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兵庫県神崎郡福崎町駅前にある正一位道分稲荷神社に参拝してきました。

主祭神、宇賀御魂神

由緒より

道分稲荷神社は大正四年に創建される、明治二十七年播但線敷設と同じく、福崎駅が設置され、以来駅前は長足の発展をなし、商工業者の移住する者、年を逐いて増加し、明治末頃は百戸以上の大字を形成し、郡内枢要の商業地たり、今、その重要な機関を挙げれば、銀行やむしろかます製造工場に製造工場、精米所、酒造所、印刷所、ほかに、女子技法学校、病院、精米検査所、むしろかます検査所等々すべての機関を備え、時を考えれば将来に町制実施の市街地となるは、そう遠くないと思われる。しかし、駅前は、新開地ゆえ、崇敬すべき神社なく、信仰する祭祠なきは、この地のけってんと住民は常々思いながらも、祠創立の話が度々議題に上がるのみ。空しく歳月すぐ、時に大正四年十一月、大正天皇即位の御大典が行われ、全国各神社で盛んに式典が行われるにあたり、駅前地区に熱誠な祠創立の機運は盛り上がる。祭神、宇賀御魂神を京都伏見稲荷より、また、岡山最上稲荷だいぼさつの霊観請し、御大典を永く記念し、駅前住民の敬神の場となす。住民の商売繁盛や学芸向上に祈念に場として近年は、万を数える人出を見て盛大な夏祭りが行われるようになり、嬉しく思い、祠創立に甚力された人々に感謝する。



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兵庫県加古川市尾上町口里770にある浜宮天神社に奉拝してきました。近くに学校、公園等があって子供達の遊ぶ声がよく聞こえて癒されました^ ^

御祭神            

菅原道真公 大己貴命(大国主命) 少彦名命             

由 緒

当神社は学問の神様として広く世人に崇敬されている贈太政大臣正一位菅原道真公を主祭神に、脇殿に大己貴命、少彦名命をお祀りする神社であります。

延喜元年(901年)菅公筑紫左遷の砌当地に御休息され海上の平穏と萬民の幸福を祈願され記念に松樹を植えられました。後世の人、公の徳を追慕し長和元年(1012年)小祠を建てお祀りしたのが起源で、文安元年(1444年)八月三十日社殿を建立し特に学問の神としてお祀りしています。

天文五年(1536年)七月領主赤松政村殿より社領十五石が寄せられ元和五年(1619年)十月京都所司代板倉伊賀守勝重殿より社領十石並に境内地七十五町歩の寄進があり注:寛文十三年(1673年)大改築が行われ、雄大荘厳な社殿が竣工し宏大な境内地を有し社頭大いに栄えていました。其の後約百年毎に大修理が行われ明治六年郷社に列格されました。

昭和四十八年九月より大改築を行い昭和五十年三月現代の社殿が完成しました。誠に忝くも「我を信ずる輩は諸の悪事災難風波の難を救はん」との御神託を伝え、学業成就、縁結び、家業繁栄、交通安全の神様と仰がれています。

台場差しラブラブ

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夕暮れは絶品ですラブラブ

ここは「住吉神社発祥の地」と言われてますおねがい

兵庫県明石市魚住町中尾1031にある住吉神社に奉拝してきました。海の横にあり、景色と神社が凄く雰囲気を出していました。

由緒より

底筒男命・中筒男命・表筒男命と気長足姫命を祀る。

伝承によれば、神功皇后の三韓征伐の際、播磨灘で暴風雨が起こったため、魚住に避難し住吉大神に祈願をすると暴風雨がおさまったという。凱旋後、神功皇后により住吉大神は摂津国住吉に祀られた。大阪の住吉大社に伝わる『住吉大社神代記』によれば、住吉大神より「播磨国に渡り住みたい。藤の枝の流れ着く所に祀れ」との託宣があり、藤の枝を海に浮かべると、魚住に流れ着いた。そこで、雄略天皇8年(464年)に当地に住吉大神を勧請したのが当社の創建と伝える。正応5年(1292年)に現在地に遷座した。海上守護、産業、和歌文学の祖神と仰がれ、交通安全、商工業、学業の守護神となっている。また、謡曲「高砂」に住吉、高砂の松の相生にしたとして住吉明神の神徳を称えており、夫婦円満の神でもある。


初めて住吉大神が祀られた地ということで、「住吉神社の発祥の地」と称されている。これは、上記のとおり神功天皇が播磨灘で暴風雨にあった際、当地に滞在し、住吉大神に平穏を祈願したところ風雨はたちどころに納まり、つつがなきを得たと伝承されることにちなんでいる。その際に皇后の衣を松の枝に掛け干していたところ風になびき錦のように美しく見えたことから「錦ヶ浦」と呼ばれるようになった。神功天皇が摂津の国の国住吉に鎮祭した住吉大明神が「吾が居住(す)はむと欲(ほ)りする処は、播磨の国に渡り住わむ」とお告げを出した。そのため、大藤を切り、海に浮かべ神意を伺うと「この藤の枝の流れ着く所に我を鎮祀れ」とのご託宣した。藤は当地の魚次浜んじ流れ着いた(『住吉神社神代記』)。これにより雄略天皇の464年4月初卯日にこの地に勧請し祀ったのがこの住吉神社である。以降、魚住庄の総鎮守社として崇敬される古社となった。


なお、境内の能舞台は、明石市内に残る唯一の能舞台で、山門、楼門、能舞台、拝殿、本殿が一直線に並ぶ東播磨地方の典型的様式を備えており、初代明石城主小笠原忠政(後の忠真)が寛永年間に建立したことが棟札から判明している。能が地方まで伝播した江戸時代初期の生活文化と歴史的変遷を知る上で貴重な資料となっている。


なお、周辺の漁船の多くが当神社にちなんで「住吉丸」の船名を付けている。

ええ神社です(^_^)a