大和徒然草子

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吉野川上村から日本を支えた山林王。土倉庄三郎

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皆さんこんにちは。

 

土倉庄三郎(どくらしょうざぶろう)という人物をご存じでしょうか。

この方、奈良を代表する明治の財界人ではあるのですが、現在、知名度は決して高くはないかもしれません。

現在では奈良県でも川上村以外では、知らない方も多いんじゃないでしょうか。

庄三郎は林業家で、伝来の造林技術で吉野林業を中興するばかりでなく、全国的な林業振興にも寄与しました。

また、林業で蓄えた財で、教育、政治、経済の各分野を広く支え、林業だけではなく、広範に維新後の日本を支えた人物でもありました。

今回は、この偉大な山林王、土倉庄三郎についてご紹介したいと思います。 

 

出生と林業

 

庄三郎は、1840(天保11)年、大和国吉野郡大滝村(現奈良県川上村大滝)で、山林地主の家に生まれました。

1856(安政3)年に、父から家業を継ぐと、弱冠15歳で大滝郷の総代に就任します。

若くしてリーダーとなった庄三郎は、1868(明治元)年に紀州藩吉野川を流下する木材へ口銭を徴収するようになると、これに対する反対運動をおこし、民部省に請願してこれを廃止させることに成功するなど、社会運動でも成果を現します。

前年の運動の成果もあったのでしょうか、1869(明治2)年には伐採した木材の数量確認や、運搬引き渡しの監督を行う、吉野材木方の総代に就任しました。

 

材木方総代となった庄三郎がまず取り組んだのは、木材のより効率的な運搬でした。

1870(明治3)年に明治政府から水陸海路御用掛を拝命をした庄三郎は、吉野川の水路改修に取り掛かります。

当時はいかだを組んで、材木を輸送していましたから、いかだを通りやすく川を改修することが、木材運搬の効率化に必要不可欠だったというわけですね。

1873(明治6)年から8年かけ、川上村北和田から吉野町宮滝までの32キロにわたり、川底の土砂を取り除いて推進を確保する浚渫(しゅんせつ)工事や、川幅の拡幅工事を、多くの私費も投じて行いました。

 

また、木材運搬のため道路の整備にも尽力しています。

1873年吉野町宮滝から川上村を縦断し、上北山村に通じる熊野街道の開設を計画。

熊野街道は1879(明治12)年に着工、1887(明治20)年に開通し、現在でも国道169号線の一部として吉野の重要幹線道路として機能しています。

1884(明治17)年には五條~上市間の道路改修を進め、さらに東熊野街道から三重県船津までの林道や、大台ケ原への分岐ルートなども開設しました。

これらの道路整備の工費は、山林所有者から山林評価額の20分の1を出資させることで捻出し、庄三郎自身も多額の出資を行っています。

インフラ整備による利を説いて、山林所有者たちを説得した庄三郎の交渉能力の高さが伺えますね。

 

家業である林業でも庄三郎は父祖伝来の造林技術を発展させ、土倉式造林法を生み出します。

この土倉式造林法の画期的な点は、苗を密集して植える「密植」を行う点にありました。

密植は当時避けるべきとされていましたが、土倉式造林法では、木の成長にともなって適宜、間伐することで、木の成長を確保します。

この造林法で成長した木は、まっすぐで節がなく、根元から末口までの太さがほぼ均一な良質な木材となり、吉野の木材はその高品質から全国の注目を受けることになります。

また、間伐した木材も商品化できることから大量の木材を生産可能で、林業は大いに振興することになりました。

 

現在では一般化したこの造林法は、1898(明治31)年刊行された「吉野林業全書」によって全国に広まり、日本の林業の礎となります。

 

その後、1887(明治20)年から1897(明治30)年にかけて、庄三郎は奈良県外でも静岡県天竜川流域や群馬県伊香保兵庫県但馬地方、滋賀県西浅井町でも造林事業を手掛け、さらに遠く台湾でも植林活動を行いました。

