預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇65

 収穫感謝の歌だとされている。確かに収穫は神の恵みだ。食事の際には感謝の祈りが相応しい。しかし、そんな事が教えたいのだろうか。いや、この詩の中には何か、秘められた神のメッセージがある。
 詩の舞台は何処か。シオン(エルサレム)である。かつてエジプトで奴隷であったイスラエルの民が、神に救い出されて導き入れられた「約束の地」だ。その「出エジプト」の事を歌っているのが5~8節である。それゆえに神を礼拝する、それが1~4節だ。つまり、収穫というものを、神による救いに基づくものとして感謝しているという事だ。
 では、私達はその事から何を学び、どう生きるのかが問題だ。そこでまず、収穫とは何かであるが、それは単に作物の事ではない。人生の豊かな収穫とは何か、という事だ。それを現す為のモデル、それが出エジプトなのだ。その意味する所を読み取らなければならない。
 1~2節を見ると、救われた者が皆、神の前に集まり礼拝する事が記されている。それはイスラエルもクリスチャンも共通している。しかし「咎が私を圧倒している」(3節)と言う。救われても尚、神の前で罪の意識に苛まれるというのだろうか。「しかしあなたは赦して下さいます」と続く。はて、すでに信仰によって赦されているのではないだろうか。これは何を現すモデルなのか。それは「白い御座の裁き」だ。その時、全ての人が神の御前に引き出され、クリスチャンも罪を調べられるのだ。「しかし、あなたは赦して下さいます」。キリストの十字架のゆえに、信じたゆえに「命の書」に名が記されているからである。そして新天新地(神の宮)で恵みに浴する。だから詩篇65:9~13節の収穫(神の恵み)は、天国の様子を示す型なのだ。救われて約束の地に入る、それこそが「人生の豊かな収穫」だという事である。その収穫を得る事を目指して生きよ、と神は語る、それが詩篇65だ。主が言われたように、全てを捨ててでも天国を手に入れよ、という事である。その様にして「主の大庭に住む」者は幸いだ。この幸い(豊かな収穫)に至る道は何か。それは「今、いかに生きるか」による。救われた者として、神の大庭に住む事(礼拝生活)を続けるなら、その延長線上に、その「豊かな収穫」がある。

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