空華 ー 日はまた昇る

小説の創作が好きである。私のブログFC2[永遠平和とアートを夢見る」と「猫のさまよう宝塔の道」もよろしく。

グレート・ギャツビー

2019-06-01 14:09:32 | グレート・ギャツビー

  


  私は最近アマゾンで電子出版した「永遠平和を願う猫の夢」で、金銭も大切だが、それ以上に尊いいのちに根差した優れた価値観が必要であるという立場を模索してきたつもりだ。


「グレート・ギャツビー」という物語は金銭至上主義の原点がここにあったと思わせるものがある。プールつきの大邸宅に住む大金持ちになることが、既に結婚している女の心を自分のものにする道であると信じた男ギャツビー。だからこそ、この物語のニックは彼の最も軽蔑するものを一身に持った絢爛豪華な個性のある男という印象をギャツビーに持ったのではないか。


 


この物語は文章芸術である。映画もよく出来ているが、場面、場面に表現される人・建物・庭園・町、そして人の心理にある不可思議な美しさを描いている文章の巧みさを映像で表現しようとするということは至難の業ではないか。それでも、次々と映像化されるのは、この物語が人間という生き物の面白さを見る者に訴える効果を持っているのであろう。


 


粗筋を言うと、ギャツビーという貧しかった男が第一次大戦のあと、大金持ちになり、昔の恋人デイズィーに会おうとするが、彼女は既にトムという富豪と結婚している。仕方なく、このトムの邸宅の対岸にあたる所、つまり霧がなければ入江の向こうにデイズィーの家の緑色の電燈が見える所に、宮殿のような豪邸を買う。そして、パーティをして、デイズィーが来ることを待つが、彼女は現れない。


 


 そんなギャツビーの隣に、彼の宮殿から見れば、小屋みたいな家を、証券会社に勤める三十才ぐらいの独身男のニックが、借りる。このニックがこの物語の語り手となる。語り手であるから、あんまり自分の深い心理描写はしないし、そういうタイプの人間ではないのである。分かりやすく言えば外向的に世間をわたっていくのが上手なタイブ。


ニックは、毎日、証券ビジネスに取り組み、日夜そういう方面を勉強している。


ニックは、高い教育を受け、ビジネスマンとしてのそれなりの能力を持ち、人に好かれる育ちの良さがある。


第一次大戦にも参加している。


それなりに、恵まれた才能を持つ独特の個性なのだろう。


ただ、こういうニックのような人物だけだと、強烈な物語は生まれにくい。あくまでも、この小説のように、ギャツビーとの出会いに至る過程、出会い、そして悲劇へという話の語り手となっているのが自然なのかもしれない。


 


ニックとデイズィーは親戚関係にあるだけでなく、かなり親密である。


やがて、ギャビーはニックとデイズィーの関係を知るようになり、隣人のニックをパーティーに招待し、親密になる。それから、ギャツビーは、デイズィーがニックの小さな家に来るようにしてもらい、そこで会えるようにとりはかることをニックに頼む。


 


 そのあと、ディズィが初めてニックの家を訪ねた場面を小説家フィツジェラルドは次のように書いている。


 


「車が停まった。デイズイーの顔が藤色の三角帽子の下から斜めに見える。彼女はうっとりと明るく微笑しながら、ぼく【語り手ニック】を眺めていた。


「ねえ、ニック。ここがあなたの住んでいる所だというの」


さざ波のように広がる彼女の明るい声は、雨の中で、野性的な強い力を持っていた。一瞬ぼくは、耳だけで、その声の音だけを追わねばならなかった。その言葉の意味が心に入ってきたのはそのあとだった。濡れた髪の毛が、線を描く一筆書きの青い絵の具のように、頬にくっついている。


   【略】


玄関のドアを軽くたたく荘重なノックの音がした。ぼくは出て行って、ドアを開けた。


ギャツビーが死人のように蒼ざめて、上着のポケットに分銅でも入れたみたいに両手をつっこんでいた。そして、悲しげに、にらむようにぼくの眼を見つめながら水溜りの中に立っていた。


彼はポケットに手をつっこんだまま、ぼくのそばをゆったりした足取りで通り抜けて、玄関の間に入った。それから、いらいらしたかのようにくるりと曲って、居間の中に姿を消した。【略】


 


三十秒ばかりのあいだは物音一つしなかった。ついで、居間の中から、息をひそめたようなささやきと笑いかけたような声が聞えた。それから、続いてディズィの澄んだいつもとは違う声が聞えた。


「あなたにお会い出来て、あたし ほんとうに嬉しいわ」 】


 


 


恋人に会いたいという衝動から来る物語の筋は、古今東西の恋愛小説の基本である。「ロミオとジュリエット」「若きヴエルテルの悩み」「谷間の百合」  短編では、チェーホフの「子犬を連れた奥さん」もそうである。


