2019年7月2日火曜日

武道と体罰、それから仮面ライダー。

   特に何も悪いことをしていないのに、時に息子が可愛くて、両方のほっぺを指でぎゅっ寄せるとまたなんか可愛らしい変な顔になります。親バカですね(^^;)

   体や精神に苦痛を与えることが絶対悪ならば、彼氏・彼女にこっぴどくフラれたショックも(その上新しい恋人ができたなどと知人の名前を挙げられた日にはコンボ成立)、成績が下がって部活や習い事をやめさせられるショックも悪なはず。
   スマホで話してて捕まり罰金を課されるのも経済的にも苦痛ですし、懲役刑なんていうのは国家権力にしばかれるような体罰です。でもこれらが悪だ!なんて話はあまり聞きません。


 むしろ息子が突如仮面ライダージオウに変身し、何かを振り回しながら未熟なライダーキックをお見舞いしてくる方がよっぽど体罰なんですけれども、微笑ましい。何かが違う気がします。



 教育というと眩しいものが多いように感じます。こどものためを思えば、あれもさせたいこれもさせたいと思ってしまいますよね。先に記事で書いた子育て応援フェスタでは、私も白河の井上先生から譲っていただいたディズニーの英語教育システム紹介DVDの会社ワールドファミリーさんが、すぐ目の前に出展していたので、説明を聞きにいきました。(ちなみにその会社の社員さんが、子供に空手を習わせたいと道場のブースを訪れてくれたのがきっかけです笑)。

 いろんなブースを覗けば、子育て応援と銘打っているので当たり前ですが、ポジティブな内容ばかりです。そのため「教育」という分野は、全てが崇高でありがたいもののように思えてきます。

 教育について、最近色んな記事を目にする機会があり、考えさせられました。特に体罰について。

 児童虐待防止のための抜本的強化策として、親権者による「体罰の禁止」が法律に明記されるようになったことは記憶に新しいですね。私の体罰に対する考え方をまとめておこうと思います。なぜならば空手の指導員としては、この体罰問題については向き合い、真剣に考えなければなりません。厳しい上下関係や直接打撃の稽古を行う極真空手の道場では特に、です。このような法改正までもがなされた背景には何があるのか。そしてその言説は現実と照らして正しいのか。

少し長くなるかと思いますが、お付き合いください。と思いましたが書き上げたら、読み通す人はいないんじゃないかというような文量になってしまいました。


体罰とは


辞書で引くと「体に苦痛を与える罰」とあります。では、罰を引くと「仕置き(しおき)」となっています。辞書的定義に従えば、怪人をフルボッコにする仮面ライダーも、印籠を見せつけてもろに「懲らしめてやりなさい」という決め台詞のご老公さまも体罰になります。これほど簡単に理解できるのに辞書的な理解が無意味だと思う言葉もそうありません。


よく体罰は賛成派と反対派に二分されがちです。私には、そう単純な二項対立、二者択一の問題にはどうしても思えません。その理由は、体罰という言葉の含むものが、文化的な価値観の違い・ギャップをも内包しているからでしょう。

よく話題になる「体罰」は、虐待と重なる部分が少なくありません。そしてこのような意味での「体に苦痛を与えることが目的」の体罰は絶対に禁止されるべきです。
けれどもそうでない「体罰」もまたあることを忘れてはなりません。


体罰問題で矢面に立つことの多い文科省のホームページでは、学校教育法第11条を以下のように示しています。

学校教育法11条(児童、生徒等の懲戒)
校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。


私の在学していた20年以上前は、百戦錬磨、一騎当千といったおもむきの先生がビンタとかで荒れた校内を縦横無尽に駆け回っていましたが、校長先生にも同じような指導をする権限があったのですね。ここで、懲戒ということばがでてきましたが、こちらについても少し補足します。


