大和徒然草子

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優勝しなくても観客が詰め寄せるようになった甲子園。いかに阪神は関西屈指の人気球団となったのか?阪神タイガースの歴史を読み直す(8)

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皆さんこんにちは。

前回はプロ野球中継の黎明期から、関西のメディアがどのようにプロ野球を報じてきたかをご紹介しました。

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さて、近年では甲子園を中心に毎年300万人前後の観衆を主催試合で集める阪神ですが、プロ野球草創期や2リーグ分裂後、観客動員で大変苦労していた球団であったとこれまでの記事でもご紹介してきました。

今回は、阪神の観客動員の推移を2リーグ分裂後で球団別の集計が残る1952(昭和27)年以降のデータをもとにご紹介していきたいと思います。

2リーグ分裂から2度の優勝

 

 

さて、1950(昭和25)年の2リーグ分裂で、阪神は主力を毎日に引き抜かれチーム力が大幅に下がります。

そのため優勝から遠ざかったうえに、当時平日のプロ野球でスタンダードとなりつつあったナイターの設備設置が、本拠地甲子園で遅れたこともあって、観客動員は大きく低迷します。

それでは1952(昭和27)年、セリーグ各球団の主催試合観客動員数を、数が多い順にみてみましょう。

 

※()内は1試合平均。この年ホームゲーム数は各球団60試合。

読売 984,223(16,403)人

中日 458,261(7,637)人

国鉄 378,278(6,304)人※現ヤクルト

広島 349,950(5,832)人

阪神 252,782(4,213)人

松竹 246,605(4,110)人※現DeNAの前身球団

大洋 231,730(3,862)人※現DeNA

 

前年から2連覇で黄金期を迎えていた読売が、本拠地、後楽園球場のナイター設備の威力もあってか断トツの動員を誇っています。

続く中日は、本拠地ナゴヤ球場にはまだナイター設備がなかったものの、健闘しているといえるでしょう。

阪神は、というと5番目。

当時甲子園球場にナイター設備がなかったとはいえ、同条件の中日の半分強しか入っていません。

この年の阪神は79勝40敗1分、勝率.664の2位。

現在なら優勝していてもおかしくない数字で、決して成績が低迷していたわけではなかったのに、1試合平均で4,213人しか入っていません。

なぜかといえば、当時の阪神は読売戦はそこそこお客が入るものの、それ以外はガラガラという有様だったのです。

それにしても、当時新興球団で戦力的に低迷していた国鉄、広島より動員数が低いというのは衝撃的ですね。

特に広島はまだ初代の広島市民球場完成前で、交通の便も悪く収容人員も1万人前後という広島総合球場(現広島総合グラウンド野球場)を主な本拠地としていた時代です。

その広島より観客数が少ないというのは、地元民の人気の差と言わざるをえないんじゃないでしょうか。

 

以前の記事でもご紹介しましたが、この当時関西で随一の観客動員を誇ったのは南海でした。

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この年の南海の動員数は656,002(10,933)人で、プロ野球全体でも読売に次ぐ動員数です。

成績的にも毎年のように西鉄と優勝を争い、エース別所引き抜きによる読売との遺恨で南海人気が最も盛り上がっていた時代であり、1951(昭和26)年にはナイター設備も完備したことで、南海は観客動員において阪神を大きくリードしたといえます。

 

ただ、阪神の観客動員における底はこの1952年で、翌年には627,644(9,656)人と大きく盛り返します。

これは平日の夜には大阪球場を「間借り」してナイターを行った効果といえるでしょう。

以後、阪神は年間の動員数で50万人をきることはなくなります。

1956(昭和31)年にはついに甲子園にもナイター設備が設置され、阪神はこの年から3年間は80~90万人の動員を誇るようになります。

しかし、ナイターの効果も長続きはせず、1959(昭和34)年には、ミスタータイガース、藤村の引退など、若手との切り替え時期ということもあったのか、この年を含めた以後3年間、観客動員は再び50~60万人ほどで推移します。

 

大きな転機は1962(昭和37)年、阪神は2リーグ分裂後、初めてリーグ優勝を飾りました。

この年の観客数は1,018,000人で、球団史上初めて100万人を突破します。

翌年は借金1の3位で70万人代に再び落ち込みますが、1964(昭和39)年に2度目のリーグ優勝を果たすと、この年再び年間動員数は100万人の大台に乗ります。

そして、この年以降、常に関西のプロ野球阪神と人気を二分していた南海と、観客動員において大きくその差を広げていくことになるのです。

 

1960年代のファン拡大と1985年の日本一

 

60年代末までは、優勝すれば100万人を超す観衆が詰めかけますが、そうでなければ、なかなか100万人は突破できない状況でした。

しかしながら、1959年の「天覧試合」での悲劇的な敗戦以来、読売への「遺恨」を生んだ阪神は、1965(昭和40)年に始まる読売のいわゆるV9時代に、関西におけるその「相手役」として多くのファンを集めることに成功します。

