GYAO! のお陰で無事、全話見ることができました。
しろあです。
では内容に入っていきましょう。
京極夏彦の小説を読んだことがある人はだいたいわかると思いますが、
氏の作品はとにかく ”濃い”。
最近の流行作家はビックリするほど ”薄い” 作品を発表してますが、
京極夏彦はとにかく ”濃厚” です。
小説のセカイで濃い、薄いというのはどういうことかと簡単に説明すると、
例えば100枚あたりに含まれる情報量が多いということ。
文章の手法としてはひとつのネタで薄く薄く平べったい作品を書くこともできますが、
京極夏彦は驚くほどの情報量を詰め込みに詰め込んでいます。
だから、疲れる。
確かなネタがたくさん入って来るのは確かに面白い作品を作る上で重要なポイントですが、
そのネタ同士がケンカしちゃうこともあり、意外と整合性をもたせていく、バランスをとっていくことは難しい。
素人はこのネタが浅くて「いや、それ違うよ」と突っ込まれるレベルであったり、
組み合わせるネタとケンカ同士がケンカしてうまく話がまとまらない、矛盾する、ということはしょっちゅうあります。
素人でなくても、プロが作っているはずのテレビドラマでもそういうことはよくあります。情けないね。
だから京極夏彦は、本当に恐ろしい作家だと私は分析しています。
ただ頭がいいだけじゃ、こうはいきませんよ。
さて、『魍魎の匣』。
普通に考えると13話で物語をまとめ上げること自体難しいと思います。
でも、しっかりやってのけてました。
このブログでは物語の講評はしないでおきます。
その変わり、この作品が如何に濃いのかを紐解いていきたいと思います。
そういう視点で批評しているサイトはきっとないでしょうからね。
久保竣公という作家が劇中キャラとして登場します。
その久保の遺作として「箱の中の娘」という作品が紹介されます。
電車で乗り合わせた男。
その男は箱を持っていた。
箱の中から声が聞えた。「ほぅ」。
「おや、聞えましたか」
男は箱の扉を開ける。
若い女の頭部が入っていた。
「ほう」
その首は喋った。
この奇妙な雰囲気、久保竣公という名前から、「阿部公房」を連想する人は多いでしょう。
氏は『箱男』という作品を書いてます。「ハコ」つながりで余計に連想されますな。
しかしこの映像の雰囲気、シュチュエーションは他の作家を連想させます。
江戸川乱歩、『押絵と旅する男』。
ほぼほぼまんまやん、って思いました。
電車で乗り合わせた男が生首が入った箱を持っているか、
生きているような生々しい押絵を持っているか。
その違いくらい。
この乱歩趣味薫る演出は乱歩ファンならずともぞくぞくすることでしょう。
続く。