民法第822条
親権を行う者は、第820条の規定による監護及び教育に必要な範囲内でその子を懲戒することができる。


 懲戒とは権利であると共に、親権者が負う、教育とその義務の一部に含まれるものです。この民法の定めとの法的対立が、今回の改正ではまだ決着がついていません。で、面倒ですが、もう一度文科省の呈示に戻り、体罰と懲戒の区別についてを参照します。


教員等が児童生徒に対して行った懲戒行為が体罰に当たるかどうかは、当該児童生徒の年齢、健康、心身の発達状況、当該行為が行われた場所的及び時間的環境、懲戒の態様等の諸条件を総合的に考え、個々の事案ごとに判断する必要がある。

 この際、単に、懲戒行為をした教員などや、懲戒行為を受けた児童生徒・保護者の主観により判断するのではなく、諸条件を客観的に考慮して判断すべきである。


このように解釈や判断の余地を多く残すからこそ、単に賛成・反対で論じていては、問題の本質から大きく遠ざかってしまうことが多いように思います。

ナノブロックという細かいレゴブロックのようなおもちゃがあります。細かいので作るのが難しいのですが、出来上がったときにはうまく表現されます。

わが家のナノブロックシーサー

体罰に関しても、賛成、反対というあまりに大きな2個のブロックだけではせいぜい対立することくらいしかできません。もうちょっと細部や背景に目を向けて考えてみようと思います。



本当に体罰は全てが悪なのか


例えば、言葉の理解や経験が浅い子供に対して
「道路に飛び出すのは危険だからぜったいにだめ」
ということを、伝えられるでしょうか?

 飛び出して車に轢かれかねなかったところを危うく助かった子に平手打ちをする。これは明確な体罰ではあるんですが、すべてを否定もできません。身体への苦痛を大きく超える利益(ここで言えば生命の保護)があるのなら、判断によって認められることもあるでしょう。我が子で考えれば、平手打ちの痛みで車に向って飛びださないならば、絶対に体罰の方を選んでしまいます。(私は)。


 一方、教育的しつけという大義名分を隠れ蓑にした、「虐待としての体罰」は、肯定のしようがありません。
 よく体罰が否定される際に、「親の暴力による問題解決」という表現がなされます。そういう体罰があることも事実でしょう。そしてそれは否定されるべきですが、そうではない体罰もあることを認識しておかなければなりません。


 私の場合は、小学校ではM先生という男性の怖い先生がビンタで無双し、中学校でも先生が女子生徒を平手打ちするような環境でした。父親も昭和の人間といいますか、普通に体罰のある親父でした。空手をはじめてからは、打つ・蹴るでもケロっとしていたので、ギターで殴られたことさえあります。まぁ、どこからどう見ても体罰ですね。


 時代が違ったといえばそれまでですが、そう紋きりで切り捨てる中に大切なものがあることも往々にしてよくあります。
 私の場合、父親からの体罰で親子関係が悪くなったかと言えば、全くそんなことがないんです。むしろ年齢を重ねるごとに、幼いころ嫌いだった親父が好きになっていきましたし、尊敬もしていました。

 だから不思議でしょうがなかったんです。体罰で必ず親子関係が悪くなってしまうとされる論調。なぜ、自分たちはその100%からも漏れるような幸運な例外であったのか。ニュースなどで目にする体罰とどこが違ったのか。


とある体罰の一例:Y家の場合


 改めて思い返してみると、親に体罰を受けたさまざまなきっかけっていうのが、後の人生に大きく影響していたからなんですね。処世術であったり、人の気持ちを考えていないときであったり。「あぁ、このことだったのか」と思える機会に巡り合ったからこそ、その体罰を恨む気持ちはまったくありませんでした(ただし罰が下った直後を除く)。

 それは幸運に実感する機会に恵まれたというよりも、そうなるであろうことを見越して体罰に処されたと言う方が正確かもしれません。その日の気分やテンションで殴打することはなく、何かの問題が勃発した際、事態が紛糾し、いよいよかという空気に満ちたとき、満を持して食らわされました。


