名しかいませんでした。

その後、出版を延期しながら勧誘を続けたもののお金は集まらず、やむを得ず全額自費で出版することを決意しますが、資金不足で計画が頓挫していました。

計画から2年以上たって出版できるようになったのは、同じアパートに住んでいた青山二郎が東京文圃堂を紹介したことがきっかけとなっています。

装幀は高村光太郎で、中也が自ら高村宅をたずねて頼みに行ったということです。

文也の死

昭和11年、長男文也が2歳で亡くなります結核性脳膜炎だったと言われています。

文也を溺愛し、自分と同じように「文也も詩が好きになればいいが」と願っていた中也。その悲嘆は激しいものでした。

葬儀の時には中也が文也の遺体を抱いて離さず、母フクが説得してなんとか引き離すほど。

文也の初七日の翌日、中也は「暗い公園」を書きます。

ポプラは暗い空に聳り立ち、
その黒々と見える葉は風にハタハタと鳴っていた。
仰ぐにつけても、私の胸に、希望は鳴った。

今宵も私は故郷の、その樹の下に立っている。
其の後十年、その樹にも私にも、
お話する程の変りはない。

けれど、ああ、何か、何か……変ったと思っている。

中原中也「暗い公園」より

その年の12月には次男愛雅が誕生しますが、中也の心が癒されることはありません。

文也の四十九日が近くなると、日記帳に「文也の一生」を書きはじめ、そこから「夏の夜の博覧会はかなしからずや」に繋がっていきます。

夏の夜の、博覧会は、哀しからずや

雨ちょと降りて、やがてもあがりぬ

夏の夜の、博覧会は、哀しからずや

女房買物をなす間、かなしからずや

象の前に余と坊やとはいぬ

二人蹲(しゃが)んでいぬ、かなしからずや、やがて女房きぬ

三人博覧会を出でぬかなしからずや

不忍(しのばず)ノ池の前に立ちぬ、坊や眺めてありぬ

(略)

夕空は、紺青(こんじょう)の色なりき
燈光は、貝釦(かいボタン)の色なりき

その時よ、坊や見てありぬ

その時よ、めぐる釦を

その時よ、坊やみてありぬ

その時よ、紺青の空!

中原中也「夏の夜の博覧会はかなしからずや」より

文也が確かに生きたその瞬間を、なんとかこの世に留めておきたいと願う、中也の魂の叫びがそのままの形で歌われているような悲しい詩です。

「夏の夜の博覧会はかなしからずや」のほかにも、文也への追悼詩として書いたものがいくつかあります。

「在りし日の歌」に収められた「また来ん春」もその一つです。

また来ん春と人は云う
しかし私は辛いのだ
春が来たって何になろ
あの子が返って来るじゃない

おもえば今年の五月には
おまえを抱いて動物園
象を見せても猫(にゃあ)といい
鳥を見せても猫(にゃあ)だった

最後に見せた鹿だけは
角によっぽど惹かれてか
何とも云わず 眺めてた

ほんにおまえもあの時は
此の世の光のただ中に
立って眺めていたっけが……

中原中也「また来ん春……」

子育ての中のありふれた風景を描きながら、「あの子が返ってくるじゃない」春には何の希望も見出せないと嘆く中也。

中也の心の疲労は激しく、幻想や幻聴に悩まされるようになり、意識の混濁が深まっていきます。

死の影

昭和12年1月、精神に不調をきたした中也は母フクによって千葉寺療養所に入院させられますが、1カ月程度で退院しています。

ノイローゼは重度なものではなく、文也の死への罪悪感が原因となった一過性のものだったと判断されたようです。

中也は自分の意思に反して、また信頼する友人に知らせることもなく、無断で神経科の病院に入院させた家族に対して不信感をあらわにします。

文也と暮らした家には住みたくない」という思いから、小林秀雄、大岡昇平、今日出海など旧知の友が暮らしている鎌倉に借家をかりて生活を始めます。

ただ、心身の疲労は重く、以前のように活発に友達を訪ねていく気力は残っていませんでした。

安原喜弘に宛てた手紙では、「決定的にへとへとになつたといふことです」と、出掛ける気力も話す気力も起こらず、田舎道を歩いては自失状態になってしまうことを打ち明けています。

鎌倉に移り住んで約1カ月後の3月には、文也への痛切な思いを無理やり昇華させようとしているような、幻想的で不可思議な詩を書き残しています。

愛するものが死んだ時には、
自殺しなきゃあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごう)(?)が深くて、
なおもながらうことともなったら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなきゃあならない。
奉仕の気持に、ならなきゃあならない。

(略)

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テンポ正しく、握手をしましょう。

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テンポ正しく、握手をしましょう。

中原中也「春日狂想」より

夏になっても思うような回復はなく、中也は一家で帰郷をする決意を固めます。この時すでに中也の魂はぼろぼろの状態だったのでしょう。

7月に阿部六郎に宛てた手紙には、秋になったら故郷に引き上げようと思っていること、文也を亡くしてからは詩を書く意欲が全く湧かなくなったことが書かれています。

自分の死期を悟っていたのか、それとも帰郷までに用事を済ませておきたかったのか、8月には野田書房に急いでいる様子で「ランボー詩集」の刊行を申し入れに行き、『日本歌人」に「道化の臨終」を発表。9月からは「在りし日の歌」の原稿整理、清書をし、23日にそれを小林秀雄に託しています。

詩を作りさえすればそれで詩生活ということが出来れば、私の詩生活も既に二十三年を経た。もし詩を以て本職とする覚悟をした日から詩生活と称すべきなら、十五年の詩生活である。

(略)

私は今、この詩集の原稿を纏め、友人小林秀雄に托し、東京十三年間の生活に別れて、故郷に引き蘢るのである。

中原中也「在りし日の歌 後記」より

いよいよ故郷に帰り、新たな詩生活を始めようとしていた中也ですが、10月5日に発病し、そのまま入院します。

当時、小林秀雄は明治大学で教鞭をとっていましたが、中也の見舞いのために一週間休講を取り、病院に詰めていました。

また安原喜弘、河上徹太郎、青山二郎も中也を見舞うため病院に通っていました。

中也危篤の知らせを聞いた長谷川泰子さんは、当時の夫中垣竹之助と一緒に見舞いに訪れますが、中也の病室には見舞客がいっぱいいて後ろの方からしか姿を見ることはできなかったと証言しています。

中也はそのまま回復すること無く、22日の深夜になくなりました。

告別式に出席した泰子さんは、おびえる茂樹を払いのけて号泣していたそうです。

周囲の人から「邪険なことをする女だ」と言われても、激しい悲しみを抑えることができなかったのです。

100年たった今でも…

誰の心にも痛烈な印象を植え付け、時に愛され時に煙たがられながら、人生と言う街角を疾風のように駆け抜けて消えていった詩人。

中原中也の短い生涯に残された美しい詩の数々は、100年以上たった今でも多くの人々の心を揺さぶり続けています。

おそらく、100年後の世界でも、中也の詩に救いを求める人はいるのではないでしょうか。

夏が来た。
空を見てると、
旅情が動く。

僕はもう、都会なんぞに憧れはせぬ。
文化なんぞは知れたもの。
然(しか)し田舎も愛しはえせぬ、
僕が愛すは、漂泊だ!

中原中也「(夏が来た)」より

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