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この世もあの世も全て創造主によりプログラミングされていて、一人一人の人間には、アートマンと言われる自我から、ブラフマンと言われる梵我、その先のブラーフマナと言われる梵我一如ということまで全てプログラミングされているのよ。

 

どのレベルまで悟るかはその人の思いを見ながら、その人の脳が適切にナビゲートするようプログラミングされているの。というのが直近の理解なの。そのように理解してしまうと、これまであーでもない、こうでもないと色々なことを引き合いに出して聖書のことを記述して来たけれども、日本語の言霊に施されているプログラミングを駆使すれば、一本の記事で簡潔に語ってしまえるのではないのというのがこの記事の主旨なの。創世記からヨハネの黙示録迄簡潔に。

 

いくわよ。

 

神様が園の中央に生えさせられた二本の木とは虚実の木と真実の木なの。食べると死ぬ虚ろな実のなる木と、取って食べることを許されれば永遠に生きることのできる真の実のなる木なの。虚実と真実とは対義語なのよ。

 

そしてこの二本の木はアートマンと言われる自我とブラフマンと言われる梵我の暗喩になっているのよ。このアートマンの木は聖書では善悪を知る木と命名されているの。解釈すると人間は梵我を悟る以前の自我の状態で生まれてくるの。そこに蛇がいてそそのかしたというのは、この自我の世界が六道の悪趣とされる世界で、阿修羅たちの巷であり、唆しと誘惑に満ちているということなの。そのような中で善悪を知るようにプログラミングされているの。

 

この世に生まれることを許されなかった悪霊たちもこの世界に干渉するのよ。それが唆す蛇の暗喩なの。親玉はサタンと呼ばれるでしょ。

 

イブは唆されたけれども神様の巫女として創造されていたから即座に眼が開けたの。そして裸の恥を知り信仰で体をおおい神様に懺悔し皮の衣を賜ったの。アダムは神に仕える巫覡として創造されていて、天父に仕えるメシアの暗喩も含み持たされているの。

 

だからイブが唆された罪を自分も負ったの。そのことによりイブを贖い結ばれたのよ。最初の男女の創造においてすでにメシアの救済が語られているのよ。

 

しかし二人とも虚実の木から取って食べたので一度は死ぬの。しかし真の実であるメシアに贖われて命の木への道を守らせられたと書かれているのよ。

 

この命の木への道はケルビムときらめく炎の剣で守らせられたと書かれているけれども、これは龍神様の登竜門で、神道ではとおりゃんせの細道として知られているの。キリストの言った狭き門よ。その難関を通る作法がアジア全域で知られる解脱、救済、モクシャなの。

 

それは密教として封印されているような奥義も含んでいるの。この難関を開いたのがイエスなのよ。イエスの御言葉が聖書に全展開されているのだけれども、このイエスと天父の梵我一如のプログラムは限られた人にしか理解されなかったので、ほとんどが密教として封印されているの。

 

しかしイエスはその全貌を御言葉として残しているわよ。その密教は悟りの段階に応じてその人の脳がその人の思いに合せてナビゲートするから理解されるようになるのよ。聖書の天地創造においては創造から救済のプログラムの一区切りとして七日間という暗喩が示されているでしょ。

 

神道では七つのお祝いのための細道として示されているのよ。そのようにして創世記が始まっているのだけれども、その記述はイエスの前世である神がモーセを召命して書かせたことなのよ。

 

それはイエスの「モーセは私のことを書いたのである」という言葉が証ししているのよ。その他にもそれを証しする御言葉は有るけれどもここでは省略。

 

そして旧約聖書では創世記以降そのほとんどが、その神に召命された預言者たちにより、真実の神に帰依するようにイスラエルにおいて促される物語になっているの。様々な暗喩によりメシアの来臨が預言され、その来臨の意味がより複雑な暗喩により示されるという記述体系になっているの。

 

その一つ一つはこの記事では省略するわね。私が気の付いていない暗喩などもそこここにありそうだし、暗喩と気が付かなかった記述が、古事記の中で示されていて、そこに重要な意味が示されていたり、というようなこともある複雑さなの。

 

しかしそれらはすべてイスラエルのカバラが元になっているので、カバラの命の木の構造を大まかにでも理解してしまうと、マスターキーを手にしてしまったみたいにどこの扉でも開いてしまったりするのよ。

 

しかしそれはイエスに対する信仰の完成度により左右されるという側面は結構大事かもしれないわよ。大御神=イエスで、それはカバラにより示されていると知っていても、本当に解脱しなければその登竜門は通していただけないとはっきり自覚している人は少ないと思うのよ。

 

そのように自覚しないと、そのようにこの世はプログラミングされていると気が付かないわよ。この記事ではイスラエルのことは語りつくせないから旧約はここまでにして新約に移行するわ。

 

イエスはね世を照らす光の神なの。そう福音書記者ヨハネは記述しているでしょ。この光の神は創造主の「光あれ」という御言葉でなった神なの。だから神の子なのよ。だから聖霊により処女に身ごもるという離れ業も、世を照らすためであれば可能なの。創造主に不可能はないの。

 

そのような理解は信仰によるしかないわね。そのことを突き詰めて考えても、人の思いで神様のその領域のことを悟るようにはプログラミングされていないし、横道にそれるだけだからやめておきなさい、と私のナビゲーターは言うのよ。だからそれに従うの。

 

そのように神様に対する信仰を持つことを、預言者とその書により促されながら、何度も何度も失敗を繰り返しながら、とうとうイスラエルはイエス降誕の時代を迎えたのよ。

 

イエスの十二歳の時の記述に「私が父の家にいるというのをご存知なかったのですか」というのがあるでしょ。十二歳の時に梵我一如の人だったということでしょ。その後三十歳までのことが一切聖書には書かれていないのだけれど、チベットにイエスのその間のことが書かれている書物があるのよ。