 思い出の美化には十分気を付けなければなりませんが、中学3年生のとき「400ccのバイクを買ってくれ」とねだったことがあります。当時、年齢的に免許もない、とれもしないのに、親も「バイクを買ってくれ」と言われたところでまっとうな日本人です。肌が青くもないし、べん髪でないし、こすったランプから飛び出してくるような類の人でもないので、なすすべがありません。

 その一向に実現しようとしない状況に私が憤慨したところ、体罰が下りました。理屈の通らない要求に対して理屈でわからせようというのも、まったく無意味です。なぜならこの根幹の価値観は全く別物ですから。

 学生服で単車乗り回すのは今しかできない、バイクかっこいい、いますぐ自分のバイクを所有して乗り回したい。という幼い欲望に対し、免許の有無の分別すらつかない子供にバイクなんて危なくて買ってやれない。そもそも免許もないのに買えるはずがない。
 そんな相容れぬ対立がおきたらもう手が出るしかないんですね。分からせるためには。たぶんこれが「正義の鉄槌」という言葉の由来ではないかと思っています。

  そんなことはない!手段はある!といいたくなるのが人情ですが、残念ながら本当にそうなのであれば核兵器などとうに地球からは存在しないはず。実際は各国競って秘密裡につくっているのが現実です。これは不可避の体罰とでもいうんでしょうか。親父がいなくなってしまった今となっては笑い話となる体罰ですし、思い出の一部でもあります。


 結局のところ、体罰というのは受けた子供がどうとらえるかという点に収束します。愛情がある体罰かそうでないか、というととても抽象的ですが、「体罰」という言葉のなかには次の3つが混在しているように思います。

1.罰が、体に苦痛を与えることが目的であるもの。
2.罰が、体に与える苦痛をもって、心の成長を促すもの。
3.2の目的をもってなされたが、子供がストレスを抱えて1になったもの。

 ニュースなどのメディアが大きくとりあげるのは、決まって1のような、絶対に否定されるべき体罰のときだけです。それで世論は形成されいき、ついには法律が介入するような事態になってしまいました。これでは、裁判所なり児童相談所なり警察なりが「私たちは体罰が教育目的なのか虐待なのか分からないから全部禁止します」という、悲しい現実なのです。

  では、2のようなケースなら絶対に肯定されるべきか?と考えるとそれもまた難しいのです。何をもって心の成長とするのか、何が教育にあたるのかという判断基準は個々によって違うからです。

  その結果、周りから見るとやりすぎに見えたり虐待として通報されたりもします。ちなみに余談ですが、我が家も夜中に息子をお風呂に入れたところ大声で泣き、その結果、児童相談所の方々が来訪されました。



 私が親父を恨んでいない背景には、その後のフォローが必ずあったことが挙げられます。普段の親父は子供大好きでしたし、体罰のあとも少し時間を置いたら話にきてくれ「何がだめだったのか、なぜ手をあげたのか」を伝えてくれました。そして一番大事なのは「ほんとは手をあげたくない」という恐らくは本音も毎回必ず伝えてくれたことだと思います。
 どのような言葉が正しいのか、どうすればいいのかは分かりません。でも愛情に基づいたうえでの体罰は、世間で絶対悪と断罪される体罰とは全く異なります。それは継続的、長期的なものでもなく、同じ過ちを繰り返さなければなされない罰だったのです。

   そのことを示すかのように私が大人になるに連れて親父の体罰はなくなりました。成長を認め、それに応じた教育の一環だったのだと思えるようになったのです。これが20歳過ぎて何かにつけビンタされるような事態だったならば、私か親のどちらか、あるいは両方に問題があったということでしょう。


 この記事で、「あそこの指導者は体罰賛成派なのか!」と思われるかもしれません。でもその言葉の中の体罰というのは、非常にバイアスがかかった、メディアが形成して提供している体罰ではないでしょうか。