 


 さて、私は少し一風変わった恋愛論を披露したいと思う。それを言う前に、スタンダールの有名な恋愛論の中で、情熱恋愛、趣味恋愛、肉体的恋愛、虚栄恋愛と分けていることをご存知の方も多いと思うが、ここから見ればギャビーは情熱恋愛の心の結晶作用が見事に美しく作用して、あんな物語風な行動に出たと言えるのかもしれないが。


私は禅の立場から、変わった解釈をしよと思う。恋愛の本質は、相手の仏性を恋慕することにある。本来、生命は一なるものである。この目に見えない仏性を発見するのには大変な修行がいるのであろうから、普通の人はABC DE・・・・という風に分離されているのが常識的な判断である。この分離状態では、仏性はつかまえられない。


人間は特に文明状態が進むと、この分離状態はますます激しくなる。電車に乗っても、道を歩いていても、見知らぬ者には声をかけない。こういう分離状態では、全ての人が持っていると、お釈迦さまがおっしゃつた仏性はつかまえることが出来ない。


男が女を追うという性欲の中で、互いの自我がとれた瞬間がある。その自我のとれた意識が愛に昇華するのである。それが恋愛になるのではないかと、私のように禅を勉強した者はそういう解釈をとる。相手の仏性を見て、一なる生命を経験するというのは強烈である。だから、ロミオとジュリエットのように一つになろうとする衝動が激しくなる。しかし、ABは強固な自我を持っているが故に、時間がたつと、自我と自我は衝突する運命にある。そのために、恋愛はうっかりすると、しぼんでいく。場合によっては、崩壊することもある。


まれに、ギャツビーのように、金銭の力で昔を復活させようとするものもある。


だからこそ、再会の夢を実現させたギャツビーは昔の中尉の軍服を着て、ディズィーと踊ったのではないだろうか。


 


どちらにしても、普通、禅では、こういう説明に仏性を持ってくることはしない。イメージの上では、上記のような解釈も成り立つという私の独断である。


それから、優れた有名な恋愛小説は、その恋愛に障害物があるのが普通である。障害物がないと、物語を続けることが難しくなる。


障害物を乗り越えていく強い愛に、人は感動するというわけである。


その点、ギャツビーはどうであろうか。


 


「グレート・ギャツビー」の場合は、話が複雑である。


富豪トムとデイズィーの夫婦関係は、トムがよそに女をつくることがよくあるので、よくない関係にある。


デイズイーがギャツビーと恋仲であった青春時代には、ギャツビーが陸軍中尉ではあったが、貧乏だった。大戦などで、ヨーロッパに行かねばならないギャツビーは、結婚することになるまで、「待ってくれ」と彼女に言う。しかし、そういうギャツビーの願いにもかかわらず、大富豪の息子トムは大金持ちのイメージでデイズーを誘惑して、結婚したという過去がある。


 


サラリーマンのニックは、デイズィーと親戚で、デイズィーの夫、富豪トムとは、大学時代の親友である。そして、トムはニックに、トムの恋人である自動車修理工ウイルンの妻マートルを紹介するというよりは、見せる。こんなことを普通するだろうかという疑問が残る。こういう所に、肉体は強健であるが、野蛮な一面を持つトムを描いているのだろうか。ウイルソンとマートルという夫婦がギャツビーの最後の悲劇に必要だから、つくった場面と、疑いたくなるような見方も出来る。


 


 


その点、ギャツビーの方がロマンティックとも言える。貧乏から、三十そこそこで、巨万の富を築く。アメリカンドリームの夢がギャツビーに託されているということで、実にアメリカらしい話だと思った。問題はギャツビーの仕事の内容である。


 


トムがギャツビーとの対決の場面で、そのギャツビーの仕事をあばいていく場面がある。それを知った、デイズイーは心が離れていてくような混乱に陥る。どうもギャツビーは法律すれすれのことをしているらしい。密造酒に手をそめたり、賭博師ウルフシェイムと手を組んだり、物語の中で具体的にはっきりした形で仕事の内容が示されていないで、ぼやかしてある。破廉恥なことではないが、ルールすれすれの仕事という所だろう。昔から、時代の急激な変わり目に、そのチャンスに巨万の富を築くものがいるが、第一次大戦後のアメリカにそういうチャンスがあったのかもしれない。


 


ただ、私の意見としては、こういう仕事をする人を英雄視するのは変だと思う。やはり、まじめに、ものを生産し、つくる、人にサービスするという普通の人がやっているような仕事に軍配をあげたい。金を横に動かして巨万の富を得るというようなことが奨励されると、社会は衰退すると思う。


 


こういうギャツビーだが、昔の恋人を取り戻したいという希望を持っている。さて、ギャツビーがニックを親友と思うようになるまでに、親しくなったのはデイズ―との関係を取り戻したいという思惑もあったのだろう。


