預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇69(メシア詩篇)

 この詩からの引用が新約聖書には多くある。22篇同様のメシア詩篇だと言えるかもしれない。つまり主は、ここに示された通りの苦しみを受けられたという事だ。それも、故もなく(4節)、不当に。その事を、まず「彼らは理由無しに私を憎んだ」(ヨハネ15:25)と引用しているのだが、本当に理由が無い訳ではない。ただ、安息日に病人を癒した、人を救ったという(憎むべき正当な理由ではない、憎む必要も無い)事で憎まれたのである。確かに律法違反かもしれない。しかし、それを責めるという事は、一番大事な事は何かを分かっていないのだ。
 次に、主の「宮清め」を見て弟子達は、9節の「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」を思い起こした(ヨハネ2:17)。礼拝の為には何が何でも、いけにえが必要だ、というある意味「熱心さ」が主の宮を食い物(商売)にしているという訳だ。言わば「敬虔を利得の手段としている。彼らは知性が腐っている」(Ⅰテモテ6:5)という事である。
 そして21節だが、その成就が主の十字架上での酸い葡萄酒である。主が「私は渇く」(ヨハネ19:28)と言われたからなのだが、問題は、それを「聖書が成就する為に」言われたという所だ。本当は渇いてなかったけど作為的に言ったとすれば、それは「成就」と言うより「自作自演」となる。しかし、何が「成就」したか、それは「酸い葡萄酒を飲まされた」という事だ。詩篇69:21は、それを言っている。そして、それは兵士がした事なので、自作自演ではないのである。以上が「故の無い苦しみ」、不当に憎まれた、という事だ。それが主の受けた苦しみであり、主を信じる者にも起きる事なのだ。
 信仰故の苦しみの詩、その結論は「心の貧しい人達は(主が貧しい者に耳を傾けて下さるのを)見て、喜べ」(32~36)だ。最終的には御国を受け継ぐのだから、その希望を喜べ、それによって心を生かせ、という事だ。一番大事なもの(天国)は心の貧しい人のものなのである(参照マタイ5:3)。だから、最後の手段は、魂を御手に委ねる事である(Ⅰペテロ4:19)。現実の苦しみを、ただ我慢しようと言うのではない。苦しみの中にあっても、主の憐れみを求めつつ、最終的な勝利を感謝して主を賛美する事だ。

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