 私自身は、身体に苦痛を与えることを目的とした体罰には絶対反対派ですし、自分の例があるので、正しい体罰(ハードルは高いですが)ならば賛成といったスタンスです。ただしこれは我が子に対してであり、預かっている門下生を突く・蹴るなどで直接的に行う体罰は反対です。反対ですが、ときおり組手の稽古などで愛のムチと呼ばれる一線を踏み越えてしまって指摘されることもあり、気をつけなければと思います。


 文化的ギャップを多く含んだ問題だからこそ、賛成と反対の二分で判断するのは無理があります。いろんな価値観を認め、問題をモノクロではなくグラデーションで捉える。多様化、ダイバーシティなどというものの実現には、この視点が不可欠です。


 武道では、身体に苦痛を与えます。心肺機能であったり、筋力であったり。そして直接打撃制の極真空手では、痛みも加わってきます。
 それを稽古でなんとかしようと切磋琢磨する。なのでそれは「罰」として苦痛を与えているのではないから、「体罰である」とのそしりを免れているに過ぎません。

 私もときどきしてしまいますが、やる気がないという印象が、「返事をしない」、「気合いが小さい」という外形を伴ったときにはみんなで拳立てをしたりしますが、これは体罰にあたります。というよりも、極真空手に興味ない人から見れば、道場の稽古はすべてが体罰のように思えるかもしれませんね。



 ではそれがなぜ問題視されないのか。それは「こどもを、極真空手で武道教育を行う門馬道場に預けた」という保護者さまからの信頼ゆえにです。だからこそ、私たちは、常に体罰という問題と向かい合い、それが指導という名の暴力の域に踏み込まないために常に自戒しないといけませんね。そうでなければ、その保護者さまからの信頼は簡単に崩壊してしまいます。

 また、指導者が教育目的であったとしても、その子供の心などの成長具合を無視することもできません。教育目的があったとしても、子どもにとって負担となれば重なり続けて、いつかは身体的なり非身体的なり、「単なる」傷を残してしまうでしょう。

 大会会場で試合に負けたお子さんをはたくなどしている保護者さんは、こどもの頑張った姿を無視して否定している形です。コートの上では練習したことが発揮できなかったかもしれない。けれど、コートに立つまでの過程、そして試合中、子どもがどれだけがんばっていたかを指導員は知っています。そのこどものがんばった姿を無視して、はたいたりするのをみると、私たちはとても残念な気持ちになってしまうわけです。


体罰をもって教育を行うには、十分過ぎるほどの配慮をもってしなければ、簡単に暴力との境界性を飛び越えてしまうことを十分に理解しておかなければなりません。でもそれが正解なのか、いや正解があるのかすら定かではありません。


 正解がないものに対しての正解は「常に向かい合い、考え続けること」。これからもそれを念頭に置いて向き合っていこうと思います。

 いろいろ価値観の移ろいゆく時代ではありますが、それでも。
 いつでも子供を思う親の気持ちだけは、変わらない世界でありたい。

 そう願いながら


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ここから先は、体罰による脳の委縮について、少し複雑な話になってしまいます。興味のある方はお読みください。



体罰による脳の委縮について


 この問題については医療施設で働くものとしては、少し書いておきたいと思います。福井大学こどものこころの発達研究センターの友田教授と米ハーバード大学の共同で行われた研究で、体罰によって脳の一部が19.1%減少していた、というものです。

まず、研究の内容ですが、

1500人に聞き取りを行った中から、「ほおへの平手打ちやベルトで尻をたたかれるなど子ども時代に【厳格な体罰を長期かつ継続的に受けた23人を抽出】して、MRIで調べた結果、前頭前野の容積の減少が平均して19.1%少なく、萎縮していたことがわかった。

(※【】は筆者注)
出典1:中日新聞(2018.3.6)オピリーナ『親の体罰・暴言で脳変形』
https://opi-rina.chunichi.co.jp/topic/20180306-1.html

