大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

ならまちに残る花街を巡る。元林院町、木辻。

皆さんこんにちは。

 

近年、街歩きを楽しむ方も増え、奈良ではいわゆる「ならまち」エリアが、散策スポットとしてとても人気が出ていますね。

このならまちエリアに、2か所、かつて大いに栄えた花街があるのをご存じでしょうか。

 

 

元林院町

f:id:yamatkohriyaman:20200215004750j:plain

まず最初は、元林院町です。

場所はこちらで、猿沢池のすぐ西側にあります。

元林院町は江戸時代には絵師が多く住み、絵屋町とよばれた地域でした。

明治以前には遊所としての記録がないため、花街としては明治維新前後に発展した新興の街だったようです。

1872(明治5)年に遊廓芸妓置屋の開業許可が出されており、前年の1871(明治4)年に「木辻・元林院遊所に来所の者役人より会所に取調書面差し出すこと」というお触れが出ていることから、この年以前には、すでに遊郭が存在していたと考えられます。

 

1877(明治10)年には堺県が「売淫並売妓席貸業取締規則」を布告し、旧大和国内では同じ奈良の木辻と大和郡山の洞泉寺町、岡町とともに娼妓の営業許可を受けました。

しかし、娼妓の町としては、歴史の古さや規模において、近隣の木辻に押されたためか、元林院町は芸妓中心の花街へと変貌していきます。

1895(明治28)年に奈良県の県令により、貸座敷の営業許可地域は、それまでの元林院、木辻、洞泉寺、岡町から、瓦堂、木辻、洞泉寺、岡町に変更され、元林院の許可は1897(明治30)年を期限とされました。

瓦堂町は木辻遊郭の南隣ですから、実態としては2年間の猶予期間を与えたうえで元林院の娼妓の営業を廃止して、木辻遊郭を拡張したといえるでしょう。

この時から元林院は本格的に芸妓中心の花街となり、大正期にはその数200名以上を数え、大いに栄えたそうです。

 

芸妓中心の花街となったことで、木辻や洞泉寺、岡町といった他の遊郭が1958(昭和33)年の売春防止法の猶予期間満了によって、花街としての命運を絶たれたのに対し、元林院町は、大正、昭和の繁栄期からは大きく衰退したものの、現在でもわずかながら残った芸妓の皆さんが活躍する、現役の花街として生き残りました。

 

現在、町内の置屋さんはすべて廃業しているのですが、有志の皆さんで「元林院花街復興プロジェクト」を立ち上げて、花街文化の継承・発展に向けて奮闘されています。

www.travelnews.co.jp

元林院町に隣接する今御門町には、お茶屋さんがあります。

ランチ、夜のお食事ともに、お値段はとてもリーズナブルで、夕食では芸舞妓さんを呼ぶこともできます。

coubic.com

さて、現在の元林院町の周辺なのですが、こちらはならまちエリアでも、古い町屋や趣のある路地が数多く残された地域です。

f:id:yamatkohriyaman:20200215005159j:plain

現役の花街として近年まで生き残ってきたことで、多くの数寄屋風の建築が残されています。

 

1742(寛保2)年築で、ならまち最古級の古民家、絹谷家住宅も元林院にあります。

この建物は大正に造られた数寄屋造りの建物で、芸妓置屋として使われていました。

奈良格子(法蓮格子)が見事な町屋造りですね。

現在はなんと、居酒屋さんになっていて、かつての置屋さんの建物の中で食事やお酒が楽しめます。

http://www4.kcn.ne.jp/~nmc/toku/omise/mangyoku/kinutani

 

さて、伝統的な町屋が並ぶ元林院町ですが、2021年4月に忽然と最先端の近代建築が姿を現しました。

猿鹿狐ビルヂングです。

奈良の工芸品を中心としたセレクトショップ中川政七商店のほか、関西初出店の猿田彦珈琲などのお店が入り、奈良散策の新たな注目スポットになっています。

猿田彦珈琲の様子は下記記事をご覧ください。

こちらは元林院町の南側、今御門町、南市町界隈。

f:id:yamatkohriyaman:20200215005233j:plain

こちらもいい感じに古い民家が残っています。

f:id:yamatkohriyaman:20200215005312j:plain

たまに日中でも鹿と遭遇します。

 