 

「聖イッサ伝」というらしいのだけれども、そこに二十代の頃にはバラモンの聖典をマスターし、その後仏陀の生地ブッダガヤで仏伝を学んでいたと書かれているの。

 

試しに仏陀の入滅から五百六十七年たしてみたら西暦24年前後にあたるのよ。イエスが仏伝を学んでいたとされる時期とぴったり重なっているのよ。仏陀の生涯もイエスの生涯もそのようにプログラミングされていたということではないの?仏陀はそのプログラミングとナビゲーションのシステムを悟ってしまっていたのではないの?というのが私の理解。私は脳にそのようにナビゲートされているの。

 

新約で次に注目する場面は洗礼者ヨハネ。この人は洗礼を受けようとしてやってきたパリサイ人たちに蝮の子らといきなり罵声を浴びせ、悔い改めにふさわしい実を結べ、善い実を結ばない木の根元には斧が置かれている。私の後から来るイエスは手に箕を持ち、打ち場をきれいにし、麦は倉に納め、殻は消えない火で焼き尽くすと言った人なの。

 

虚実の木の根元には斧が置かれているのよ。だから悔い改めて善因善果の善い実を結びなさいということでしょ。虚実の木はいずれ切り倒されるから、そのようなことから解脱しなさいと言っているでしょ。当たり前のように園の中央に生えている二本の木のことを言っているでしょ。

 

しかもその二本の木には神様の篩う篩の意味があると示唆しているの。

 

簡潔にと思ったけれども神様のことは書きたいことが後から後から出てきてとても簡潔に書けなくなってきたわ。一気に結びに持って行ってしまうわね。

 

要するにこの二本の木でプログラムのすべてが理解できてしまうということなのよ。イエスはある時、空腹時にいちじくの木に実が生っていないのを見て腹を立てその木を呪ってしまったの。そしたら次の日にその木は枯れてしまっていたの。いちじくのなる季節ではなかったと書かれているのよ。ここでは季節に関わらずいつも善い実を生らせていないとイエスの言葉を受け立ち枯れさせられると言っているのよ。

 

そしてイエスは、私は真のぶどうの木であると言っているでしょ。それは十字架上のイエスは真のぶどうの木になる真の実であり真実だということなのよ。これがブラフマンの木なの。梵我の悟りの木なの。その真実のぶどう酒がイエスの杯なの。

 

なぜアートマンの虚実の阿修羅たちのために御言葉し、その罪を肩代わりして負い、十字架上で真実と化したのかというと、それらの阿修羅たちが悟れば梵我の善い果実を生らせるようにプログラミングされている事を知っていたからなのよ。

 

しかしそのための狭き門を見つけられない阿修羅が多いこともよく御存知だったの。ヨハネはそのような阿修羅たちのことを、姦淫の杯に酔いしれるバビロンの淫婦と呼んだでしょ。一気に黙示録よ。

 

それはね虚実の実を食べそれで満足してしまい、その味に酔ってしまう阿修羅たちのことを言っているのよ。その実は偽りの葡萄の木になる虚実なのよ。だから神の怒りの酒船で踏まれると書かれているの。イブが取って食べたのは林檎ではないの。リンゴは酒船で踏まれないでしょ。

 

真のぶどう酒がイエスの杯で、偽りのぶどう酒が姦淫の杯なのよ。その偽りのぶどうの木の根元に斧が置かれていて神の怒りの日にその虚実は怒りの酒船で踏まれ、偽りのぶどうの木は切り倒されると聖書では示されているの。

 

いったいどんなことが待ち受けているのか想像するしかないのだけれど、黙示録では別の角度からもう少し具体的に語られているわよ。それが一度目の死と二度目の死。一度目の復活と二度目の復活なの。

 

一度目の死とは人がこの世に来て虚実の木から取って食べ神に背くので受ける死。これはそのようにプログラムされているとしか言いようがないでしょ。でもね、この一度目の死からはイエスの十字架の贖いにより、アダムがいいなづけのイブを贖ったように買い戻され許されるのよ。だから人はすべて一度目の死を受けても復活するの。

 

しかしね、その復活に一度目の復活と二度目の復活があるの。そして一度目の復活にあずかるものは二度目の死から害を受けないとヨハネは黙示しているのよ。問題になるのは二度目の復活なのよ。どこでその違いが生まれるのかというと、イエスを信じたかそうではないかなの。

 

なぜそう言えるのかというと、イエスが「私を信じない者が私を殺すのである」と言っているわよ。

 

イエスは世を照らす光の神で慈悲の神様だから信じない者のためにも身代わりになったの。だからそのような阿修羅でもイエスには許されているのよ。そこにイエスの贖いの効力があるの。

 

しかしね、イエスがお許しになっても神様はイエスだけではないでしょ。御父や聖霊に許されると思う?イエスは「子に逆らう者は許される、しかし聖霊に逆らう者はこの世においてもあの世においても許されることはない」と言っているわよ。

 

それらのことが全て創造主のプログラミングにより進行中なの。

 

神様のプログラミングにおいてはすべての人が二度目の死を免れるように設計されているわよ。そうでなければ全人類のための身代わりなど意味がないでしょ。

 

そのように設計されていながら神様を信じない者がイエス殺しとしての怒りを招くのよ。

 

怒りの日が黙示されている以上は、一日一日と日取りは押し詰まっているということでしょ。天地創造から終わりに至るプログラムは滞りなく進行中なの。

 

そのすべての終わりがいつになろうとも一人一人に初めと終わりがあるでしょ。だからイエスは「私は初めであり終わりである」と言っていたのよ。

 

世を照らす光の神にしてメシア。

 

私たちの天照大御神なの。



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