須江君の入部に至る経緯

空手部の同級生・平沢と一緒に、道着姿の1年生の須江が現れた。重量挙の道場で、確かスナッチ式のデッドリフトのフォームチェックを行なっていた時だと記憶している。平沢が「こいつ高校の時パワーリフティングやっていたらしいぞ」と言うので、「トータルはどのぐらい?」と尋ねると、言った数字は忘れたが、即答したところを見ると、そこそこトレーニングには精通しているようだと感じた。友人がラグビー部員で、一緒にトレーニングをしていたという。ちなみにクラブ活動は「将棋部」だと言っていた。

既に空手部の部員として道着まで当てがわれた彼を引き抜くつもりなど毛頭ないが、彼とのトレーニング談議に水を差すかのように「こいつはもう空手をやっていくって決めたんだから、引き抜きみたいな真似しないでくれよな」と平沢。了見の狭い奴だなと思いながらも、こっちの考えをずばり言わせてもらった。空手をやっていくことを決めるのは須江本人であり、最初に入部したから続けなければならない理由も無い。本当に心からやりたいと思えることに邁進してこその学生生活ではないかと。

彼とは仲は良かったので、これだけのことを言い放っても、険悪なムードにはならなかったが、印象的だったのはその間、須江が正座をして俺たち4年生の激論を聞いていたことだ。

ロッカールームで着替えていた彼の広背筋は、すでに全日本学生クラスであり、もしバーベルを握るならば、トップになれる逸材だと確信したが、ここでも勧誘みたいな真似はせず、空手が本当にやりたいことならそれをしっかりやれば良い、ボディビル部に入部させようとはしないから。と平沢の存在を尊重して須江に話して別れた。

その週はまだガイダンス実施時期で、新入生歓迎会期間中でもあった。当時、法政大学の市ヶ谷キャンパス(富士見キャンパスとも言う)は狭い敷地内に出店を出し、そこで新入生の勧誘を行なっていた。自分たちボディビルはピロティ下の経済学部掲示板前が陣地だった。ガイダンスが始まると新入生らが一斉に姿を消す。皆、教室へ入ってしまうからだが、そういう時間帯、出店要員はリラックスできる。4年生の自分は、座り心地の悪い折りたたみ椅子に座っていたのだが、サイズの合わないジャケットを着た男子学生が近寄ってきた。須江だったのだ。

何の用件でと思ったと同時に、もしかして?という気持ちもあったが、「あの、ボディビル部でお世話になろうと思います」と須江が話し始めた。「でも、空手部の方はどうするんだ?」と聞くと「これから平沢さんに事情をお話してきます」と須江。正直、こっちは願ったり叶ったりであったが、平沢に申し訳ない気持ちも少なからずあった。

数日して平沢とキャンパスで会った。会うなり苦笑い顔で、「いやあ、やっぱりボディビルをやりたいんだそうだ。そうならこっちも無理に引き止められないしね」と。「俺は、本当にやりたいことをやれといっただけだ」と多少言い訳がちなことを言ったが、道場に須江が来た時の様子で、空手を本当にやりたいのではないという彼の気持ちが読み取れていたのかも知れないと、その時気が付いたわけです。

でも、もし須江が道場に現れなかったら、自分と会うことも無かったわけで、そう考えると縁とは不思議なものだと思う。その後、彼はほぼ順調にレベルアップし、1988年の全日本学生選手権で優勝した。彼は1986年入学だから、3年生の時にチャンピオンになったことになる?


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