 


事実、ニックは自分の家で、ギャツビーとデイズィーを引き合わせる。


 


 デイズィ―は結婚して小さな子供までいるのだが、ギャツビーは「何で待ってくれなかったのか」と彼女をせめる。デイズイーは色々弁解している内に、「金持ちの娘は結局、貧乏な男の所にお嫁にいけないのよ」と口ばしってしまう。


 


ギャツビーの愛は本物だったのだろう。しかし、幻を追いかけていたともいえないことはない。何故なら、女【デイズイー】は貧乏な男とは結婚できないという価値観を持ち、ギャツビーが死ぬと、ギャツビーの悲劇などなかったかのように、トムと一緒に逃げるように西部に行ってしまったではないか。


アメリカには建国当初、優れた価値観がいくつもあった。小説の中にも貧乏な中の人と人とのつながりを描いたオーヘンリーの「最後の一葉」「賢者の贈り物」のような優れたものもあった。


それが金銭だけの価値観が本流になっていくような予兆を感じさせる作品である。


 


やがて、結末の悲劇。


マートルがデイズィーの運転する車にひき逃げされて、妻を殺されたウイルソンが怒り、犯人をギャツビーと勘違いして、プールにいたギャツビーをピストルで殺してしまうということである。


【これは仮にという話だが、マートルが夫婦喧嘩で外に飛び出した時に、デイズィーの運転する車がそこに来なかったら、この悲劇はなかった。あまりに偶然すぎるということ。それから、運転がギャツビーからデイズィーに変わったことなど、トムに言いくるめられたウイルソンがギャツビーを犯人と思ったこと、創作の上での技巧を感じる】


 


こうした粗筋だけ言えば、当時アメリカの一世を風靡したような作品とも思われないかもしれない。しかし、小説を読んでいて思うのは、先ほども言った描写力、つまりその文章である。日本でも文章だけ読んでいて楽しくなるような作家がいる。例えば、芥川龍之介。志賀直哉、あるいは永井荷風。あるいは谷崎潤一郎。太宰治。他にもいると思うが、フィツジェラルドは ヘミングウェイのような簡潔な文章とも違い、フォークナーのような練りに練ったような文章とも違い、何か主人公のギャツビーそのもののように華麗な雰囲気を持った筆の運びである。


 


 


【例えばギャツビーの宮殿のような大邸宅の描写


 


海峡沿いの近道をよけて、ぼくたちはいったん道路まで出た。それから、大きな裏門の方から、中にはいった。うっとりするささやくような声で、デイズィ―は空を背景にそそりたつ中世風の影絵のような風景に感嘆した。それから、庭をほめ、輝くような黄水仙の香りや、泡のようなさんざしや李の香り、淡い金色のセイヨウスイカズラの香りに喜びの声を上げた。奇妙なことに、大理石の石段の所まで行っても、戸口を出入りするはなやかな衣装のゆらぎも見えず、梢に鳴く鳥の声のほかに物音一つ聞えなかった。


 Instead of taking the short cut along the Sound we went down the road and entered by big postern.  With enchanting murmurs Daisy admired this aspect or that of the feudal silhouette against the sky, admired the gardens, the sparkling odor of jonquils and the frothy odor of hawthorn and plum blossoms and the pale gold odor of kiss-me-at-the-gate.


It was strange to reach the marble steps and find no stir of bright dresses in and out the door, and hear no sound but bird voices in the trees.


 


postern     裏口   裏門   勝手口


cut  を切る  切り傷  切れ目 切り開いた通路   近道


sound  音  に聞こえる  のように思われる


    確かな  適切な


    海峡  入り江  小さな湾


silhouette  影  輪郭  シルエット


feudal    封建制の   封建時代の  封建的な


jonquil    キズイセン  淡黄色


frothy     泡立った  泡だらけの  浅薄な


froth     (ビールなどの)泡


  】


  


こうした流麗な文章表現で、風景や心理を描いていくので、場面場面全体が神秘な様相を帯びてくる。人生も町も自然もそして地球も、美しく、何とも言えない魅力を持っていることが文章から伝わって来るのである。それがフィツジェラルドの文章芸術である。


映画は迫力のある映像美を追求してはいるが、やはりこれは原作の文章芸術に追いついていくのが大変という印象がある。


 


 


 


【参考】


映画「華麗なるギャッビー」


 1974年度アカデミー賞 に輝く


監督 ジャック・クレイトン


原作 フィッツジェラルド


Cast  ギャツビー   ロバート・レッドフォード


   ディジー    ミア・ファロー


   ニック     サム・ウォーターストン


   トム      ブルース・ダーン


【ご紹介】


「銀河アンドロメダの猫の夢想」のタイトルを「永遠平和を願う猫の夢」と変えて、アマゾンから電子出版しました。kindle本です。久里山不識


 


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