日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。結論の出ない、個人的で偏った見解の考察が主です。

「察して行動してもらえる」と単純に嬉しい。

察しの悪い相手を批判するコメントをすると、仲間内では、共感され同情もしてもらえるが、不特定多数からは時と場合によって、

「相手は超能力者じゃない」

「察して欲しいと思うのが、そもそも間違い」 

「言葉に表してはっきりと伝えない、自分が悪い」

との正論が高頻度で返って来る。

 

確かに正論ではある。

ではあるが、「言葉に表してはっきりと伝える」のは、単純に面倒だし、気も使う。頭も使う。言葉も、タイミングも考えなければいけない。

だから、こちらが言葉を発せずとも「察して行動して欲しい」と思うのは、人間として本能的に「おかしな」感覚ではないと、個人的には思っている。

言い方を変えれば、自分が相手に「愛」や「優しさ」「労りの心」があれば、「察して行動する」のはごくごく自然だと、個人的には思っている。

 

単純に相手が「察して行動」してくれた方が、自分の担当する仕事の実質量が減る分、自分が楽できるのは事実だ。

 

特別、家事・育児において、相手に対する「愛」や「優しさ」「労りの心」は行動を起こす切っ掛けにも、動機にもなりうる。

故に、「察して行動してもらえる」事実に、非常に重きを置きたいと思う自分がいる。

 

先月の出来事だ。

夫が休みの日、午後から私は頭が痛くなって布団で寝ていた。気が付くと、下の娘も寝てしまったようで、一緒の布団で寝ていた。夕方、リビングに降りると、そこはもぬけの殻。床には出しっぱなしの絵本が一冊、テーブルにはミカンの皮が、シンクには下の娘のお弁当箱とスプーンセットが洗われないまま放置されていた。

こういう時、私はイライラしながらも、頭痛をこらえて、つい掃除や片づけをしてしまう。帰宅後の夫に、自分の気持ちを伝えるのを躊躇してしまう。

理由は、夫のが帰宅が遅いから、だ。

夫から、日頃「就寝時間が遅い」「夕食の時間が遅い」と指摘を受けてきたから、だ。

夫の帰宅を待って、夫にお願いするのは「非効率的」だと考えてしまうから、だ。

もっと言えば、夫の帰宅を待って、夫にお願いするのは「意地が悪い」なと思ってしまうから、だ。

夫に自分正直な気持ちを伝えたとしても、夫は変わらないと過去の経験から学んでいるからだ。 

 

とは言え、そんな夫を私は快くはやはり思えない。

「普段仕事をしているのだから」

「上の娘と外出して、私を家で休ませてくれてたのだから」

「夫の性格上、気にならないのだから」

仕方がない、とはどうしても思えない心の狭い私だ。

 

 

一時「名前のない家事」なるフレーズが流行った。

ある意味この「名前のない家事」は「自分はやらずに(気が付かずに、気を配ろうとせずに、察せずに)いた結果」生まれる家事だと言える。

「自分が直接行動しない」ことで相手に「察して行動する」を暗黙の了解的に求めているとも言えるのだ。

  • シャンプーやリンスの詰め替え。
  • トイレットペーパーなどの生活雑貨の在庫管理。
  • 飲み切った麦茶を新しく作る。
  • 洗い籠の食器を片付ける。

等など、「気付いてもらえず」「察してもらえず」に放置されている家事を、「察する努力もせず放置する」世の夫は多い。

それは単純に家にいる時間が短いため、役割分担として仕事に専念しているため、そもそも「察しなくとも日常生活が回る」ため、当然の成り行きではある。

ただ、自分は相手からの「愛」や「優しさ」「労りの心」を理由に常日頃「察して行動して」もらいながら、相手が困っていたり、しんどそうにしていたり、イライラしているときにも、変わらず「待ち」の姿勢でいるのを、「仕方がない」で済ませてよいのだろうか、とは思う。

いや、相手が困っていたり、しんどそうにしていたり、イライラしていなくとも、相手への「愛」と「優しさ」「労りの心」があれば、相手が一人いそいそと立ち働いてれば、自然と自分の行動に表れるのではないか、とも思う。

 

少なくとも、相手が大人ではなく子供(はっきりと意思を伝えられる年齢であってもなくても)であれば「愛」と「優しさ」を理由に、親が「察して行動する」のを良しと考える人は多いはずだ。

 

 

きっと客観的には、どんなに屁理屈をこねても、「言葉に表してはっきりと伝える」が唯一の正解であり、解決方法なのだろう。

とは言え、「言葉に表してはっきりと伝える」のはとても難しい。

「言葉に表してはっきりと伝え、相手に理解をしてもらう」のはもっと難しい。

「言葉に表してはっきりと伝え、相手に理解をしてもらい、行動に移してもらう」のはもっともっと難しい。

実際問題、過去に何度も勇気を出して言葉にしてみても、理由もなく「できない(やりたくない)」と断られる経験を私はしている。

 

もっと言えば私の場合、

「自分が楽をしたいから、やって欲しい」

と言っているようで、非常に極まりが悪く思ってしまう悪い癖がある。

そこには常に「自分が頑張れば、我慢すれば、効率よく動ければ、要周到に準備できていれば、相手に期待せずに、頼らずに済むのではないか??」との自問が常にある。

だからこそ、言葉に表してはっきり伝えるのに、躊躇してしまう。

だからこそ、言葉を飲み込んでしまう。

もっとも、私の場合、言葉に表さずとも態度に出てしまっているので、元も子もないのだけれども。

  

 

 それならいっそのこと、万が一の可能性に託して「察して行動してもらう」にかけてみたくなってしまう弱気な私が常にいる。

 

 

「察して行動してもらえる」と、単純に自分の負担が減り楽ができるだけではなく、相手からの「愛」や「優しさ」「労りの心」を感じられ、嬉しさが倍増するから、不思議だ。