はな to つき

花鳥風月

桜の下にて、面影を(31)

2019-10-14 21:37:25 | 【桜の下にて、面影を】
☆☆☆

憧れの気持ちが、いつしか嫉妬に変わるということは、今に始まったことではない。
平安の世、斯の長編小説が書かれた頃には、すでに妬み嫉みのオンパレードが繰り広げられていたことが詳述されている。
ともすれば宝の持ち腐れになりそうな、日陰サークルで部長を務める苗雅だが、そこは超越したカリスマである。
世の中が放っておくはずもない。
大学公認カップルと呼ばれ、学校一のマドンナと親しげにしている姿は、それはそれは羨望の的である。
それはそれは誰もが羨む、絢爛豪華な眩しい二人である。
にもかかわらず、である。
そんな水も漏らさぬ鉄壁な二人の間に割って入ろうとする、不届きな輩も、世の中にはいるものである。
さらに言えば、割って入れないのならば、せめて邪魔をしてやれという俗心が生まれるのも、これまた人間の悲しい性であろう。
いわゆる、取り巻きという連中だ。
今でこそ、週に一度しか学校に姿を見せなくなったことで、そんな光景もほとんど見られなくなったが、昨年までの大学は、苗雅の行くところ大名行列あり、というようなことが常態化していた。
そんな状況を他の男子学生たちは、ただ指をくわえて見ているだけである。
男子というものは、あまりに次元の違う同性を目にすると、僻みすら生み出す気力がなくなる生き物らしい。
逆立ちしても敵わない相手には、無駄なエネルギーを使わないようである。
弱肉強食が摂理の動物社会で、こんなに穏やかに敵が撤退してくれるのは、人間社会くらいなものであろう。
他の動物たちは、意中のメスをめぐって命懸けの戦いに挑むものだが、人間男子は、まず以ってそのような愚挙には出ない。
討ち死に覚悟で、憧れの君をかっさらおうという気概はないのである。
そこへいくと女性というものは、命知らずである。
あの手この手で、愛しの御仁を籠絡させることに躍起になる。
どうして、そこまでできるのだろう?というような戦法まで駆使して、奪いにかかる。
女子力全開で、猛烈アタックを仕掛けるのである。
しかも恋敵がいればいるほど燃え上がる、という悲しい悪癖とでもいえるような性分を持つ女性も、少なくない。
事によっては、端から奪うことは目的ではなく、麗しき恋路を、引き裂くことだけに命を燃やす、という悪女もいたりする。
そんな暇があったら本気の恋愛のひとつでもして、その無駄なエネルギーを生産的なものに換えた方が、よほど世のためになるということに、まるで気づいてないらしい。
そんな本心なのか、邪心なのかはともかくとして、白駒二葉というビーナスの登場によって、昨年までの横並びの勢力図から一強時代へと変わった、女戦国時代は熾烈を極めていた。
もちろん、二葉とて年頃の女子である。
そのような外野の動きを目にして、心乱れないことはない。
学校からは離れたところにあるサークルの隠れ家、七福神が降臨したようなマスターが、和みの空間を与え続ける珈琲店にも、当然のように苗雅目当ての女子学生たちは、大波小波で押しかける。
『苗雅の会』なるファンクラブの面々である。
マスターは、この三年で売り上げが何倍にも膨れ上がったことに大満足している。
それもこれも、すべてカリスマ学生一人の力に依るものであり、それを見越してリザーブ席を早々につくった先見の明を、自画自賛しているのである。
そんなことなので、アジトと言われるその場所は、まったくその目的を果たせないくらいのサロン状態の様相を呈している。
四条通りを無言で歩いた夏の夜から、二葉の気持ちは一層交錯の度合いを増していた。
目の前にいる、どこにも欠点の見当たらない、疑念すら生まれてもおかしくないくらい心の通いあう苗雅への想い。
その想いに没頭しようとする意志。
目を覆いたくなるくらいに、派手なアプローチをかける女子たちの存在。
二人の時間に割り込んで来ようとする悪意。
理由の分からない違和感。
苗雅の周囲は、夏休み前とは何も変わっていない。
いつも通りに、煌びやかすぎるほどに華やいでいる。
変化が生じたのは、四条の散歩を挟んだ二葉の感覚の方だった。
彼を取り巻く女子たちへの感覚が、大きく変わっていたのだ。
苗雅が特別な存在であることは、初対面の時から無条件で理解はできていた。
が、だからといって、彼にとっての唯一の存在であるという考えは浮かんでいなかった。
どれほど公認カップルと言われても、自分のことではないフィクションのように思っていた。
ただ苗雅を囲む人たちの中の一人、という意識でしかなかった。
それが夏までの二葉だった。
それが夏休みも終わり大学が再開してからは、その意識を保つことができなくなっていたのである。
いつでも一番そばにいたいという気持ちというよりも、誰か他の女性がそばにいることへの嫌悪感のようなものが、生まれるようになっていたのである。
これが、恋心というものか。
まったく二葉には判らなかった。
これまで恋というものを経験したことがなかったということもあるが、それだけではない。
苗雅という人間に対して抱く感情そのものが、好意という感情の種類が、果たして恋慕のものなのか判断がつかなかったのである。
一見この、恋愛経験がないからそれが判断できない、という理屈は成立するように思えるのだが、よくよく考えれば、初恋とはそういうものではないか。
誰しも未経験のところから始まるのである。
経験がないから判らないという理屈は、恋の場合は例外的に当てはまらないのである。
だからこれが仮に初恋というものであるならば、『判断』などという悠長な客観性が生まれる隙はないはずなのである。
というようなことまで考えている二葉であるからして、「私はどこまで客観的な初恋をしているのだろう」と自問しても何ら不思議はない。
つまり規定のピースだけでは飽き足らず、さらに自分でピースをこしらえて、なおかつ、完成させるつもりのないパズルを延々続けようとしていること自体、そこまでして彼への気持ちを言語化しようとしていること自体、初恋とは縁遠いものであると証明してしまっているようなものである。
それは本来、すでに大恋愛の末の壮絶な別れを経験し、その痛手から立ち直れず、恋愛に臆病になっている女性のすることであろう。
そんな混迷極まる二葉をよそに、グルーピー同士での小競り合いは常態的に頻発していたとはいえ、
その都度予定調和のように、誰からともなく火消し役を買って出ることもまた規範となっている『苗雅の会』は、夏を過ぎても一向変わらずの日々が過ぎていた。
大火事にでもなれば、二葉の心境にも行動にも、何らかの進歩が期待できたのであろうが、幸か不幸か細波程度の揺らぎしかなかったことで、彼女の内側は何の解決も解消もできずに、判然としない、息苦しさのようなもので霞がかかっていた。
春の滑り出しはすこぶるスムーズだった二葉だが、季節も心も秋模様に変化していたのである。

(つづく)

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