出典2:日本心理学会『体罰や言葉での虐待が脳の発達に与える影響』
https://psych.or.jp/publication/world080/pw05/



 といういうものです。平均という指標もやっかいで、極端な数値が含まれた場合、それも反映してしまうという欠点があります。なので、1500人より選ばれし23人という、どこかの勇者みたいに意図的に抽出された母集団からの数値、しかも平均値だけでは実態を測るのには難しい側面があります。

 それはそれとしても、抽出された被験者は、かなり重度の体罰を受けていた人たちのようですね。これはもはや体罰を越えて虐待と言え、そこまでされれば脳も何らか傷つくのだと思います。ただしこれは極端な体罰の例の結果であるとも言えます。

 友田先生は論文において、前頭前野内側分の平均19.1%減少についてのトピックスの見出し(出典に明記の論文p.17 3)を、「激しい体罰の脳への影響」とつけています。激しい体罰とは言葉選びの問題で、それはもはや教育目的を失った単なる暴力、虐待であり、体罰ではありません。なので体罰の程度や使い方を考慮しないで、体罰=脳が委縮する、というのはややセンショーショナルに偏った言説だと言えます。

出典3:『披虐待者の脳科学研究』(児童青年精神医学とその近接領域)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jscap/57/5/57_719/_pdf/-char/ja



  また、友田先生自身も脳と精神疾患の関連については『近年の研究では…精神疾患の原因の少なくとも一部は、脳の発達段階で負荷がかかることが原因と言われている』(同論文p16 L6〜)としているように断言を避けています。

    相関関係がある、という言い方は統計学から見ると疑ってかかるべき形です。相関関係には直接的に関係しているものと、隠れた要因を介して相関関係があるように見えるものとがあるからです。

    いろんなタブーに突っ込んで研究するアメリカでは、両親の職業階層・所得と子供の学歴という容赦ない調査もばんばん行なっています。
   そこでは両親の職業階層がホワイトカラーである家庭の子供は学歴が高いという相関関係が示されています。

   ですが、親がホワイトカラーであるから、子供の学歴が高くなるわけではありません。ホワイトカラーは収入が高い水準で維持され、なおかつ勉強に対する重要性を認識しやすい環境下で教育を受けた親が多く、その結果、親が収入や貯蓄を子供の勉強環境に投資することによって、子供の学歴が高くなっているのです。


  親がホワイトカラーで所得が高くとも、酒やギャンブルに明け暮れ貯蓄もしないといったワイルドな生活スタイルであった場合、子供の学歴は必ずしも高くなるわけではありません。


    このように相関関係の読み解きには慎重にならないと、因果関係を誤って紐解くことになります。なので友田先生も学術論文として、「正の相関が認められる」とするに留まっているのです。医者としてはもちろん正しい言い回しと言えます。

   脳や精神疾患については未だ未知の部分が多く、論争の最中にあります。うつ病は長年、脳内のセロトニンという物質の機能低下が原因と言われ(モノアミン仮説)、それを補う薬理が適用されてきました。
   しかし現代医学では、そもそも脳内のセロトニンを計測する手段がなく、このモノアミン仮説も既に否定されて決着がついています。


   それよりも以前に、うつ病の判断基準(DSM)そのものが、制作者たち(アメリカ精神医学会)によって否定され始めるなど非常にあいまいなものになっています。なのでここに関わる領域については慎重に判断すべきかもしれません。
   解明がされていないだけで、「なんかわかんないけどたぶんそうだ」というもの全てが必ず誤りというわけでもありませんからね(^_^;)


 私は子どもに十分配慮した注意深い運用の成される体罰(ハードルが高い)には割と寛容的ですが、脳に深刻なダメージを与えるような激しい体罰(≒虐待)には絶対反対ですということも述べておきたいと思います。
 ながいながい記事になってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。最後は、本研究の友田教授の言葉を借りて結びたいと思います。

 一連のエビデンスの理解が、大人が責任をもって子どもと接することができる社会を築き、少しでも子どもたちの未来に光をあてることができればと願っている。私の場合は、極真空手と門馬道場を通じて。





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