その結果、それまで優勝しなければ増えなかった入場者の数が、1966(昭和41)年の698,700人を底として、1967(昭和42)年に797,500人、1968(昭和43)年に826,500人と増やし、1969(昭和44)年には、ついに1,031,800人と100万人を突破します。

1964年の優勝以来5年間優勝から遠ざかりながらも、観客動員は増え続ける。

この現象からは明らかに甲子園球場にやってくる観客の質的な変化が見て取れるのではと思います。

つまり、優勝などのプレミアムな価値があろうがなかろうが、阪神の試合を見たいと思う、いわゆる「阪神ファン」そのものの数が、60年代に劇的に増えたとみられるのです。

この阪神ファンの劇的増加は、関西も含めて、全国的にテレビのプロ野球中継が読売戦中心になっていった時期と符合します。

そして1964年の優勝以来の動員数100万人を突破をはたした1969年は、阪神の地元、兵庫県独立UHF局サンテレビが開局し、同局が阪神戦の完全中継を開始した年にぴたりと符合します。

年間動員数は1970(昭和45)年も100万人を突破し、1971(昭和46)年に成績が5位と低迷して、いったん715,500人まで落ち込むものの、「あと1勝で優勝」というところまで読売と競り合った1973(昭和48)年には再び100万人を突破。

以降、100万人を割り込むことはなくなりました。

60年代後半といえば、村山、江夏が読売の長嶋、王に立ち向かい、1969年には不世出のホームランアーチスト田淵幸一が入団。王とホームラン王を争い始める時期です。

長嶋、王と真っ向対決するスター選手の出現もあって阪神の人気は確固たるものとなり、ここに阪神は、優勝しなくても観客が集まる状態となりました。

このような状況が原因となったのか、1973年、残り2試合どちらかを勝てば優勝という中、エースの江夏に球団首脳が「勝たなくていい」と言ったという有名な事件が起こります。

「優勝したら選手の給料が上がるから勝たなくていい」。優勝争いをしているチームのエースに投げ掛ける言葉としては信じられない言葉です。

球団首脳に好意的な受け止め方をするならば、エースの緊張をほぐすためのジョークとも受け取れますが、基本的に収益をチームの成績に優先させる、一言でいえばケチくさい経営体質を体現した言葉とも受け取れてしまうのがつらいところですね。

悲しいかな、あの阪神の経営首脳人なら言いそうなことだと。

 

ちなみにこの1973年は読売の9連覇最後の年になるわけですが、プロ野球全体でも大きく観客動員が伸びた年で、前年比でセパともに約150万ほど観客を伸ばしています。

阪神の観客増は、阪神だけの現象というわけではなく、プロ野球全体の人気増という大きなムーブメントの中で見る必要があるのかもしれません。

 

1973年以降も阪神の年間動員数は堅調に増え、1975年(昭和50)年には130万人を突破します。

この時点ですでに1964年の優勝から10年以上も優勝から遠ざかっているにも関わらず、甲子園には毎年のように多くの観客がつめかけ、それも年を追うごとに増えてくるのです。

70年代後半から、80年代にかけては、優勝からは遠ざかるものの、掛布雅之真弓明信岡田彰布そしてバースといった、「あの年」の中心メンバーたちが活躍を始める時期でもありました。

1979(昭和54)年には165万人、1982(昭和57)年には192万人と、ついに中日を抜いてセリーグでは巨人に次ぐ動員数を誇るようになります。

 

そして迎えた1985(昭和60)年。

1番真弓、3番バース、4番掛布、5番岡田を中心とした打線が、当時のセリーグ記録となる219本のホームランを放つなど猛威を振るい、21年ぶりのリーグ制覇と、1リーグ時代から38年ぶり、2リーグ分裂後は初となる悲願の日本一に輝くのです。

この年、空前の阪神フィーバーに沸いた甲子園。その年間動員数は260,2000人。

1952年の実に10倍の観衆が、阪神の主催試合に詰めかけ、ついに球団史上初めて年間の動員数が200万人を突破しました。

毎日ガラガラだった甲子園に、連日大勢の阪神ファンが詰めかけるようになったといえるのは、この年、1985年からということができるでしょう。

 

こうしてみると、阪神の観客動員は、読売のV9時代に飛躍し、その後も優勝しなかったにもかかわらず「拡大再生産」を続けていったことがわかります。

しかしながら、100万人や200万人という大台をこえるポイントでは、やはり「優勝」という最高の成績が必要であったこともまた事実です。

強いチームを作ればたくさんのお客さんが来てくれる。

1985年の優勝で、収益とチームの成績の大きな相関関係に、阪神球団首脳も気づいてくれたとは思うのですが、阪神をその後待っていたのは長い長い暗黒の時代でした。

 

この後、どのように観客動員は推移していったのか、次回ご紹介したいと思います。

 

参考文献

統計データ | NPB.jp 日本野球機構

 

阪神タイガースの虚実を赤裸々に描き出す一冊ですが、阪神だけでなく、草創期から現在に至るプロ野球の歴史をたどる内容となっており、プロ野球ファンならば非常に興味深い内容となっていると思います。 

 

次回はこちら。

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