庄三郎の所有する山林は、吉野だけで9000ヘクタール、全国では台湾も含めて27000ヘクタールという広大なもので、大阪府がすっぽり収まる広大なものでした。

 

この広大な山林から上がってくる莫大な収益を、庄三郎は事業拡大のほか、「社会のため」、「教育のため」に惜しみなく使っていくのです。

 

吉野の桜と奈良公園を守る

 

庄三郎の社会貢献でまず目を引くのは、明治の初め頃、吉野山の桜を救ったことでしょう。

吉野山は明治初年の廃仏毀釈で大打撃を受け、経済的にも困窮していました。

www.yamatotsurezure.com

そんな中、大阪の商人が吉野山の桜を買い取る話が決まってしまいます。

桜を伐採した後、スギやヒノキを植えようと、その苗を調達するため、吉野の総代が庄三郎のもとに訪れると、庄三郎は吉野の桜の保存を説き、自らが吉野の桜を買いとると言いました。

その理由というのが、「将来外国と付き合うようになれば、外国人もたくさん見に来るだろうから」という、当時とすればとんでもなく先見性にあふれるものでした。

 

このあたりの経緯は下記のブログが詳しいのでこちらも是非ご参照ください。

blog.goo.ne.jp

実際に、現在の吉野は世界遺産にも登録され、多くの外国人観光客も訪れます。

この時、庄三郎が吉野の桜を救ったことで、日本一の桜という呼び声も高い吉野の桜を、現在も私たちは目にすることができるのです。

吉野の桜が世界に誇れるほどの美しいものという思いが、庄三郎にはあったのだと思いますが、明治初期にこのような考えを持てたところに庄三郎のすごさがありますね。

 

また、奈良公園の森、といえば春日山の原生林が有名ですが、奈良の町からは山の裏側となる花山、芳山(はやま)には、庄三郎らの手による造林が行われ、人工林であることをご存じでしょうか。

奈良公園は1880(明治13)年に開園されましたが、その運営費には春日山から伐採される木材の売却費用を当て込んでいました。

 

しかし、無計画な伐採や焼き畑などで山林は瞬く間に荒廃していきます。

1894(明治27)年に県庁舎などの新築のため、公園内花山の木材が伐採され、伐採跡地に植林が行われることになり、改良計画が立案されます。

この時、15名からなる改良委員会が設置され、庄三郎も委員の一人となりました。

1900(明治33)年、再び伐採計画が持ち上がると、庄三郎たち吉野の林業家は実地調査に入り、景観にも配慮した吉野式の人工林を造るべきと提言します。

この提言が採用され、奈良公園は観光にも林業にも利用される都市林となり、現在に至ります。

 

このような都市林育成は、環境面では「緑化」、防災面では「砂防」の面で理にかなっており、林業として経済的に持続可能であることを示した、画期的な取り組みだったといえるでしょう。

 

教育への貢献

 

庄三郎は林業などの事業で上げた収益については3等分し、それぞれ「国のため(社会貢献)」、「教育のため(人材育成)」、「事業のため(事業継続)」に使うと決め、それを生涯貫きました。

それでは、教育にはどのように貢献していったのでしょう。

まず、1876(明治8)年、地元大滝に私費を投じて大滝小学校を開校します。

当時の学制では、授業料は父母が負担し、学校運営にかかわるその他経費は学区内の住民が負担するものとされ、学校運営は全国的に、地域住民の大きな負担となっていました。

その中で、庄三郎は教科書や文房具を寄付して父母の負担軽減を図るとともに、翌年には洋服の制服まで寄付して村内の父母に児童の就学を勧めます。

これは全国で初めての洋装の制服でした。

 

1882(明治15)年には、自宅の隣に私塾芳水館を設立。

漢学、算術、英語、武道の学科を設けて教員も私費で雇い、自身の長男や近在の青少年に開放します。

3年後には近在からの入塾志望者も増え、中等教育機関として発展しました。

 