木辻

続いては旧木辻遊郭跡です。

場所はこちらで、そのエリアは現在の鳴川町、東木辻町、瓦堂町にわたります。

木辻遊郭の歴史は古く、「全国遊郭案内」によると元興寺建立にあたり、職工たちを引き留めるため「奴婢」を置いたのが木辻の始まりと記載されています。

おそらく、職人や人夫たちが多く集まってきたことから、私娼たちが集まってきたものと考えられますが、これが事実ならば、史上日本最古級の歴史をもつ傾城街といえるでしょうか。

 

もっとも、中世に入ると木辻一帯は興福寺に属する声聞師(しょうもじ)たちが住む地域であったようで、一貫して花街だったわけではないようです。

声聞師は、中世の芸能者であり、能楽を大成した観阿弥世阿弥といった「猿楽」が有名ですが、「アルキ白拍子」、「アルキ巫」、「金タタキ」、「鉢タタキ」、「アルキ横行」、「猿飼」といった芸能を生業とする人々でした。

興福寺に属する声聞師たちは、「五ヶ所」、「十座」と呼ばれる集団居住地を形成し、声聞師座と呼ばれました。

ちなみに、大和四座と呼ばれた猿楽集団である結崎座(現観世流)、円満井座(現金春流)、坂戸座(現金剛流)、外山座(現宝生流)も、興福寺に属する声聞師座でした。

木辻も、そういった声聞師座であったようですが、室町時代興福寺が衰退すると、その庇護を失った声聞師たちは自立を余儀なくされます。

その中で「アルキ白拍子」、「アルキ巫」といった漂泊の白拍子、巫女たちが遊女化し、遊所を形成したとする説もあります。

 

木辻は江戸時代の最初期である慶長年間から茶店が2~3店あり、遊女を置いていたようですが、1629(寛永6)年、堀市兵衛奈良奉行中坊左近から遊郭設置の許可を得て、大和国で唯一の幕府公認の遊郭となりました。

堀市兵衛は、1678(延宝6)年に成立した遊里の案内書「色道大鏡」によれば、元々豊臣秀吉の「奴隷」であった人物で、秀吉没後に蟄居したのち、奈良の堀与太郎の養子となります。

その後、当時奈良奉行であった中坊左近に粘り強く交渉して、遊郭設置の公許を得ました。

ちなみに、このとき木辻遊郭の設置を許可した中坊左近は、島左近を筒井家から追い、主君筒井定次切腹に追い込んだことで知られる、中坊飛騨守の子で、暗殺された父を継いで奈良奉行を務めていました。

 

江戸の初期には、繁華な遊所となっており、江戸が明暦の大火で焼け、吉原が日本橋から現在の浅草田圃に移転した際、木辻からも遊女が派遣された記録が残されています。

1658~1672年(万治・寛文年間)には幕府の禁制により一時衰退したといわれますが、その後、再び茶屋が増え、江戸時代を通じて、大和国唯一の公許遊郭として大いに繁栄しました。

1682(天和2)年刊行された井原西鶴の「好色一代男」にも「爰こそ名にふれし木辻町、北は鳴川と申して、おそらくよねの風俗都にはぢぬ撥音、竹隔子の内に面影見ずにはかへらまじ」と、紹介されるほどで、全国的にも名高い色街であったことが伺えます。

その範囲は、木辻町、鳴川町にわたり1687(貞享4)年には「くつわ(傾城屋)」、「上屋(揚屋か?)」がそれぞれ10件ほどあったと記録されています。

 

明治を迎えると、元林院町大和郡山の洞泉寺町、東岡町とともに、貸座敷の営業が許され、1897(明治30)年頃に元林院町の娼妓が隣接する瓦堂町に移ることで、区域が拡大し、奈良県下最大の遊郭としてにぎわいました。