地域の教育振興ばかりでなく、次男、三男の教育のため、当時同志社英学校を設立していた新島襄と1881(明治14)年に面談。

前年から大学設立を企図していた新島に、即座に資金の協力を約束して、以後新島を物心両面で支え、当時の金額で5000円もの大金を寄付しました。

 

また、女子教育も重視し、日本女子大学設立にも大きな役割を果たします。

日本女子大学の設立にかかわった財界人としては、NHKの朝ドラ「あさが来た」のヒロインのモデルともなった広岡浅子が有名ですが、浅子と日本女子大学設立者の成瀬仁蔵を引き合わせたのは、実は庄三郎でした。

当時娘が通っていた梅花女学校の教員だった成瀬から、女子の高等教育機関設立の相談を受けた庄三郎は、自身も5000円の資金援助を申し出るだけでなく、浅子を成瀬に紹介します。

また、浅子とともに他の出資者に対しては、万一大学が設立されなかった場合は、出資金を返還することを約束して、出資を募り、1901(明治34)年、日本女子大学が創設されました。

 

自由民権運動や政治指導者を支える

 

1874(明治7)年、薩長藩閥政府に対する反発から、板垣退助後藤象二郎らが政府に対して民選議院設立の建白書を提出したことを端緒とする自由民権運動

この運動を経済的に大きく支えたのが、庄三郎でした。

憲法の公布と議会の開設を求める自由民権運動に賛同した庄三郎は、板垣退助の西欧視察の洋行費用を負担し、1881(明治14)年に自由党の近畿別動隊とも言われた日本立憲政党が大阪で結成されるとこれに参加します。

党の機関紙である日本立憲政党新聞の創刊にあたっては、6万円もの巨費を出資するなど、運動を支えました。

ちなみにこの日本立憲政党新聞は、1884(明治17)年に日本立憲政党が解党された後も「大阪日報」と題号を変えて残り、1888(明治21)年、大阪毎日新聞となります。

 

自由民権運動が盛んだったころは、政府からもその政治活動を危険視されたのか、政府転覆を図って投獄された後、出獄したばかりの陸奥宗光1884年に会談した後、大阪府警から取り調べを受けたりもしています。

 

日本の立憲主義と議会制民主主義の礎となった自由民権運動において、庄三郎は関西地区における最大の支援者として、事業で得た資金を惜しみなく運動に注ぎ込み、運動を下支えしました。

 

生涯を川上村で過ごした庄三郎のもとには、その支援を求めて自由民権運動の活動家だけでなく、伊藤博文や、井上馨山形有朋といった明治政府中枢の要人たちも、その支援を求めて足を運んだといいます。

山林王として、三井財閥に匹敵する財を築いた庄三郎は、惜しみなくその財を必要と思われる社会事業に注ぎ込みました。

まだまだ社会インフラが整わない明治日本において、社会をよくしたいと志す人々にとって、庄三郎のような人物は実に頼りがいのある人物だったんでしょう。

 

さて、土倉庄三郎をここまでご紹介してきましたが、本当にスケールの大きな人物ですね。

日本の林業振興だけでも大変な業績ですが、その貢献は産業ばかりでなく、吉野の桜や奈良公園といった観光から、教育、社会運動にまで非常に多岐にわたります。

このような人物は、明治維新期の数ある産業人の中でもほとんどいないかと思います。

 

このような大人物の知名度があまり高くならなかったのは、庄三郎の事業を継いだ長男が事業に失敗して、土倉家がほとんどの財産を失い、没落してしまったことも少なからず影響しているのかもしれませんね。

 

しかし、今回改めて庄三郎のことを調べて、奈良が生んだ屈指の人物であったことがよくわかりました。

 

<参考文献>

京都産業大学 学術リポジトリ

土倉庄三郎の富国殖林思想 : 明治期の吉野林業をめぐって

http://www.library.pref.nara.jp/sites/default/files/008_s3.pdf