1930(昭和5)年に出版された「全国遊郭案内」によれば、38の貸座敷が軒を連ね、318人の娼妓が働いていたといいます。

この数は、明治初期のころに比べ倍増しているのですが、1925(大正14)年に、陸軍の歩兵第38連隊が奈良に置かれた影響が強いと考えられます。

戦後も第38連隊の兵営には進駐軍のキャンプが置かれたこともあり、木辻は昭和の初めから戦後まもなくまでが、もっとも栄えた時期になりました。

1946(昭和21)年、GHQの指令により、公娼制度が廃止されると、表向き遊郭は廃止されたものの、それまでの貸座敷は「特殊飲食店」、「特殊喫茶店」と名を変えつつ、実態は遊郭時代と同様の営業が行われていました。

しかし、1958(昭和33)年の売春防止法施行における猶予期間の満了とともに、すべての貸座敷が営業をとりやめ、遊所としての木辻の歴史は終焉したのです。

 

それでは、現在の木辻近辺の様子を見てみましょう。

f:id:yamatkohriyaman:20200215010445j:plain

地元の食品スーパー「ビッグ・ナラ本店」の看板が立つ場所こそ、かつての木辻遊郭の大門があった場所です。

門をくぐって東側がかつての遊郭で、遊郭の区域は東側の町からみると台地の上になります。

 

下は、木辻遊郭側から、大門のある西側を臨む写真です。

周辺はすっかり一般の住宅に建て替わっており、かつての遊郭の面影を残す建物は、ほとんど見られません。

下の写真の左側の建物は格子戸が見え、かつて妓楼だったのかもしれませんが、ならまちエリアでも、現存する町屋建築が比較的少ないエリアかもしれません。

f:id:yamatkohriyaman:20200215010508j:plain

すっかり住宅地化している旧木辻遊郭ですが、大正に建築され、築100年を超えるかつての遊郭旅館が、2021年まで現役の旅館として営業しておられました。

f:id:yamatkohriyaman:20200215010537j:plain

こちらが、遊郭転業の旅館であった静観荘さんの在りし日の姿。

屋内は数寄屋風の意匠がそこかしこに見え、お庭もたいへん立派なものでした。

折からのコロナ禍で宿泊客の中心だった外国人客の予約が激減し、やむなく廃業されたとのこと。

 

2022年4月に現地を訪れると、取り壊しが始まっていました。

大和郡山町屋物語館と並んで、奈良県内に残る貴重な遊郭建築とだっただけに、時代の流れとは言え寂しい思いです。

www.yamatotsurezure.com

静観荘さん以外で、遊郭だった木辻に残る痕跡としては、称念寺があります。

こちらのお寺は、亡くなった遊女を引き取る、引導寺でした。 

称念寺の境内で特に目立つのが、本堂前にある無縁塔です。

無数の無縁仏の墓標や石仏が、ピラミッド状に積み上げられたその姿は、圧倒的な存在感があります。

遊郭は過酷な環境であったことから、一般的に若くして亡くなる遊女は多く、この無縁塔にも、亡くなった遊女たちの墓標が含まれていると考えられます。

木辻は、すでに街並みからかつて花街であったことを連想するのは、非常に困難なほど、住宅街化すすんでいますが、この称念寺の無縁塔は、永くこの町の歴史を後世に伝えてくれるでしょう。

また、称念寺には1694(元禄7)年、松尾芭蕉が訪れており、「菊の香や、奈良には古き、仏たち」という句を、当寺で詠んだということで、芭蕉の句碑もあります。

 

旧木辻遊郭エリアは、ならまちの南端にあり、一般的な観光コースではありませんが、北側、南側、西側が一段低くなっていて、歩いてみると、外から出入りしにくい地形で、この地に遊郭が設置された地形的な理由がよくわかります。

 

最後に歩いていて少し気になったことを一つ。

ならまちエリアの各町には町の由来を記した木製の町名看板が各所に設置されています。

北側の鳴川町、南側の瓦堂町にはそれぞれ町名看板があったのですが、木辻町の町名看板は見つけられませんでした。

かつて遊郭であったということに、抵抗感をもつ地元の方もいらっしゃるから、配慮されているのかなとも思いました。

大和郡山の洞泉寺町にある町屋物語館も、保存には反対意見もあったといいますし、花街としての役割を終えて70年以上たちますが、まだ、「歴史」というには、時間が浅いのかもしれませんね。

www.yamatotsurezure.com

 

参考文献

奈良県 | 遊廓・遊所研究データベース

 

全国遊廓案内 - 国立国会図書館デジタルコレクション